教育課程研究指定校事業(国語)研究協議会でしこたま怒られた話。

業界関係以外の皆様からはなんのこっちゃですが、うちの学校は国立教育研究所というところから「研究して、よその学校が、おおーうちの学校でもそうしよう」という成果を発表しなさいという指定をいただいたいているのです。研究テーマが「話すこと・聞くこと」なのですが、このコロナ禍でどーすんだよ、なにもできないじゃないかといっているうちに、東京から視学官さまというかたが来られるということで、いそいそと準備して、お迎えして、ご指導を頂戴したわけです。その時の話ですが、エピソードモードじゃないので、全然面白くないです。はい。

「話すこと・聞くこと」ことが研究テーマ。コロナで対話が制限される中ではあるが、むしろコロナ禍での「話す・聞く」がどれだけできるかを考えてきた。15〜30単位時間などと限定されたものではなく、うちはほぼすべての時間を対話的にやってるから、系統的になっていない部分と、指導要領上の平仄と、現状走っている授業とを繋いでいく形で単元を再編成したり新たに構想した。どうせなら、提言的で野心的なものをと考え、同僚は評論文、こちらは古典テキストを主教材としての「話す・聞く」(国語総合)授業を(場所は体育館で)発表した。視学官さまから頂戴したコメントは「これは『話すこと・聞くこと』ではなく、『読むこと』です」以上。え、ええ、一見そう観られると思いますが、「自己評価、相互評価から自分たち自身の話し方に役立て」「話題について検討し根拠を明確に自分の考えを他者に伝える」「論理の構成や展開を工夫して意見を述べる」などなどすべて目標も評価規準も言語活動も評価も「話す聞く」を踏まえてございますよね。生徒のパフォーマンスもご覧の通りだったのですが……。そこにはほとんど触れられず、「これは読むです」。はあ。
やりとりするうちに見えてきたのは、どうやら扱った教材が「評論」「古典」だったのがダメらしい。「なぜ古典ではダメ(「話す聞く」にならない)なのでしょう」。そこには答えはなく、曰く「(話す聞くをやるのに)なぜ古典でなくてはならないのですか」「なぜ評論文でなくてはならないのですか」。質問に質問かあ。
どうやら、そもそもの考え方が違っていた(ワタシらが間違っている)らしい。私たちは、生徒がこれまで学んだり経験している既有知識をリソースとして、その取捨選択や組み合わせ(今回は新たに獲得した情報)により、生徒のアウトプットパフォーマンスを形成・評価しようとした。だからその前提となるソースは、評論だろうが古典だろうが、映像だろうがサブカルだろうがなんでもいいじゃないかと。しかし、彼らは、「話す・聞く」ためにふさわしい(と彼らが認定する)前提しか認めないのだ。スピーチのための題材、ディベートのための題材、話し合うための題材はいろいろあるからそれを使いなさい。たとえ教科書所収であっても、いや教科書所収だからこそ「読む」ための題材を使った時点で「話す・聞く」とは認められない、そう理解するしかなかった。
ウチの生徒に限らず、「国語」が好きでない生徒に教科書教材を読ませることに苦労している向きは少なくないだろう。古文や漢文などはなおさらだ。だから「なぜそのテキストを読むのか(選んだのか)」は生徒と共有したい。例えば「不死の薬」を読むときは、「これ、王様を説得しないと殺されちゃうでしょ。どういう上手いやり方使ってるかなー、で、その方法を使って、君も誰かを説得する言い方に応用してみよう」。そうすれば、自分ごととして古典を学ぶ意味や、学ぶことは相互に関係しあっていて繋げ、組み合わせることで、さまざまに役立てていくことができる学習観をも形成できると思うのだ。
この例は確かに「読む」領域に位置づける(べきと皆さんおっしゃる)ものではあるが、一連の「話題の設定、情報の収集、内容の検討、考えの形成、表現、評価」についての認識が生徒の中で形成される過程では「話す聞く」だって「書く」だってシームレスに行われる。だから、「焦点化」が必要だと言うのなら、それはゴールの「自分の主張の合理性が伝わるよう根拠を用いて話の展開や構成を工夫する」ことに目標を置いた時点で「話す聞く」領域でいいんでないの? ちがいますか、そうですか。

じゃあ、系統性ってなんなんだろうと考えさせられた。これまで身につけてきた資質・能力や経験やらといったことを、らせんぐるぐるにアップグレードしていくということなのだろうと理解していた。だから授業設計を行うときも、「これこれのことに取り組むことでこうこうの力をつけましょう」学習課題を設定したとして、既に十分な力があれば「はいどうぞ」でいいわけだが、そうでないのなら、既有の知見を拡大する形で様々なリソースを用意・提供し、課題解決のために利活用させることを意識してきた。
ワタシが今回設定した古典「芥川」の単元。ゴールはあくまでもビッグクエスチョン「こういう恋愛ってどうよ?」へのコメントを考えるところがゴール。ゴールめがけて、自分のコメントを考え、裏付けとして必要となる情報を自分で収集して、この恋愛のあり方を判断して自分の意見として形成し、他のメンバーの意見と比較して、恋愛観の見方、考え方をアップグレードしよう、だからこそ現代語訳も最初に配っちゃうし、文法事項は動画で見ればいい形にしたし、サブテキストとして「鬼に食われた種明かし」も俵万智のエッセイも出すし、多種多様な情報を取捨選択してトークテーマを考えるんだから、これって「話す・聞く」だよね、そうだよね。

そうじゃないとしたらひょっとして彼らの考える「系統性」というのはつながりや関連性よりも、ToDoリストのようなメニューを「網羅」することにあるのかもしれないと思ってしまった。しかも「重なることなく」ばらばらに。それって広がりはあったとしても、深まりになるのかなー。どうなんだろー。それこそ文脈なく活動だけを投げ込むことになりゃしないのかなー。そこを工夫しろって?  工夫したら違うって怒られるしなー。あーあ。あーあ。

結局グチモードでグダグダになりましたが、大単元なり、主題単元なりやろうとした時点で複合単元化することは仕方ないじゃんだし、そこがワタシのそもそもの研究主題なんだからそれを却下されたら、「おしまいデス」。死亡。
まあ、お国の事業でございますから、お金ももらってますし(ほとんどコロナで使えなかったから返すけど)、当たり障りのない研究(という名のおもしろくもないご意向の忖度)をまとめて参ります。って全否定された単元を作り直して、2月の中間発表資料を来週中12月25日までに提出せにゃならん。死のクリスマスウィークになりそうです。

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