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不登校で再考する子供の評価<SP-4>転写学習の問題

◾️学校に代表される転写学習とその影響

今回のテーマは前回<SP-3>に引き続き、学習する側から見た転写学習について深掘りしてみます。学脈不動の教育環境→学校教育の学脈転写→転写学習(不転写パターン=不登校)まできました。子どもは不登校という表現で学びの転写を拒否するわけですが(集団行動での不適応もあるので、不登校の理由はこれだけではないです)、この「不登校を元の登校生活に戻すことが果たして吉となるのか?」については、多くの人たちが疑問を呈しています。

むしろ、探究学習やSTEAM教育などのオルタナティブ教育や、AIの実装が前提になってきた社会に適応した学校教育が模索されてる中、従来の形式の学校教育(特に義務教育)も相応な変容が求められています。「このまんまじゃだめだよね」って多くの大人が思っている学校に、「学校は行きましょう」って誰が言い切れるのか? もう自信ないです。

今回は、この「もうだめだよね」って何がダメなのか?、何が解決を求められている課題なのか?を学習者の視点で試論します。

◾️転写学習が引き起こす大人になってからの不具合

小中学校ぐらいだと転写学習による不具合は、不転写(不登校がその典型)ぐらいなのですが、これらの延長にある学校制度を卒業して、社会に入っていくと、刷り込まれた学脈が人生にマイナスで働きます。
 仕事をしながら勉強していくことは必要なことです。資格を取るために勉強することも、社会人大学院に行くことも、スキルを独学で獲得することも、確かに、間違ってません。
 しかし、膨大な情報のなかから、特定のコンテンツを無条件に受け入れることは時代的に昔のパターンになっていることを言いたいのです。資格も、大学院も、独学も、パッケージ化されたコンテンツとして扱うなら、すぐに怒涛のような知識とスキルの変化していく大波に流されて、後手後手の学びになっていきます。


 この反対に、自分の学びのゴール(コンテンツの外にゴールがあるもの:直進学習、コンテンツの奥に常にゴールがあるもの:創発学習、人生のゴールから逆算されるもの:天啓学習)があって、そこに意味を与えてくれる「気づき」のきっかけをくれる場として扱うなら、資格も大学院も独学も膨大なコンテンツを圧縮してくれます。知の濃度が高い効率の良い学びになります。コスパではなく、コンテンツ・パフォーマンス(コンパ?・・死語復活)が良いのです。

10学んで10ではなく、10学ぶ前に9を減らして1にして、その1から次に学ぶ10を見つけていくような、圧縮と連鎖の学び。まあ、きっとこの手のノウハウでも「独学大全」(読書猿)くらいの量なので、ボーッとしてしまうのが普通だよ。だからこそ、学習の前に学脈への意識的な変容が求められるね。

 重要なのは学びのコンテンツ量ではなく、コンテンツを圧縮し、連鎖を導くコンテクストなのです。ですから、今の学びを通じて、自分は学脈転換を伴うような学びに向いているかどうかいるかどうか意識する、それが「学脈ー学習」のセットで見る意義だと思う。じゃないと、キャパオーバーで学び鬱になっちゃうよ。


◾️ここまでの学脈変容4タイプで語れそうなこと:まとめ

さて、転写学習の課題に入る前に、学脈の話のまとめ


・誰もが、意識的に学ぶようになった時点で学脈転写から入る(子供の遊びは学びと不可分であり、学脈未分化の状態)

・ギフティッド(Gifted)は、早い段階で学脈天啓を意識することになる(親を含めた環境側が、年齢に応じてその意識と学脈変容をサポートする)

・学びのゴールが自己の中に確立した時、多くの場合、学脈転写から学脈直進に変容する。ただし、学脈直進のタイミングとスケールは個人差が大きい。

学脈直進は、学びのゴールが喪失(諦めや違和感)することによって、次の変容になる。(次の学びのゴールによって再度、学脈直進か、他の3タイプに移行)

学脈創出は、単発的な体験(プロジェクト的な学びのゴール、大型の探究学習への参画など)によって偶発的におきる。その後の学脈変容のための原体験(フローなどの没入感とセットになって出てくる学び方への気づき)となる

学脈創出に自覚的になるのは、自らコンテンツを開発する(作品や提案など)ような場面に身を置くことで、学びにある深みに行き着いた時。コンテンツ創造と一体になって、学び方自体の創造が習慣化していく

学脈天啓は最も個人差が大きく、いつ起きるかは想定できない。しかし、人生後半になって人生のゴールを意識しだすと、そこに学びのゴールも現れやすくなる。その時点で学脈変容が起きて、学脈天啓に移行する。

学脈天啓には、その人の学ぶことへの強い覚悟らしきものがある。ただし、見た目の学びパターンは、転写・直進・創出のどれかに近い

ちなみに、学脈ー学習は、戦略ー戦術、OSーアプリケーションの関係なので、学習と戦術とアプリが選択されることは、学脈と戦略とOSは自動的に決定してしまっている状態を意味します。この逆はありません。ですから、ここで推奨している「学脈に意識的なること」は、戦略を先行させる、OSの特性を考慮することと同義となります。 多くのアプリを稼働させすぎて、フリーズしてしまうスマホ・・・あるある(自分も含まれてるので、笑えない)

◾️転写学習の課題を考える

 ここからは、切実な話になります。大コンテンツ時代に限られた学びのリソースをどう使うか?、が実利的に目指す場所です。学脈転写に染まった転写学習になってしまっている自分がいないだろうか?、に自覚的なる必要がありそうだという話です。

 ライブ感を加えると・・・。子供の不登校が学脈直進で「学校にはいきたくない!」と言い出しても、環境側にいる親が過去の学校制度に学脈転写されたままだと「早く学校に行けるようになりなさい!」になっちゃって、ますます事態が悪化する、望まない方向に向かう・・・ってな話っす。

なので、ここでの話は環境側を含めた学脈転写による弊害(必要以上の転写学習)についてです。皆んながより自覚的になって「こりゃやばそうだ」を腹落ちさせる意図で書かれています。

・コンテンツ編集権:
・コンテンツ選択権:
・学習結果の評価権:
・学習期間の自由度:

タイプごとの違いを鮮明にさせるための主要4項目なので、あくまでも特徴を際立たせるための代表的な項目だと思ってください。

図表16

1)コンテンツ編集権のなさ

これはカリキュラムが与えられるものという刷り込みが起こす人生のマイナス面です。子供の頃はまったく気がつきませんが、大人になってえらく差が出るのは、自分でカリキュラムを組むという能力の差です。私たちはフォーマットに囲まれて社会を生きています。お役所でも、ネット通販でもフォーマットに少なからず記入します。生活必需品なんです、フォーマットって。で、職業場面になると、やや複雑さを増しますが、それでもフォーマットは一般的です。仕事で企画書を書くときも書式や項目はテンプレートがあって、それに沿ってアイデアを書き込みます。まあ、ここまではコンテンツ作成の賢さでカバーされます。
 でも、もう1バージョン上の賢さがあって、状況に応じてフォーマット自体を作る能力です。会社なら成長や事業の種類に応じて、アカデミックならリサーチする時の質問フローも一種のフォーマットの創造です。白紙の状態からフォーマットを作成できる能力は新しい学脈を創出する能力とも言えます。今度は、これを関係者にフォーマット記入してもらうことでプロジェクトの持つ学脈の転写を促す時に使います。
 ビジネス戦略(学脈)に沿った戦術内容(コンテンツ)をメンバーに策定してもらうためにも使います。転写学習は転写される側に終始していますから、学脈をフォーマットにして周囲に流布させるような体験とは程遠いんですな。探究学習やプロジェクト学習は新しい学びの軸をその場に創造し、共有する過程が魅力です。この時、方針に沿った具体案のアイデアをどう出して、集めるかがポイントになるわけですから、リーダーは名称はフォーマットではなくても、メンバー全員が焦点を当てて考えることのできるフレームは生み出せるのが望ましいですよね。探求やプロジェクトの方針に沿ったアクションプランを周囲に出してもらうために、見えない学脈をフォーマットで誰もが、同じ方角に向いて、多彩な発案ができる、これらを形にする力、です。
 転写学習に染まると、フォーマットを作ること自体を「私にはできません」って恐れるようになります。コンテクストを可視化する練習したことないからさ。
 でも、自分の人生のフレームワークは遅かれ早かれ求められます。人生ゴールを目指すなら、何が大切で、何を手放せば良いのかに自覚的になることですから、自分に自分用のフォーマットを作ってあげることです。自分だけが引き受けられるものですからね。



2)コンテンツ選択権のなさ

小学校の国語・算数・理科・社会のような決められた区分けと、全方位で学ぶことを良しとする学脈は、あなたの点数は全部足すと何点?みたいな学びの風土と一体になってます。
 別なところから語ってみます。私たちは、強みに焦点を当てようと言われてますが、この裏には、「強みだけに傾注することをへの後ろめたさが刷り込まれてますよね」というメッセージとがあります。どうも私たちは、学ぶ側が取捨選択をしてはいけないという信念が出来上がっているところがあります。どうしても、苦手を克服しておかないと恥ずかしい、何か言われそうと思ってしまうのです。しかし、これらは全て平均点があって強いだの弱いだの言っている話です。弱みを消すって、平均点に近づくってことですから、下手すると、自分のせいでますます平均点が上がって、次の凹み部分を克服せよってな展開になってしまします。でも、苦手ってなくしたい、その気持ちは消えない・・・。
 なので、強みっていう単語を使わないで、弱みっていう単語も出てこないようにして説明します。コンテンツ選択権とは学び続けることが好きなコンテンツ群に重心を置くことです。そして、それを再編集して、得意なことに転換するまでを範囲とします。自分で完結できるはずなのです。学脈直進的な発想ですが、好きな学びがあったとき、そこにコンテンツの外に学びの目標をステップごとに置ければ、誰でもできる可能性があるのです。著名な人なら、さかなクンとか。無名な人なら、ウチの長女とか。
 「好き」だけは学脈転写を超える力を持っています。だからこその学脈直進です。
 ですから、「どんな学びでも目線を遠くに持ってきてもいいんだ」体験は貴重です。そして、肝となるのが、好きの先にある遠い目的を見つめながら、好きが得意になる行程を具体化できる習慣ですかね。なんか、これ好きだから「私、将来は・・・になる」でキュートにまとめちゃってるのって、勿体無いわけです。もう少し学脈直進的な方針で、漫然とした「好き」を「得意」にする具体的なプロセスまで落としましょうよ。そういう体験は貴重なのです。参考は大谷翔平か?。でもなー、参考にならないんだよなー、突き抜けすぎてて。きっと学脈天啓タイプなのだろう。


3)学習結果の評価権のなさ

ここはもう多くの人たちに書き尽くされた感がある項目です。でも書きます。まず、学習結果がテストで評価され、その評価権はテストをする側にあること。ええ、テスト自体は必要悪だと思いますよ。工場の製品のようにチェックしても良い部分は学びの中にもあるでしょう。良品ー不良品と言う区分け。なぜか、登校ー不登校に重なるのは親の妄想なのか? また、平均点や偏差値といった相対的な測定もなくすことはできないでしょう。学脈転写は一元化された視点での一律の基準で評価することです。転写度合いを測りながら、「転写完了=卒業」に向かうシステムですからね。
 また、社会に出てからも周囲からの評価を避けて通れません。仕事のクオリティも価値として評価されるがゆえに、お金への交換にまで行き着います。それで世間は回っています。
 ただ、学習結果そのものは価値でもなんでもありません。ここがポイント。あくまでも一つの物差しと一つの計測の記録です。学習結果の役割は中間指標です。KPI(Key performance indexture)ってやつです。評価はテストとイコールではないのです。
 テストって、学ぶ人々に間違いを奨励しているところがあります。100点満点のテストで95点だったら、5点失敗したことを意味します。10点だったら90点分の失敗があったことになります。つまり、間違いの可視化が先行して、私が間違えることを前提にテストは組み立てられているののです。「あなたは、大なり小なり失敗するに決まっているから、失敗する度合いで良し悪しを決めてあげよう」的な悪質な善意が、評価する側から伝わってくることこそ課題だと思います。
 一言で言うと、萎える。常にガッカリ感は織り込み済みになっていることに萎える。人の気持ちを挫(くじ)く仕組みが学力テストの仕組みです。
 多くのチャレンジャー体験者が、人生にチャレンジできないでいる人を見る時、最も足りないのは勇気だと言います。理は尽くした。機は熟した。満を持している。でも、勇気だけが足りない。やむなし。
 「そんなの勇気じゃないよ。勇気に失礼だよ」というぐらいの勇気も、たぶん、かなりの人には大きなビッグチャレンジであり、リスク冒してますね、って見えているのです。学脈転写で育ってしまうと、試しにやってみようぐらいでさえ、怖くなって踏み出せないのです。いつもの間違い折り込み済みの結果が返ってくる体験が蘇って、人を萎えさせているのです。
 ですから、学脈転写に沿った転写学習はミニマムでありたい。長期化すると、必要以上な「萎え」を人に刷り込んでしまって、いざと言う時の最も大切な勇気(繰り返しますが、勇気という単語は大袈裟かも)を消沈済みにしてしまいます。


4)学習期間の自由度のなさ

 転写学習は基本、学校制度で行われます。学校のリズムで学びは進行します。学びのリズムとは、一連のパッケージ化された学びのイベント群です。宿題、試験、卒業、進学などは教える側が設定したタイミングで行われます。学業スケジュールってやつです。必然的に、この一律さに学ぶ側も同調して同じリズムで学ばねばなりませんから、生活スケジュールは学業スケジュールに同期します。
 高校、大学、大学院と進むにつれて、学びの複雑さが高まっていきますから、転写度合いは薄まっていきますが、学びのリズムがあることには変わりません。転写学習での学びは学業スケジュール優先なのです。この学ぶ側の生活スケジュールの自由度のなさはどこに影響をい及ぼすかというと、「学ぶことは、自分都合を許さないことだ」という刷り込みにつながることです。先に学脈4タイプなどを学びの中に見立ててみましたが、どの学脈に変容するかなんかは誰もわからないし、本人もコントロールできないんですよ。ですから、学びに規則正しさや、スケジューリングを求めること自体が不健全な気がするのです。
 今のところ、ほとんどの人にとって、転写学習の主体の学業は生活から分離して、生活スケジュール表の中に特別枠で扱われ続けてます。そして、これが永続するなら、「学習環境は生活環境とは別に統制すべし」という先入観が信念になります。もう、日々の生活にある喜びなどは入る余地もありません。
 学脈転写期の子供がいる家庭なら、「宿題はやったか?」「試験準備は大丈夫か?」「精神状態尖っているから、みんな静かにせーよ」で、生活の雰囲気まで転写学習の空気になってしまいがちなのだった。で、転写済みの親からの、二宮金次郎的な「やはり、立派な御方は苦労されて學んでらっしゃる」世界観が都度、復刻されます。
 苦学こそ学びの本質、みたいな美しい話は本人が自叙伝を語る中だけで許される話だと思います。他者の学びに苦労を強要するのは信念の転写だからです。
 さて、どっちのスケジュールが優先なんだといった直接の時間闘争は避けるとして、この自由度のなさの解決先にはどのようなものがあるでしょうか? 小生は、「学びと遊びの一体化」ではないかと考えます。学脈の話で言うなら、幼少の頃の学脈未文化の再現によって、学脈転写をリフレーミングすること。
 だから、アクティビティを伴った体験型の授業って、転写学習をリフレーミングしてくれる要素を持っているんですね。社会で魚河岸見学に行って、理科でそこから仕入れたサバで魚の解剖やって、次の生活科でサバの味噌煮を作って、昼食に食べて、算数で一連の材料費を個人一人分に計算して・・・。良い意味でノイズが多いのです(気づきのための「ゆらぎ」が多いとも言えそう)。オルタナティブ系の学習が体験を重視するのも自然なことですね。
 遊びと学びがより一体になって、学びのゴールへのプロセス自体が楽しいものになったなら、それが生活でも学業でもどっちでも良くなります。この時、初めて生活の中に学びが溶け込めるようになり、時間的自由度から解放されると思うからです。 
 この延長で考えると、大人のアンラーニングで最もポイントとなるのは「学びに遊びを混ぜること」になります。そして、そこに必要なものが「いつやってもいいし、なにをやってもいいんだよ」という遊びと学びの脱境界線であり、生活と学業の攪拌ではないでしょうか。遊び心のない学びは苦学に転落し、苦学に転落するものは長く続けられません。
 確かに学脈天啓タイプまで行くと生活そのものが学びであり、その溶け合い方こそ人生なのですから、混ざり具合はマックスでしょうけど、多くの人々には望むべくもないか・・・。 
余談ながら、この学校制度の、一斉に登校、一斉に休み、一斉に入学、一斉に卒業は早晩、社会課題となって、もっと気の利いた仕組みになっていくと予想しております。
 そう言えば、AIなんか24時間稼働でしたね。脱時間が完了してますな。(苦笑

Go with the flow.



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