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上昇嗜好―大人の〈嗜好〉と子供の〈好き〉の相違点―

大人になりきれない逆張り野郎

タバコ、葉巻、ウイスキー、コーヒー、サンローラン、ブルガリ、グッチ、エルメス。これらは全て、暇すぎて生きているだけでは満足できない人間が作り出した、不用品である。時にこのような不用品は、贅沢品やラグジュアリーという異名でよばれる。このような贅沢品のうち、食べたり飲んだりすることができるものを嗜好品と呼ぶ。
僕は嗜好品やラグジュアリーな生活、そしてそれを好き好む人が苦手である。しかしその理由は、嗜好品が人間の生存にとって不要で、無駄な産物だからではない。人の生活は生存本能だけでは語れないから、「それって何か役に立つの?別に生きてけんじゃん(笑)」と言って、嗜好品は不必要なものであると非難するのは誤っている。嗜好に限らず、人の生活は無駄なもので溢れかえっているのだ。
僕が嗜好品とそれを取り巻く人を嫌いな理由は、そこではない。僕が嫌いなのは、嗜好品や贅沢品を用いて人への優越感を得ようとする態度や、そのような態度を助長するプロダクトとサービスである。畢竟、嗜好品や趣味によって相手よりもお金を持っている自分や、相手よりもアッパークラスな自分を演出し、忙しい現代社会で下がりがちな自己肯定感をなんとか保っているようにしか見えない。いわゆるブランド物を身に纏う背景には、他の誰かや、普段の自分よりもレベルが上昇した自分になりたい、という欲求があるのだろう。
このような、自分の社会的レベルを上昇させる機能を持った贅沢品や、それを嗜む行為のことを、上昇「嗜好」とよぼう。ここで上昇/下降の尺度となっているのは、1人4万円する寿司を食べているとか、高級シャンパンをよく飲んでいるとか、港区のマンションに住んでいるなどの事態で説明されるような、社会的ステータスである。つまり、ここで挙げたような嗜好は、擬似的にであれ人々の社会的ステータスを上昇させるような機能を果たしている。
子供の頃の僕たちは、人からどう見られるかなど気にせずに、自分のやりたいことに必死で取り組み、熱中し、失敗したり成功したりして、純粋な気持ちで好きなことに向き合っていた。好きなゲームをしているときは、意識せずとも笑顔が底から湧き出ていた。いつからだろう、純粋にものを好きになる気持ちを忘れたのは。社会的ステータスを上昇させる嗜好、上昇嗜好は、純粋な好きな気持ちではなく、人の優位に立ちたいという大人の汚い思いが先行している。嗜好という言葉には〈好き〉という漢字が使われているが、それは本当に〈好き〉な気持ちからきているのだろうか。それは、僕が幼い頃に抱いた〈好き〉という気持ちと同じなのだろうか。子供の僕からは、大人が言う「ブランド物やお酒が好きだ」という発言は、全て欺瞞に見えてしまう。大人はみんな嘘つきだ。自分の本心を覆い隠して、自分を誤魔化しながら生きている…
これは、大人になりきれない23歳の子供からの提案である。僕の提案は、子供の純粋な気持ちから生じる〈好き〉と、大人が嗜好品といった言葉で表す〈好き〉とを区別して考えるべきだ、というものである。概略的に言えば、子供の〈好き〉が時間をかけて発散される感情なのに対して、大人の〈好き〉はお金をかけて発散されるものである。大人は、忙しい社会の中で〈好き〉を効率的に発散させるために、嗜好品などのラグジュアリーなものに頼る、というのが僕の主張である。さらに大人は、お金によって〈好き〉を発散させる中で、社会的ステータスを向上させるように嗜好を方向づけていく。23歳児の僕としては、このように〈好き〉を二つに分けてもらったほうが助かる。なぜなら、子供の僕は子供としての〈好き〉しか知らず、さらにそれこそが最も価値のある感情だと考えているので、大人が違う意味で〈好き〉という言葉を使うと、混乱し卑屈な逆張り野郎になってしまうからだ。

純粋な〈好き〉とは何か

さて、子供の〈好き〉と大人の〈好き〉は異なる概念であるという仮説を提示したが、どこから相違点を探るべきか。まず注目すべきは、「子供の〈好き〉は混じり気のない純粋なもの」であるという点だろう。たとえば、純粋にカブトムシのことが好きで、夏休みになったらカブトムシを獲りに行きたいという一心で雑木林へ向かい、そこで一日中過ごす少年の髙橋くんのことを考えよう。彼はおそらく、カブトムシが好きだという純粋な気持ちで、時間を忘れて採集をおこなっている。髙橋くんは、〈カブトムシが好き〉という気持ちだけで行動しているのであり、《カブトムシを集めて売ればお金になる》や《カブトムシをたくさん獲ると人気者になれる》といったことは考えていないとする。このような少年は、純粋に好きな気持ちで行動している人の典型例だと言えるだろう。
それに対して、〈好き〉な気持ちに混じり気があるとはどういうことだろうか。〈カブトムシが好き〉ということ以外の動機から、カブトムシを獲るということだろうか。しかしこれは、〈カブトムシを獲る〉という行為の動機に混じり気があるだけで、〈カブトムシが好き〉な気持ちに混じり気があるわけではないだろう。ここで私は、そもそも〈純粋に好き〉な気持ち、という言葉遣いがミスリーディングであると主張する。《カブトムシを集めて売ればお金になる》ということを考えてカブトムシを獲りにいくとき、これはカブトムシに対する気持ちが不純なのではない。むしろ、カブトムシを獲りにいく動機に、〈カブトムシが好き〉な気持ち以外の〈お金になる〉などの不純物があるということである。つまり、〈純粋な好き〉という言葉は、〈好き〉という感情に程度があるように示唆してしまうが、〈好き〉という気持ちは基本的に一種類しかない。実際には、〈好き〉という気持ち以外で行為を導くか否かという点が肝要なのである。
このように考えると、子供の〈好き〉と大人の〈好き〉の違いは、〈好き〉という気持ちそれ自体の違いではなく、それだけで行為を導くか否かという点であると考えられる。昔はカブトムシが好きでよく雑木林に行っていたが、最近では全く雑木林に行かない山田さんを考えよう。山田さんが雑木林に行かないのは、カブトムシを好きではなくなってしまったからではない。むしろ、仕事で雑木林に一日中行くだけの時間がなかったり、雑木林に行っても疲れて翌日以降に支障が出ると考えたりしているからである。この場合、髙橋君と山田さんの違いは、〈カブトムシが好き〉という気持ちがあるのにも関わらず、髙橋君は雑木林へカブトムシ採集に向かうが、山田さんは向かわないという点である。

お金のある大人と時間のある子供

この際、カブトムシが好きなのにも関わらず、山田さんをカブトムシ採集から阻む要因となっているのは、〈仕事にいかなければならない〉や〈そんな暇がない〉といった時間的な制約である。子供である髙橋君は、時間を持て余しているので、カブトムシ採集のような時間がかかる遊びに興ずることができるが、仕事や付き合い、さらには翌日以降のことも考えなければならない山田さんは、時間的な制約から採集に向かうことができない。これは何もカブトムシ採集に限った話ではないだろう。たとえば、時間を忘れてゲームに熱中したり、スポーツをしたり、漫画を読んだりできるのは、時間が有り余っている子供の特権である。子供に比べ大人は、生活における時間的な制約が厳しい。
大人は、子供に比べて時間的に縛られているだけではなく、より多くのお金を自由に使うことができるという良い点も持ち合わせている。そして私は、嗜好品と呼ばれる類のものが高価なのは、子供が時間を費やして好きという気持ちを発散させる一方で、大人はお金を費やして発散させるからだと考えている。すなわち、時間がある一方でお金は持っていない子供は、時間を贅沢に使うことで〈好き〉という感情を発散させる。それに対して、時間がなくお金を持っている大人は、その分短い時間でたくさんのお金を使うことで、〈好き〉という気持ちを発散させる、ということである。タバコやお酒、そしてブランド物のバッグや服は、えてして機能以外の付加価値によって高額な値札が付けられている。タバコやお酒についてはそもそも年齢制限があるという要素もあるが、これらのプロダクトをお金がない子供が買ったり楽しんだりすることはないだろう。なぜなら、子供は時間的な制約がない分、自らの〈好き〉という感情をエネルギーに時間のかかる活動に興じることができるからである。このように考えると、お金のある山田さんがカブトムシ採集に向かわないのは当然で、むしろ山田さんは、高価格で売られている海外産の珍しいカブトムシや生き物に興味を向けると考えられる。

上昇をやめた先に

ここまで考えれば、《子供の好きと大人の好きは異なる》という主張の内実が明確になっただろう。子供の〈好き〉は、お金よりも時間を費やすような活動に向けられるのに対して、大人の〈好き〉は、むしろ瞬間的に多くの財を消費する活動へと向けられているのである。そして、タバコやお酒、ブランド物などの嗜好品が高額なことで、時間のない大人が、時間以外の指標で簡単に〈好き〉度合いを測れるようになっている、といった説明が可能となる。
〈好き〉の度合いが時間ではなくお金で測れるようになれば、自分が何をどれくらい好きかは否応にでも可視化されることになる。ある活動にどれくらいの時間をかけたかよりも、あるプロダクト、嗜好品にどれくらいのお金をかけたかの方が自分にも他人にも見えやすいからだ。こうして、〈好き〉の度合いが可視化されることによって、他者との比較も容易になる。他人よりも上へ、他人よりも何かを好きな自分へ向かい、人は終わりのない他者との比較に苛まれながら上昇していく。
しかしこのような考え方は脱却しなければならない。他人との比較で自分の好きなものを定義している限り、自分は本当は何が好きなのか、僕は本当は何がしたいのか、僕は何のために生きているのか、なんて、深淵だし答えもないような問いに苛まれるだけだ。来年から僕は働くことになっていて、これまでのように、好きなことにお金ではなく時間を割く生活は難しくなる。そんな中で、使った額を人と競いながら自分の好きなものを定義することだけは避けないといけない。だけどそんなことができるのかよくわからないし、そもそも働き出しても僕の〈好き〉という感情は変わらなくて、夏になれば次の日の予定も考えずにカブトムシを獲りに行ってみたい。難しいことを4000字も考えたけど、結局将来はよくわかんない。
世の中には、僕よりも先に働いている先輩が大勢いて、みんな子供の頃と比べれば大変そうだけど、それなりに楽しそうにやっている。もしかしたら先輩たちは、〈好き〉という感情の捉え方をドラスティックに変えて生きているのかもしれないし、あるいはそんな難しいことは考えずになんとなくやっていけているのかもしれない。まだ精神的に子供な僕にとって、嗜好品は、薄っぺらくてキザな大人が自分を大きく見せるためのものにしか思えない。けどいつか僕も嫌いだった大人になって、自分の〈好き〉という感情をうまいことコントロールしていく必要があるのかもしれない。それまでは、嗜好品のことをボロクソに言い続けてやる。

よろしければぜひ