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長野県松本市から満州に出動した歩兵第50連隊。戦場は命がけであるという、単純だが大事な事実を肝に銘じたい。

 いつも基本的には戦時下の生活にかかわる話題を中心としていますが、ここでは満州事変当時、長野県から満州に出動した松本歩兵第50連隊の兵士のアルバムから、戦場の様子を伝える写真を選んでみました。戦争をするということは、生身の兵士がこういう現場に出向くこと、こういう目に遭うこと。そんな基本を、きちんと伝えるため、貴重な写真たちです。(複写禁止。使用の場合はコメント欄かⅩのメールで必ず連絡を)

 まずは作戦行動中、疲れて眠る兵士たちです。当時、現役の精兵ばかりでしたが、戦場の緊張感と疲労によって、こうした情景になります。

満州で座ったまま眠りこける兵士たち

 下写真には、銃弾が命中した鉄兜や装備が並べられています。所蔵している戦死者名簿にある名前ではなかったのですが、違う部隊の兵士の可能性もあります。死亡した兵士のものか負傷した兵士のものか判然としませんが、鉄兜の弾痕の状態を見ると、まず、生存は期待できないでしょう。

弾痕の入った鉄兜など。戦死者の遺品か

 下写真の弾痕が付いた鉄兜を手にする兵士は頭部を負傷しており、手にしているのはおそらく自身がかぶっていた鉄兜でしょう。このおかげで命をとりとめた様子ですが、負傷は免れませんでしたし、少しそれただけでも運命は違ったでしょう。そんな紙一重の中に放り込まれるのが生身の兵士たちなのです。

日本軍の鉄兜は優秀な部類だったといいます

 下写真は、弾痕のある鉄兜と、銃弾に貫かれたような日の丸です。日の丸はこげた感じで血染めでもあり、察するにこの東部を負傷している兵士が、日の丸を鉢巻きのようにまいて、その上に鉄兜をかぶっていたのではないでしょうか。サイズが合わなければ、そんな工夫もしたでしょう。そして銃弾が鉄兜に命中するとともに、内部の日の丸も衝撃で命中部分が割けたのではないかと思えます。

日の丸は血に染まりやぶれていて、鉄兜には弾痕が

 こんな銃弾が飛び交うのです。命が残るかどうかは誰にも分かりません。それが戦場なのです。

 そんな場所へ兵士を送り込む為政者に、どれほど大きな責任があるか。戦前は天皇を護る「臣民」が「しこの御楯」となることは当然であったので、為政者は良心の呵責を回避できました。「お国のために立派に戦った」と言い、遺族に賞状でも送れば、遺族はどんなにつらくても、それを誰にも当てることはできませんでした。表で泣くことも恥ずかしいこととされた時代です(ただ、当時の戦没遺族の手引きには、泣きたいときには泣いても良いと書いてありました。世間が許さなかったのです)。そんな上下関係の価値観の時代だから、戦続きだったのもうなづけます。

 もし、為政者が戦死者の責任をより大きく持つとなれば、戦闘の回避に力をかけるでしょう。そして、主権者である国民の生命財産を守らずして、存立はできないのが今の日本であり、戦争回避以外の選択肢を安易に想定するべきではありません。それが大きな犠牲を内外に引き起こした戦争からの反省だったはずです。簡単に「お国のために」といえるものではありません。

 しかし、為政者はそんな縛りから逃れて好き放題したいからこそ、戦前を理想とし、近づけていこうとするのです。主権者である国民は、そこをよく考えねばなりません。自衛隊は国の独立を守り国民を守るためにあるのが本筋であって、特定の為政者の思惑のために存在するのではありません。それが特定秘密の漏洩、セクハラなどをやっていては、残念至極。トップがしっかりしなければ、自衛隊も存在意義をどこにみつけるか、困惑するでしょう。最近の戦前の軍とのつながりに価値を見出す傾向も、その表れかもしれません。戦争回避の努力と隊員の生命も大切にする、そんな為政者の姿こそ、必要なのではないでしょうか。戦前日本を美化して隊員に植え付ける教育をすることではないはずです。

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2024年7月9日 記

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