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後輩の独り言 I

こんにちは。後輩です。
初めて自分のことを「後輩です」と名乗りましたが、いいですね。

「先の輩(やから)」と「後の輩(やから)」なんて言うととんでもない言葉にも思えますが、〈関係性〉に注目すれば人間的な言葉に感じられます。私には先祖がいて、先生もいれば、先輩もいる。私は後輩だけど、私にも後輩がいて、そのとき私は先輩になります。先輩が誰かの後輩であるように。
そうして先代と後代が交わりながら、鎖のようになって生きているんですね。
そんなわけで私は、「先輩と後輩」という言葉を気に入っています。

コンビニでイチゴ牛乳を買った帰りに思い出した話です。
中学生の頃理科の授業で、光について学びました。要は、「物や色が見えるのは光があるから」というお話でした。
先生が私に聞きました。「光がまったく無かったら何か見えますか?」
正解は「何も見えない」ですが、私はちょっと困って答えられませんでした。先生は「見えませんよね」と言ってその場を凌ぎました。

その時私が考えていたことはこうです。「光が無ければ世界は見えない。じゃあ、世界は見ている側に立ち現れるのか、それとも世界の側に存在するのか?」
そういう中学生だったんですね。

今日の科学でも、人間は世界を、受容できる材料をもとに都合よく解釈していることが言われています。では、目の前にアリがいるとします。私は人間の仕方でアリを見て、アリが見ている世界はわかりません。何なら「目の前にアリがいる」ということ自体、「私が」そう認識しているだけのことです。

じゃあ、私の認識を離れて、私という存在とアリという存在が同じ時空間に存在することを、示すことはできるのでしょうか?「神のみぞ知る」という言葉は、そんな矛盾にケリをつけるためのものにも思えます。

というお話でした。イチゴ牛乳関係ないですね。イチゴ牛乳といえば、小学生の頃「イチゴ牛乳の色素は虫の血だ」なんていう都市伝説が流行りましたが、「だとしたら自然由来の着色料ということになる?ところで虫の血は何色なんだろう」と思っていました。
小学生の頃からそうだったんですね。

とにかく、そういう幼少期を送り、今でもそれを引きずっているような後輩とお酒を飲んでくれる先輩への感謝は、宇宙と同じサイズです。

おしまい。

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