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今宵の月のように

仕事であれ部活であれ、何かにひたむきに取り組めている人を見て、羨ましく感じることや、興醒めすることがある。どちらにせよ、これまで何にも打ち込めたことがない自分との距離を感じる。

好きなことがないわけではない。勉強もスポーツも映画も結構好きだ。勉強は人よりも能動的に、比較的広い分野に興味が持てるし、スポーツは観戦するのもプレイするのも好きだ。映画も割と見る方だと思う。

僕が映画好きだと言った時に、月何本くらいみるかを聞いてきてそれに答えたら、「あ〜そんなもんなんだ」とマウントをとる気色悪い人によく会う。鑑賞本数でマウントを取ってくるやつは薄っぺらい見方しかていないし、数を稼ぐために倍速で見たりするから、本当にしょうもない。鑑賞本数というわかりやすい指標があるから、映画への想いがなくても、時間さえかければ専門家になれると思っている人が増えている。趣味なんかなくても生きていけるし、むしろその時間とお金を自己研鑽に充てている方がどう考えても生産的になのに、趣味を持つべきという強迫観念に囚われ、始めやすい映画好きを自称する人が多すぎる。そういう人には「本当の映画好きじゃないじゃん」とマウントを取り返すんじゃなくて、「趣味がなくてもあなたは素敵な人ですよ」と優しく声をかけてあげたい。

ともかく、20代まででやらされる勉強もスポーツも、やらなくても良い映画鑑賞も、かなり好きなことではあるんだけど、どれか一つを実直に取り組めたかと言えばそんなことは全くない。集中力がない・覚悟がない・決断力がないなど、メンタルが弱いのも理由の一つだとは思う。

メンタルの弱さを自覚しているので、そこを強化しようと何度か頑張ってみたけど、あまりうまくいかなかった。「お前が集中できないのはお前の意思が弱いからだ」と、心の中で自分を叱咤しても、芯を喰ってないように思えた。

そもそも問題の根幹は、自分のメンタルの弱さや集中力の低さにあるのではなく、もう少し別のところにある気がしている。

例えば、勉強をしていて本やら論文やらを読んでいるとする。読んでいるまさにその時は、テキストに集中できていろんな疑問やアイデアが湧いてくる。しかし、一度読み終わってふと読んでいた論文から離れると、「疑問まとめてアイデア出して執筆して仮に論文が出たとして、それに何の意味があるのかな」と考えてしまう。

「究極的には、自分が今やっていることに何の意味があるのか」

バイトであれ授業であれ勉強中であれ友人との飲み会であれ、隙あらばこういうことを考えてしまう。この状態で、何かに集中して取り組み立派な成果を残す、なんてことができるわけがない。

信仰のある人であれば、自分の行いや人生そのものが、神の意志に従うためであったり、死後訪れる永遠の幸福を手に入れるため、という説明をするのかもしれない。特に何も考えてない人であれば、自分の仕事が人類の進化に繋がるんだ!という安直な言葉で自分を納得させられるのかもしれない。自分は信仰もない上に疑り深いので、どちらの説明も承服できかねる。

「何のためにクソ長い残業に耐えているの?」
「将来の成長につながるから。」
「何のために成長するの?」
「できることを増やして人を幸せにするため。」
「人を幸せにすることにどんな意味があるの?何のために?」
「…」

この類の質問を進めていけば、人間がやってることの全てに意味はない、という発想には飛びつきやすい。実際、仕事も趣味も勉強も、究極的な意味なんてないだろう。意味のない仕事や趣味や勉強に大人が熱中できているのは、究極的な意味に関心がないからだ。大人になるとは、人生の空虚さに真正面から悩むことを迂回し、アイロニカルに生きることである。

子供は人生の空虚さを正面から受け止めるが、大人は目を背ける。「自分がすることに何の意味があるのか」という類の質問は、子供だけが問いかける。大人なら、どこかでこの問答を打ち止めにしなければならない。

大人にも子供の時期があった。いつから大人は、「自分がすることに何の意味があるのか」という質問をしなくなるのだろうか。

自分がすることの意義が気になってしまう動機の一つには、他人が無意味なことをしていたとしても自分は有意義なことをしたい、という欲望がある。有意義なことをして、自分の存在意義を確立させたいという欲望がある。望んだわけでもないのに生まれてしまい、愛を感じることもできなかった子供は、自分が何のために生まれたのか、何のために生きているのか、まだ納得できていない。生まれた理由を見つけるために、何か有意義なことをしなければという焦燥感に駆られ、終わりのない質問攻めを始める。

子供が大人になるのは、人から愛をもらえるようになった時かもしれない。あるいは、人からの愛に気づけるようになった時かもしれない。自分が何も成し遂げなかったとしても、自分の存在を認めてくれるような人に出会えた時かもしれない。人からの愛を感じて初めて、「自分がそれをすることに何の意味があるのか」ということは気にならなくなる。質問の答えが得られたわけではない。質問をする動機がなくなるのである。

こう考えていると、みんなは愛されてるけど自分はそうじゃない不幸なやつだ、という何とも情けない考え方をしていることに気づく。だからといって、世界中のみんなが自分のことを好きでいてくれてると思い込むのは、不誠実すぎてびっくりしちゃう。ひとまず、人に好かれたいのならまず自分がその人を好きになれ、という金言に従ってみるのが良いのかもしれない。

とはいったものの、愛するとか好きになるとかよくわからないから、手探りの状態でスタートするしかないみたいだ。難しい。北緯〇〇度〇〇分、東経〇〇度〇〇分に愛があります!って教えてくれる、地図でもあればいいんだけど。

なにも地図じゃなくても良いのかもしれない。幸いなことに、僕の周りにはこういう生き方を誘導してくれそうな、音楽とか映画とかアニメがあるようだ。

今日もまた どこへ行く 愛を探しに行こう
いつの日か 輝くだろう あふれる熱い涙

今宵の月のように

この曲を聴いていると、雪が降りそうなくらい寒い日でも孤独を感じなくなるような気がする。この曲を聴きながら街に出れば、どこかに愛があるんじゃないかと前向きに歩いていけるような気がする。もし見つけられた時は、自分も誰かに愛されている時だと信じている。


よろしければぜひ