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僕はきっと老害になる。あなたは?

「老害」
嫌な言葉である。

古来より老人は尊敬するべき存在であった。それは宗教的な一面があったことも否定できないが、産業革命以前の技術や価値観の変化が緩やかな時代では彼らの持つ知識や技術は若者にとって貴重な学ぶべきものであり、伝承されるべきものだった。

しかし、技術が凄まじい勢いで進化する現代において、彼ら老人の持つ知識はもはや役に立たず、時代に置いていかれる始末である。

置いていかれるだけならまだ良いものの、時代遅れとなった価値観を老人が若者に(意識的にも無意識的にも)ぶつけた瞬間にその老人は老害と指差されるようになる。

つまり、価値観や技術の変化に追いつけなかった人物は誰だって老害になり得る。

私は若者と分類される人間で、現代のIT技術や価値観の変化に比較的対応できている(と思う)。しかし、誰だって歳をとる。私も例外ではない。

私が歳をとった将来、私は技術や価値観の変化に追いついていけるだろうか。老害と指差される人物になり得ることを否定できるだろうか。そう考えたのがこのnoteを書いたきっかけである。

このnoteの結論

早速だが、私の考えを述べよう。それは、
「私は老害になりうる可能性が充分にある」
である。

みなさんも胸に手を当てて考えて欲しい。「私は老害になる可能性はどれくらいあるだろうか?」と。

ここまで読んでくださった方の中には「私は老害になんてならない!」と思う人もいらっしゃると思う。そんな方々のために、私が老害になる可能性を考えるようになった例え話をいくつかご紹介したい。

例え話①男女観の変化

言わずと知れた話ではあるが、世界ではまだまだ男女分業の傾向が根強い。過去を振り返ってみるとほとんどの国で男女分業は当然の行いだった。ただ、日本を含む先進国では価値観の変化により、男女分業から男女平等に移行しつつある。

これは性別や肌の色など生まれ持って変えられない要素が人生の不利益になるということはあってはならないというリベラル主義の考えに基づくものだ。

おそらく、この記事を読んでくださっている皆さまの多くは男女平等の価値観に反対することは無いと思う。むしろそれが当たり前と感じている人が大半だと思う。逆に男女分業を推進している人がいたら「なんと時代遅れな人だろう」と感じるだろう。

しかし、日本の場合を例に挙げると日本では男女共同参画社会基本法が制定されたのは平成11年のことであるし、まだまだ男女分業の価値観は根強い。それはなぜだろうか。

それは今の中高年世代(このnoteの中高年には老人という意味も含む)が若い頃は男女分業が当たり前の価値観であったからだ。「男は稼ぎ
、女は家を守る」これが普通の価値観だったのだ。その当時に「男も女も関係ない。共働きで家事も一緒にやるべきだ!」と声高に主張する人がいたら不思議な人だと眉を顰められたことだろう。

ここで1つ例え話をしたい。日本では歴史的に男女分業→男女平等という価値観の変化が既に起きている。ではもし、ここから今の男女平等の価値観が男女分業に回帰したらどうなるだろう?

あり得ない話ではない。価値観の変化が急速に起こることは既に歴史が証明しているし、結局男女平等よりも男女で分業した方が効率的で合理的だという考えが広がる可能性だって充分にある。

そして、男女分業の価値観に回帰した時、今現在の若者である我々はいわゆる中高年である。その時の若者達が「結局、男女平等よりも男女分業の方が効率もいいし、合理的だし、男女平等なんて問題ばかりの古い価値観だよね。」と言っていたらどうだろう。我々は何も思わずにいられるだろうか?私にはその自信は無い。

例え話②子育ての変化

子育てというのは日々変化している。江戸時代以前の村社会では子供は村の宝であり、村のみんなで育てるのが普通だった。資源に乏しい時代はそうやって助け合っていかないと子育てなんてとても出来なかったに違いない。

ただ、現代になるにつれて家族の形が村社会の一員から核家族化していき、現代になるにつれて子育てをアウトソーシングするケースが非常に増えた。子供が3歳になったら幼稚園か保育所に。子供が6歳になったら小学校。子供が12歳になったら中学校。子供が15歳になったら、、、。

ご覧のように子育ては村の仕事から両親の仕事、さらには外注される仕事になっていった。ここからまた例え話をしたい。

もし、このまま子育てのアウトソーシング化が進み、もはや両親が両親の役目を果たさなくなったらどうだろう。父親の精子と母親の卵子は抽出され、母親の妊娠は機械で代替され、赤ちゃんが誕生してもその世話は高度に発展したAI機械が行い、父親と母親は親としてのしがらみを味わうことなくそれぞれの人生を謳歌する。これが普通の価値観になったらどうだろう。その時中高年となった我々は眉を顰めずにいられるだろうか。もちろんそんな自信は私には無い。

何が言いたいのかというと、、

結局私が何が言いたいのかというと、「価値観の変化に追いつくのはかなり難しいのではないか?」ということである。

技術や価値観の変化に追いつけなかった人物が老害になる可能性があるのならば、老害になる可能性は私にも充分にあるのではないかと私は考えるのである。

しかし、ここでは老害と認定されるための最後のワンステップについて考えられていない。そう、価値観の押し付けである。

つまるところ、自分が中高年なって、その当時の若者の言動に思うところがあっても何も言わない、もしくは同じような考えを抱く同世代の人間とだけ「最近の若者は〜」と愚痴っていれば良いのである。

価値観の押し付けさえしなければ老害になることはない。まさに沈黙は金である。

SNS総ユーザー時代

しかし、ここで残念なお知らせが1つある。沈黙は金であるが、SNSを与えられたら黙っていられないのが人間である。今現在は中高年世代の大多数はSNSの使い方がわからないのでSNSは実質的に若者の世界になっているが、将来的には老いも若いも入り混じるより混沌とした世界になるだろう。

今現在の若者世代が中高年になった場合、SNSを使い続けることは自明である。その場合、今でいうTwitterやInstagram(将来的には違うSNSに代替されているだろうが)は若者と中高年が日々論争する世界になると思われる。

そのため、至る所で「最近の若者は〜」と「老害」の論争が起こるだろう。まあこの争いはずっと昔から行われてきた人類の伝統行事みたいなものなので、温かく見守るのが最善だろう。

ここまで読んでくださった方々へ

ここまで読んでくださった方々には心から感謝したい。私の考えをただただ述べた稚拙な文章であったが、いかがだっただろうか。よかったら皆様の意見をぜひお聞かせ願いたいと思う。お気軽にコメントをいただければとても嬉しい。



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