さくらこまち
(短編:約6,000文字ー約12分)
帰宅すると、塗装が一部剥げた白木のキッチンカウンターの上に小さな花が飾られていた。
ジャムの空瓶らしい透明の小瓶に生けられていたのは、爪の先くらいの淡いピンク色の小花を、弾けんばかりにたくさんつけた可愛らしい花だった。そして桜とも少し違う、名前の知らないその花は、確かに見覚えのある花だった。
「かなちゃん、これどうしたの?」
換気扇をつけ忘れているのか、部屋中に焦げたニンニクの美味しそうな香りが広がるキッチンで炒め物をしている花奈に尋ねた。
花奈は眼鏡をかけた奥の、真っ赤な目を一度こちらに向けると、頬を緩めた。
「ああ、それねー。かわいいでしょ? 帰ってくる途中に会った女の子にもらったの」
「女の子に?」
かなちゃんに小さな子の知り合いがいたなんてと内心驚いていると、花奈は小さく首を振った。そしてグズグスする鼻を気にしながら笑った。
「全然知らない子だったんだけど、私が悲しくて泣いてると思ったみたいで、『これあげるから、元気出して』ってくれたの」
これ以上ないというくらいの鼻声でそう言うと、冷蔵庫に貼り付けたティッシュの箱から目にも止まらぬ速さで数枚引き出し、我慢できずに鼻をかんだ。
「コショウを振るまでは、なんとか耐えてたんだけど、コショウはやっぱキクわー」
そんな事を言いながらティッシュを捨てて、シンクで手を洗う。
花奈はここ最近いつも潤んだ瞳をしていて、鼻の下は真っ赤で痛そうだ。ひどい花粉症で、病院で処方された新しい薬はあまり効かないらしく、また病院へ行ってくると言っていた。
まだ花粉症と確定させるには、目の痒みも鼻水も微かな僕は、いずれ花奈と同じようになるのかなと、少し憂鬱になりながらも再び意識を花に戻した。
先端が少し広がっていて、ハートのような切れ目が入った花びらは、他の花びらと重なる事なく、それぞれ均等に五角形を描くように広がっている。
一つ一つは小さな花だが、一つの茎からいくつも咲いていて、それが集まっているので華やかだ。
やっぱりこの花、見覚えがある。
「女の子に花もらったのって、どの辺?」
僕の質問に、花奈はニヤリと笑った。
「なに? あっくんもお花もらいたいの?」
「え? いや、そういうわけじゃないんだけどさ」
「えー」っとニヤニヤしながら、再び菜箸を持って炒め物の仕上げに入った。
「いや、昔さ、多分これと同じ花を見ず知らずの女の子にもらった事があってさ」
「なにそれ?」
そう言って花奈は、その話詳しくと促すように、目をぱちくりさせて僕の方を見た。
「昔、小学校低学年頃まで、この辺に住んでた事があるって話したことあるでしょ? その時に一度だけ小さい女の子にこの花をもらった事があるんだ」
「へー、すごい偶然ね」
「もちろん、かなちゃんが会った子がその時の女の子だとは思ってないけどさ。あの時、すごく悲しい事があった後だったから、あの花をもらって嬉しかったんだよね」
「もしかしてあっくんもその時、泣いてた?」
「うん」
「泣いている人にお花をあげる少女なんて、何かの物語みたいね」
「確かに。でさ、あの時お礼を言えなかったから、もし会えるなら会ってみたいなと思ったんだよね。もしかしたら、あの時の女の子がその子のお母さんかもしれないし」
「なるほどね。もしかして初恋だった?」
「そんなことは……」
「ふぅん」
もう、仕方がないなぁと肩をすくめて笑うと、花奈は出してあった大皿に柔らかそうな春キャベツやニンジンを炒めた一品を盛り付けはじめた。
それを見て、僕はすぐに夕飯の席につけるように、リュックやジャケットを片付けにダイニングを後にした。
ー・ー*ー・ー*ー・ー*ー・ー*ー・ー
あの後、特に揶揄われることもなく花奈は場所を教えてくれたので、僕は数日後に女の子に会ったという場所へ向かった。
人事部から早く使うようにとせっつかれていた、溜まった有給を消化する良い口実だと、仕事を休んで平日の昼下がりにエコバッグを片手にブラブラと歩く。
「平日の昼間に、いい大人の男が何もしないで歩いてると、不審者と勘違いされるよ。外出ついでにスーパーで買い物でもしておいた方が良いんじゃない?」
花奈が出社の準備をしながら、ニヤリと笑ってアドバイスをしてきたのを、素直に受け入れた結果のエコバッグだ。
平日の昼間に男が散歩したって良いじゃないか、と心の中で文句を言いつつ、どうせ夕飯当番だし、普段の平日は食卓に並ばない刺身でも買って食べようと前向きに考えた。
いつもとは違うスーパーで、美味しそうな鯛の刺身と瑞々しい新玉ねぎを手に入れる事ができた。これでもし女の子に会えなくても、この戦利品が手に入ったから結果オーライだとホクホクしながら例の場所へ向かった。
そこへ向かう途中に小さな公園があり、そこで遊んでいる子供達が何人かいた。
あの中に花奈にお花をくれた子がいたりするんだろうか?と思いながら、公園の外で少し立ち止まって見ていると、目の前をスタスタと横切る小さな影があった。
その姿に、僕は思わず目を見開く。
目の前を横切るその女の子はあの時、まさにお花をくれた、あの女の子だったのだ。
「えっ?」
うっかり声をあげた僕に、女の子は振り向く。
黒目がちな瞳に、ふっくらとした柔らかなラインの頬。黒く真っ直ぐな髪は、肩より少し上のラインで揃えられている。季節を先取りした半袖のワンピースは水色で、袖や裾からのびる腕や足は白く、子供特有の柔らかな肌だった。
そう、あの時に会った子もこんな感じだった。
もう少し髪は短かったような気もするけど、青白い透明感のある白眼の部分と、黒くて大きな瞳は印象的だったので覚えている。
しかし、そんな僕を見る眼差しは不信感でいっぱいだ。
「え、あのー、えーと」
しどろもどろになりながら、目の前の女の子に説明をしようとすると、その子の後からやってきた母親らしき人物に、怪訝な顔で声をかけられた。
「うちの子に何か?」
これでは完全に不審者だ。
母親が来た事で、その子は走って公園の友達らしき子供たちのところへ行ってしまった。
「実は、あの……信じられないかもしれませんが、僕が子供の頃に、この辺りで花をくれた子にそっくりだったので、それでびっくりしてしまって……」
言い訳がましく僕がそう言うと、女の子の小さな上着を持って、ジッと見極めるような顔をしていた母親らしき女性は、少し虚をつかれたように僕の目を見つめた。
そして猫柄のエコバッグに目を向けてから、不審者疑惑が晴れたのか、警戒した雰囲気が和らいだ。
「そうだったんですね」
そう頷いた女性は僕と同じ三十代くらいだろうか。いや、もう少し若いか。ほとんど化粧をしておらず、短めの髪を無理に結んでいるせいで、後毛が多い。女の子の母親の割には目の辺りの印象が異なるが、鼻の形はそっくりだ。
「もしかしたら、その少女は夫の姉だったかもしれません」
それから夫から聞いた話ということで、その女性は女の子の姿を目で追いながらも教えてくれた。
その少女はお花が大好きな祖母の影響で、いつも庭で花の手入れを手伝っていたという。祖母は綺麗に咲いた花を、いつも誰かにあげていたらしい。それを不思議に思った少女は尋ねた。すると、祖母は「お花は人を元気にしてくれるのよ」と答えたという。
それ以来、元気のない人を見かけると、庭先のお花を摘んでは渡していたというのだ。
「じゃあ、あの時僕が泣いていたから、花をくれたんですね」
「きっとそうだと思います」
「それで、お義姉さんはお元気ですか?」
あの時のお礼が言えたらと期待して聞くと
「義姉は今、遠くで元気にしています」
そう女性は少し霞がかった青空を見上げて答えた。
その瞳は遠くを見ており、これ以上は踏み込めない雰囲気だった。
黄色を基調にしたカラフルなすべり台の上から、女の子が手を振っている。
それに気づいた女性は「では」と軽く頭を下げて、公園の中へ入っていってしまった。
ー・ー*ー・ー*ー・ー*ー・ー*ー・ー
僕は今日の出来事を、お刺身の並んだ食卓で花奈に話した。
「実際のところ、その人がどうしているのか分からなかったよ」
たっぷりの鰹節をかけた新玉ねぎのスライスを小皿に取っていた花奈は、首を傾げた。
「でも、元気にしてるって言っていたなら、元気にしてるんじゃない?」
「でも空を見上げてたし、その後言葉を濁していたからさ……」
「うーん。ただ単に個人情報だから詳しく話さなかっただけなんじゃない? あの美少女に似ていたなら、絶対に今は美人だろうし」
「え? それって僕がストーカーに見えたって事?」
「いやいや、そうじゃないけど。そうなる人も中にはいるから、用心してるんじゃないの?」
「そんなもんかな……」
「まあ、謎が解けて良かったじゃない」
花奈は買ってきた鯛のお刺身をたっぷり醤油をつけて口に運び、んーっと美味しそうに目を瞑った。
僕もこれ以上はこの話を続けても進展がない事がわかっていたので、花奈の言う通りに買い物をしていたおかげで不審者認定されずに済んだ話をすることにした。
その日の夜、ベッドに入ると僕は遠い昔の、あの日の出来事を思い出していた。
あの日はもうあと数日で卒業式という日で、学校全体がどことなくソワソワしていた気がする。
まだ低学年だった僕は、六年生の人たちがとても大人に見えていて、ああ、この人たちが学校から旅立ってしまうんだなとぼんやり認識していた。それでも、そこまで深く関わりのある六年生はいなかったから、自分にとっては無関係なイベントだと感じていた。
しかし、そんな僕にある出来事が待ち受けていた。
当時通っていた学校は、教育方針の一環で他学年交流というのをやっていた。他学年交流というのは、少し離れた学年が合同で様々なレクリエーションをするものだった。
その交流で、僕はひとりの男の子と仲良くなった。
その子は五年生で、二年生の僕にとっては兄のような存在だった。いつも合流する時に、小さく胸の前で手を振って嬉しそうに笑う姿が、学校の中で年上に認識されているという誇らしさと、自分だけに向けられている好意ということで、僕の心を満たしていた。
それなのに、その子が今回の卒業式のタイミングで遠くに引っ越してしまうということを聞かされたのだ。
偶然、学校の昇降口で会って、その話を僕に伝えたその子は、いつものふんわりと包み込むような優しさがなく、少し壁がある雰囲気だった。
今振り返ると、これから転校する彼の不安を理解できなかった自分は幼かった。新しい環境、新しい学校で生活が始まるのだから、期待と不安で緊張するのは当たり前なのに。
だけど、当時の僕は居なくなるだけでも寂しいのに、その子の少し冷たいような態度がさらに悲しく感じて、「元気でね」と言われたのに、下を向いて頷くだけしかできなかった。
来年も一緒に色んな行事で遊べると思っていた僕は、本当に悲しくて、その日、まっすぐ帰る事ができなくて、少し遠回りをして、普段は行かない他学区まで来ていた。
そこで、心細さが身体中を占めていき、ボロボロと涙が溢れた。
子供の自分には、この別れをどうすることもできない。
それだけはわかっていた。だから泣くしかなくて、悲しくて、悔しくて、ただただ悲しかった。
立ち止まって下を向いて泣いていると、視界に水色のワンピースからのぞく白い足が見えた。靴は男の子が履くような少しカッコいいスニーカーだった気がする。
顔を上げると、そこには可愛らしい女の子の顔があった。その子は心配そうに僕を覗き込んで、少し首を傾げて、「悲しいの?」と聞いてきた。その言葉に、さらに涙が込み上げてきた僕は、思い切り握った拳でゴシゴシと目を擦った。
「これ、あげるから。元気出して」
そう言って、女の子は後ろ手に持っていた淡いピンクの花を差し出したのだ。僕はその可愛らしい小花を見て、なんだかとても温かい気持ちになったのを、今でも覚えている。心細くて悔しくて悲しかったはずなのに、その花のおかげで胸の辺りがほんのり温かくなった気がしたのだ。
その花を僕がおずおずと受け取ると、その子は嬉しそうに歯を見せて笑い、くるりとワンピースを翻してどこかへ走っていってしまった。
それっきりだった。
あの後、何度かそこに行ってみたけど、会うことはできなかった。そして、結局僕自身も引っ越しすることになり、すっかりこの事を忘れていたのだ。
「今、どうしているかはわからないけれど、あの時、お花をくれてありがとう。あの時は悲しい気持ちと嬉しい気持ちがぐちゃぐちゃで、何も言えなかったけど、本当に嬉しかったよ。ありがとう」
そう心の中でお礼を言って、僕は眠りについた。
ー・ー*ー・ー*ー・ー*ー・ー*ー・ー
ある夫婦の会話
「今日、公園であの子に似た女の子にお花をもらった事があるって男の人に会ったわ」
「え? 今頃?」
「そうなのよ。わたしビックリしちゃった」
「当時はよく色んな男の子が訪ねてきてたけど、二十年以上経ってからなんて凄いな」
「あの子を見て驚いていたから、わざわざ訪ねてきたわけじゃなくて、偶然だったのかもしれないわ」
「そうか。しかし兄貴も罪な奴だよな」
「あ、それね。ショックを与えるといけないから、義姉ということにしておいたわよ」
「え? ああ、そうだよな。今になって、あの時の少女は男でしたって言われても混乱するだろうしな」
「ええ。それに海外でフローリストやってるから、取り敢えず遠くで元気にしてるって伝えたわ」
「まあ、言ってることは間違ってないか」
「会いに行かれたらどうかと思ったから」
「そうだな……」
「あの頃の兄貴は人を喜ばせたり驚かせたりするサプライズが本当に好きだったからな。それにばあちゃんも共犯で楽しんでたから、毎日大変だったよ」
「でも、基本的に人助けだったんだからいいじゃない」
「まあ、そうなんだけどさ」
「でも、この前のビデオ通話で、お義兄さんにその話を聞いたせいで、あの子、真似するようになったのよ」
「え? それはこのご時世だし、やめさせた方がいいんじゃないか?」
「そうなんだけど、ほら、あの子、言い出したら聞かないでしょ? だから私が渡してきて良いよといった人に、庭のサクラコマチを渡すようにしてるわ」
「ああ、君が見ていてくれるなら安心だ」
「お義兄さんのこともあるから、基本的には女の子か女の人にしてるわ」
「はは、そうだな。あの頃は兄貴に告白しにくる男の子が後を絶たなかったからな」
「ヘアドネーションをするからって、髪まで長かったんでしょ? あの写真のお義兄さんは、紛れもなく美少女よ」
「だな」
「でも、なんでワンピースなんて着てたの?」
「あれはばあちゃんだ。洋裁に凝ってた時にお友達のお孫さんにあげるのに、サイズが一緒だった兄貴に着せて裾とか調整してたんだけど、兄貴もみんなが似合うって褒めるから、その気になって自分の分も作ってもらってたんだよ」
「だからかー」
「ばあちゃんも自分の服を着てくれるからって、張り切っちゃってさ」
「それで、あの美少女が完成したのね」
「ああ」
「まあ、うちの子も同じくらい美少女だけどね」
「そうだな。あの頃の兄貴によく似てるってみんなから言われるけど、うちの子の方が可愛いな」
「ふふふ、あなたも親バカね」
了
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