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戦時体制下の教育

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徴兵制を敷き、帝国主義陣営として外征の連続となる明治からの日本では、教育も天皇を軸とした「神の国」と教えられ、わけのわからない「教育勅語」を覚えさせられ、有無を言わさず軍事教練と… もっと読む
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#太平洋戦争

戦時下、国民学校の子どもたちまで、訓練や国債購入を年間の活動って(´;ω;`)ー「自…

 1943(昭和18)年度、太平洋戦争真っ最中の4月、長野県小諸町(現・小諸市)少年団の年間計…

子どもの時から飛行士を育成せよ

 第一次世界大戦後、飛行機の発展から、これからは飛行機の時代として、各刻とも飛行士の養成…

学校の教材にも「防毒面」が登場ー形だけでも防空意識を浸透

 今の小学校に当たる国民学校にも、軍事の波はかぶさっていました。修身などの精神面に加え、…

戦時下、女学校から国民学校まで、女子は「なぎなた」で鍛錬。そして占領地の南方でも…

 表題写真と下写真は、長野県伊那町にあった伊那高等女学校(現・伊那弥生ケ丘高校)の1942年…

学校教育用のさまざまな掛図。軍隊をさりげに差し込み、神の話で盛り上げ、日本の四季…

 収蔵品は家じゅうのあちこちの空間に押し込んでいるのですが、きのう、かなりの不都合を発見…

太平洋戦争も下り坂の1944年発行の国民学校高等科1年用「職業指導掛図」、14歳(来年…

 こちら、財団法人大日本職業指導協会が1944(昭和19)年8月25日に発行した国民学校高等科1…

1941年春に発足した東京市大久保国民学校1年生の戦時下の足跡を成績表と身体測定に見るー疎開で食糧事情激悪か

 大日本帝国は日中戦争中の1941年4月から、それまでの尋常小学校・尋常高等小学校をそれぞれ国民学校初等科、国民学校高等科に改めます。その国民学校に最初に入学した少年の成績表・身体測定結果を1945(昭和20)年分までまとめて入手しましたので、そこから当時の子どもの姿を追ってみました。  1943年当時の身長118.4センチ、体重19キロは、1939(昭和14)年の全国平均に比べて身長は0.9センチ低いだけですが、体重は平均に比べ3.5キロ少なく、BMIでみると内田君は13

戦時下、伊那中等学校の生徒たちの思いは―戦時教育令に感激、必勝のため教科書封印…

 1945(昭和20)年4月より、大日本帝国は国民学校初等科(現在の小学校)を除くすべての学業…

松本市で戦時下を過ごした姉妹への聞き取り(下)ー教育勅語も覚えたが意味は知らなか…

 戦時中を長野県松本市の国民学校で過ごした姉妹からの聞き取り、続きです。当時の学校生活や…

対米戦争、もしやるならばーと政治家の覚悟を問うた山本五十六の手紙、真意理解せず学…

 1943(昭和18)年7月、国粋同盟総裁で衆議院議員の笹川良一は、1941(昭和16)年1月24日に…

1943(昭和18)年の英米排斥の中、卒業アルバムで意外なものが見過ごされ

 表題写真と下の写真は、太平洋戦争下の1943(昭和18)年3月、長野県伊那市の伊那高等女学校…

長野県諏訪地方の修学旅行を昭和11年と17年で比較ー戦時下の格差が如実に

 表題写真は、いずれも修学旅行でまとめた冊子です。右は1936(昭和11)年5月の長野県諏訪郡…

戦時下の子どもたちに皇国史観を教えたのは、教科書だけではありませんー絵本だってこ…

「日本ヨイ國」と題したこの絵本、岩手県出身の金子重正氏の作・画となっています。発行は1941…

軍事教練必須の戦時下中等学校の運動会で、呼び物は大模擬戦ー日中戦争下の諏訪中学校は「漢口最後の総攻撃」

 第一次世界大戦後、近代的な戦争は国を挙げての総力戦となることが自明となりました。少なくとも、戦争はより規模が大きくなっていくとされる中、大日本帝国では、潜在的な国防能力増進のため、各種の学校に現役の陸軍将校を配属させ、学生に基礎的な軍事教練を施す体制が1925(大正14)年の勅令「陸軍現役将校学校配属令」によって固まりました。背景には、宇垣軍縮に伴う将校の就職先という観点と、学内での教育の監視という側面もありました。  長野県内でも、各種中等学校や師範学校などで教練が行わ