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娘が決めた父の最期のプラン

ご覧いただきありがとうございます。この記事は父の死について書いています。お辛い状況の方は落ち着いたときにご覧ください。

余命1ヶ月の告知を受けた父の記事はマガジンに綴っています。今回は安楽死を希望した父の続きを書きます。


1.心に決めていた最期のプラン

ふと気になって病室に行くと「安楽死ってどうかなぁ?」と小声で相談してきた父に、今から思えば厳しいことを言ってしまったなぁと思います。その頃の私は“病院の死”しか知らなかったから。今だったら別の返事をしただろうなと思います。

父の想いを知った私は、そのままナースステーションに相談に行きました。余命1ヶ月で治療法が何も無いと医師から告げられたとき、父が唯一言った言葉は「どうか、苦しくないようにだけ頼みます…」でした。そのとき私は父の代弁者になろうと決めました。そして徐々に固めていた計画がありました。

師長さんにお願いしたのはこの内容でした。

①自分でトイレに行けないほど吐き気が強くなったら、眠らせる注射を24時間使ってください
②その状態になったら個室に移動させてください
③私と叔母が最期まで付き添う許可をください
④もし目が覚めるようなことがあれば最大限まで注射薬を増やしてください。父は苦しいだけだから。
⑤もし眠らせる注射が効かなくなったらモルヒネ(麻薬)を使ってください。



病院は急性期の病院だったので、治療をしない場合、通常は転院しなければなりません。私自身もホスピスを2件見学に行っていましたが、どちらも入所まで2ヶ月~半年かかる状況でした。また、父自身がホスピスには行きたくないと言っていたのもあり、担当の先生がそれまで持たないだろうとのことで、この病院で最期まで診ていただけることになりました。

2人の担当医のお話では、病状が悪化して腹水が溜まってきたら、おなかにチューブを入れて水を出す措置をするとのことでした。ですが水が溜まって苦しい状態でチューブを留置するのは、さらに体動の制限を受けるため苦痛が強くなります。また水の排泄がうまくいかない場合は、毎日洗浄したり、薬剤を貯留したりと、さらに手を加えることによって弊害が起こることが考えられます。

父がそれを望むかというと… 治療法が何も無いと知った時点で、もう何もしてほしくない、何をやっても無駄だろ?という印象でした。叔母が進める民間療法でさえ嫌がっていたので、父が苦痛を伴う処置を望まないことは明らかでした。

急性期の病院に最期まで置いていただいて、さらにこうした希望を聞いていただけたことは本当に有難く、今も心から感謝しています。



2.歩かなくなった日

父は4人部屋の窓側のベッドにいました。病室にもトイレがあるのでとても助かりました。吐き気が強くなって臥床している時間が多くなり、たまに起き上がっても起立性低血圧でめまいが起こり、余計に起き上がれない状態になっていました。

床頭台の上には、数週間前に叔母とともに大学病院まで行って購入してきた民間療法の内服薬が、袋にいっぱい入ったまま置かれていました。父は嫌がっていましたが、叔母が「お願いだから何か治療して。でないと後悔してしまう」と泣きながら懇願したので、父はやむなく受け入れたのでした。が、確か2,3回飲んだところで吐き気が出現して飲めなくなっていました。

枕元には音楽好きの父がいつも使っているMDプレーヤーとヘッドホンがありました。でももう耳に当てることもなく無造作に置かれていました。寝ているのか起きているのか、黙って目をつぶって、ただただ平常心を保つ努力をしながら、その時を待っているかのようでした。



私がベッドのそばに座っていると、ちょっとトイレ行こうかな…と起き上がりました。病室の中なので私が支えながら移動して、ドアの外で待っていました。するとトイレから出てきた父が「血吐いた」と渋い顔をして出てきました。見ると口から赤い淡のようなものを少し吐いたようでした。少量とはいえ、父にとってはかなりショックだったようで、その時から動かなくなりました。

私はナースステーションに行き、そろそろ個室に移動させてもらえないか、そして眠らせる注射を始めてほしいとお願いしました。その日はもう夕方だったので「わかりました」とだけ返事をいただいて、後ろ髪を引かれながら私は帰宅しました。



3.眠った日

翌朝のことでした。「午前中のうちに個室に移動します。ご家族が来られてから移動しますが、何時頃に来られますか?」と病院から電話がありました。個室を調整してくださったようで、本当に有難かった。「10時には行きます」と返事をして、私は急いだ。父の様子が気になった。

病室に入るとすぐに、数人の看護師や助手さんがやってきて、あっという間に個室に移動しました。ベッドを移動させながら父の顔を見ると、眉間にしわが寄っていて苦しそうで、小さな声で唸っていて、あ、もう歩けないなとわかりました。私が来るまでに、もしかしたら何かご迷惑をかけてしまったかもしれないなぁと思いました。

そして点滴に機械を装着して、眠らせる薬をすぐに始める準備をしてくました。担当の医師が「始めていいですか?」と私に確認し、注射を開始しました。ドルミカムという睡眠薬でした。

30分ほどすると、苦痛表情がなくなりスヤスヤと眠り始めました。静かになった病室で叔母と2人、ベッドサイドに座り込んでいました。叔母は「これでええんやな、ラクになったもんな。」と自分に言い聞かせるようにつぶやいていました。

私たちには13年前に延命治療を行なった叔父の経験から、望まない状態で3年も生かしてしまった後悔の念があります。また、それによって受ける家族や身内への影響は計り知れないことを、私たちは知っていました。
延命は誰の幸せにもつながらないー
私と叔母は教訓にしていました。



4.人間の適応力のすごさ

父が余命1ヶ月と告知を受けてから、ひと月と一週間くらいでした。担当の医師は、私たち家族には余命数ヶ月と伝えましたが、父には、おそらく自由に動ける期間を告げてくれたのだろうと思います。

ところが予想外に転移した部分が悪化し、早く進行していることを聞いていました。これは看護師の直感としか言いようがないのですが、あと2週間くらいかと思いました。

職場には、父が個室に入ったら最期まで付き添いたいので休ませてほしいとお願いしていました。父ひとり子ひとりだったので理解してくださいました。昼間は叔母が付き添い、夕方から朝までは私が付き添うことにしました。



点滴と尿管が入り、喀痰吸引をしてもらいながら、一日中眠って過ごす状態になりました。ですが人間の適応力というのはすごいと思いました。ドルミカムは暴れ狂う人でも眠らせてしまうほどの強い睡眠剤です。微量でも間違えると危険なため20倍くらいに希釈して、精密機器を使用して注入します。

ですが父の体は2日もすれば慣れてきて、目を覚ますようになりました。薬剤で眠らせているのだから、目が覚めても意識もうろうで、思うように動かない体に苦痛を感じて唸り声をあげるだけでした。私はほぼ、病院に行くたびに「薬の量を増やしてください」とお願いしていました。

仲の良い知り合いや叔母は、父の体をたたいたり、返事を待っているかのように話しかけたりします。きっと残りわずかな時間を感じていて、少しでも言葉を交わしたい思いがあるのだろうと思います。だけど私には、目覚めても、口も思うように動かないだろうし、言葉も出てこないだろうし、苦痛なのがわかります。

私自身も辛かった。だけど父のために言いました。「できるだけ起こさないようにした方がいいと思う。聞こえているかもしれないからそっと話しかけるのはいいけど、目が覚めても苦しいだけだろうから。」と。叔母はしょんぼりしてしまい、私は自分が鬼のように感じました。



5.最後の選択

睡眠剤は日に日に増えていきました。それでもなお、父の体は目を覚まそうとします。ある日の深夜2時頃だったでしょうか、父はかなり覚醒しようとしていました。大きな唸り声をあげて体を動かそうとするのです。

苦しそうな表情で何か言おうともがいているようでした。私は(あかん、意識が戻らない方がいい)と思い、ナースコールを鳴らして「目を覚まそうとするんです。苦しそうなので薬の量を増やしてください。」と当直の看護師さんにお願いしました。

しばらく経って看護師さんが戻ってきてこう言いました。「先生に連絡しましたが、お父さんに使っている薬の量はこれで最大限なんです。これ以上は増やせないということでした。」と。通常1本でも十分すぎるくらい効きますが、父は1日に20本まで増やしていました。おそらくこれ以上は致死量に達するのだと思いました。

だけど私には迷いがなかった。最後のプラン⑤です。「わかりました。麻薬を使ってください。先生は何時頃に来られますか。」「朝いちばんに来てもらうよう伝えますね。」と言ってくださいました。



少しでも父をラクにしてあげたい。こんな苦しい状態の日が一日増えたところで喜ばないだろうから。旅行、登山、ウクレレ、ダンス、音楽、温泉、ボランティア…多趣味だった父が、ベッドの上で唸っている日が増えたところで絶対に嬉しくないと、私には確信があった。

麻薬は祖母のときに使ったと父が話していたのを覚えていた。確か投与してから2日後だった。どれくらい持つかはその人の心臓の強さにも寄るが、もはや中枢神経の伝達を遮断してしまうので、もう二度と意思疎通ができなくなる。私は覚悟した。

※(麻薬にもさまざまな種類があり、その人の状態に応じて調節可能なものもあります。一概にすべての麻薬がこうなるものではありませんので、誤解のないようにお願いします。)

9時頃、叔母が部屋に入ってきた後、すぐに主治医の先生が来た。先生は私の顔を見て「いいんですね?もう二度とお父様とお話できなくなりますが大丈夫ですか?」と確認をした。私は「はい。苦しい状態の日が一日増えたところで父は喜ばないと思うので、お願いします。」と頭を下げた。

先生は静かにうなづいて準備をしに行きました。窓際でうつむいて座っている叔母に伝えました。「おばちゃん、眠り薬はこれ以上増やせないから、麻薬使うからね。ごめんね。」と。叔母は手で顔を覆いました。祖母のときの経験から、それが何を意味しているか叔母にはわかっていました。



6.医師と家族と看護師の関係

人は、遅かれ早かれ、心臓が止まるより早く意識を失います。病状によっては、もっと早い段階で意識を失うこともあります。その後はもう自分ではどうすることもできず、本人が決めていなければ家族にその決断が託されます。

たいてい今の年代の高齢者さんは、戦争で多くを失った経験があるからか死と向き合うことを恐れ、自分の予後をできるかぎり避けようとします。親は自分の最期を自分で決められないのです。ただ、延命はしたくない、苦しいのは嫌だ、自然に逝きたいという希望があれば、あとはご家族に一つ一つの決断がゆだねられます。

もしご家族が、ご本人の意思よりも、ご自身の一時的な感情を優先して決められた場合。あるいは医師任せにした場合、誰も望んでいない状況になることが往々にしてあります。いざというときのために、冷静に判断する情報を持っておきたいものです。



今回書いた父の最期の計画は、「看護師さんだから出来ることだよね…」と思われた方が多いかもしれませんが。実はそうではないんです。『家族だから』出来たことです。

もし私が看護師の立場なら、医師に意見したり希望を言ったりすることはできません。看護師には“医師の指示に従う”という法律があり、また雇われている立場上、利権を考えると意見できないというのが現状です。看護師の私たちも情けない気持ちになることが少なくありません。

しかしながら、医師はご本人・ご家族の意見には耳を傾けます。拒否していることを無理に推し進めることはできませんし、本人や家族の同意なしに治療はできません。ただ、医療は命を救うことが職務なので、家族が同意しない場合、その証明書を求める医師もいます。医師の資格と立場を守るためです。

本来、看護師は医師とご本人(ご家族)の中間に立ち、客観的な意見が言える立場であるべきと思います。ですが現状はそうではありません。よって、ご家族は“こういうふうにしたい”という方向性を持ちつつ、どの組織にも属さない第三者的な立場の看護師に相談しながら、具体的な方法を考えていくことが最善ではないかと思います。


確かに、私は看護師なので具体的な計画を立てることができました。同時に医師の立場と家族の立場を理解しているから、恐れず希望を伝えることができたと思います。ですがこれから自宅で看取る人が多くなる中、おのずとご家族が本人の代弁者という役割になっていくことと思います。
穏やかな最期の時を過ごせることを願っています。



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