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最大公約数的な話題、気が合わない人

義務教育課程で学ぶ多くのことは、表面的な理解だけが記憶に残り、時にカジュアルに、時にぞんざいに使われる。
最大公約数という言葉も、おそらく何となくかっこいいという理由から、大人の日常会話でよく使われている。

ある整数を割り切れる整数のことを、約数という。二つ以上の整数が共通してもつ約数のことを公約数といい、その中で最大のものを最大公約数という。3003 と7436であれば、143。6776と4114であれば、242。18050と 2888であれば、722。

〈最大公約数〉という単語が数学的文脈を離れて使われるとき、それはおよそ以下のようなシナリオで用いられる。

彼の話のポイントは、今の時代は“最大公約数”的発想は意味がなくなった。(中略)TVで言えば、ゴールデンタイムに万人にウケるような番組はもう作れないという。なぜならば、いまや家族が揃ってその時間に TVを観る時代ではない。個々がバラバラな生活スタイルを送っているからで、その個々の関心に“ササる”企画こそが求められていると言うのである。(中略)誰もが満足するような“最大公約数”的な業態、メニューをつくり、単一ブランドでチェーン展開することのほうが、リスクが高いかもしれないことを示唆している。

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つまり、話題となっている人たちの間で共通している部分、ということである。クラスや会社の人たちで集まって議論をし、当たり障りのない結論が出た時にも、〈最大公約数的な結論〉といった表現が使われると思われる。

日常の言葉遣いに合わせるなら共通部分の方が直感的だし、数学的用語を使いたいにしても、積集合とかの方が正しい気がしている。初めて聞いた時には最大公約数で何を意味しているのか全くわからなかったし、わからないというとそれはそれで「数学やったことないの?」みたいな態度で馬鹿にされた記憶がある。

最大公約数という比喩がうまく行っているのか否かは置いておく。

最大公約数的な話題について考えてみたい。それは、全員の共有する話のトピックだったり、全員が賛成できるような、よく言えば了解が取れていて、悪く言えば当たり障りのないようなものである。

そして当然、そのような話題は、会話の参加者の数や属性が増えれば増えるほど、内容がなく薄っぺらい、価値のないものへとならざるを得ない。全員が共通して話せる話題ならともかく、全員が意見の一致さえもできるような話題についてはなおさらである。地元で20年以上過ごしてきた人と、進学や就職で地元を離れた人とでは、共通する話題は比較的薄いものになる。

人と、特に大勢と会話をする時には、何がその人たちの中での共通部分で、何について意見が一致していて、何について話せばいざこざがないようにその場を凌げるか、最大公約数的な話題を繊細に感じ取り、会話をコントロールしていく必要がある。仮にそういう能力が著しく欠けていれば、場違いなやつ、空気の読めないやつという烙印を押される。

もっとしんどいのは、表層的だと思いながら進めている会話も、それなりに楽しいふりをしないといけないことである。誰が付き合ったとか誰が別れたとか、あの会社よりもこっちの方が少し給料が良いとか、あの仕事は簡単で私には合わないとか、興味がなかったりそもそも相手の意見に賛同していなかったとしても、相手の機嫌を損ねないようにしないといけない。

腹立たしいことに、こういう気遣いをできない人に限って、僕自身が会話に興味がないことや、彼/彼女と反対意見に立っていることに気づいた時に、驚くほど幼稚に感情的になり、「お前は空気が読めない」ということを言ってくる。自分がわがままで、かつ相当に気を遣われていることには全く触れずに。

これは自分も思われている可能性だってある。というよりも、こちらが思っているなら向こうも同じように感じていることの方が多いと思う。つまり、向こうが馬鹿でこちらが気を遣ってやっているというのではなく、そもそも根本的に気が合わない、ということである。

育った環境がそれなりに似ていても、会話に求める目的や、会話の進め方について根本的な違いがあり、それが無意識レベルで互いのストレスになっているのかもしれないと考えている。だとすれば、

・自分が会話に何を求めるか
・会話をどう進めるか
・自分以外にはどのような会話の目的/進め方があるのか

これらについて考えてみると、自分が付き合いやすい人、付き合いづらい人、自分が会話をすることでストレスを与える人というのが、より見えやすくなってくるのだと思う。



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