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就職活動についての現状報告

「課題解決」という言葉が気持ち悪い。

僕は「気持ち悪い」「キショい」という言葉をよく使うのだが、今回は課題解決の気持ち悪さについて考えてみる。

おそらく、全く問題ないところにも無理やり解釈を加えることで、あるいはインサイトとかいう言葉で無理やり括って解決すべき課題を創出しているところに気持ち悪さの端緒がある。

課題解決をした先の世界としてよく上がるのが「今より生きやすい世界」とか「今より便利な世界」だったりする。

例えば、コンビニやAmazonなんから確かに便利なサービスだし、あれなしで生きていくことは結構大変そうに思える。

しかし本当にそうだろうか?確かにコンビニやAmazonが便利だとしても、その便利さは必要だったのだろうか?

少なくとも、コンビニやAmazonがなくても結構幸せに生きていた人はたくさんいるんじゃないだろうか?

こう考えると、良いものを良いものとしてとっておかないところ、無限に「便利」にしたがるところに、気持ち悪さを感じるのかもしれない。

さらに一番きしょいのが、便利にしたら「もうこれなしでは生きていけないよね」という論法で自分を正当化するところである。

「Amazonなんてなくても生きていける」といくら僕が叫んだところで、「もう世界はAmazonありきで回ってます、残念でした」と反論を喰らう。

その反論も尤もだが、こういう反論をする人には、世界が回ってしまっていることを根拠に、サービスやそれを作った自分を正当化しているように感じる。

畢竟、「僕/私は社会貢献をした」という笑顔の裏には、底知れない自己満足と承認欲求があるように思えるのだ。

友人と話していると、「自己成長していること自体が楽しい」「自分にしかないものを作りたい」「存在意義を見出したい」という言葉をよく聞く。

彼らは真剣に悩んだり考えたりしてるのだろうが、屈託のない笑顔で言われると、やっぱり気持ち悪いなと感じてしまう。

自己満足と承認欲求が、社会課題の解決というレトリックで覆い隠されているようにしか僕には思えないのだ。

ここまで考えたことを踏まえると、「気持ち悪い」という感覚の根源には2つ候補がありそうである。

1つ目は、矛盾が矛盾じゃなく見えるところである。自己満足と承認欲求という最強のエゴと社会貢献はどう考えてもどこかで矛盾しそうである。

にもかかわらず、エゴと社会貢献がどうにかして整合性を保っているように聞こえるところに、一種の疑念を抱いているのかもしれない。

この矛盾が矛盾していないように見える感覚は、錯覚や騙し絵を見た時の感覚に似ていそうである。騙し絵には何とも言えない気持ち悪さがある。

2つ目は、承認欲求や自己成長というエゴを無理やり隠そうとしているところである。

これはピエロを見た時の感覚に似ていそうだ。笑顔の仮面の裏には狂気が隠れているのではないかと、やはり疑ってしまうし恐怖を感じる。

ここまで、色々考えてきたが、人に気持ち悪さを感じることは、その人への否定ではないとも思う。そもそも、上で言ったことが自分にも当てはまらないとは全く言えない。

ただ、自分の気持ち悪さに目を瞑らず、自覚的に生きていけたら、ちょっとはマシになるのかもしれない。

よろしければぜひ