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親のファシズム・子のアナキズム<最終回>親と子の生活倫理・生活道徳・生活信条

◼️とりあえず収束に向かおう

シーズン2「親のファシズム・子のアナキズム」も今回で区切りをつけます。ヨタっぽさもさることながら、パンドラの箱を開けた感じがするほど、有象無象のお題が溢れ出しては、試考してみました。鍛えてもらったw。

まずはここまでの登坂図(簡略版)

<シーズン2>見取り図・簡略版

前回までは、第一ステップ:左側「親のファシズム・子のアナキズム」の意味合いを深掘りし、第二ステップ:中央「親子の民主主義」の対立・対話・断絶からの脱線した症状こそ親のファシズム・子のアナキズムだったね、ってところまで来ました。

 で、第三ステップは、「親子の相互変容」です。

 もう親は何言っても「古い信念を子供に転写する」行為になっちゃうのです。ならば、そこに自覚的であることだけが大切だと、觀念するわけですな。ということで、第三ステップは、「相互変容ができるかどうかは不明だが、相互変容を期待している自分には自覚的にいきたい!」、にします。やや下方修正というか、温度ぬるめ感はあるけど、スケッチ段階ではここあたりまででも上出来だろう。

 さて、この自覚的、というのが重要です。カント的な話になると、「自覚してもしなくても親は古い信念で親をやっているから、親子に難しい話はいらないよ」ってなるなら、これは自然界の親子と同じになります。「じゃあ、人間じゃなくても、動物の親子でいいじゃん」という論法ですかね。複雑になった社会で、高度な文化を家庭内に持ち込んだものの、残念ながら、高度な野生の生物で高止まり。

 これに対峙するのが自律。親の自律とは、何かすごいことをするわけではなく(できないし)、「古い信念を持って親をやっている自分に意識的になって、そこから家族のメンバー全員で、個人的な変容の機会を目指しましょう」といった積極的な態度です。それが自律界(⇔自然界)の親子の意味です。

◼️生活倫理・生活道徳・生活信条

さて、こんな話を、家庭の現場で子供にできるか?、ってことに移ってみましょう。

 これが、今回のまとめにして、最終回のお題です。相互変容に意識的な態度って、「子供にもうまく伝えられないかな?、自分の古い信念の地雷を踏まないで」という感じの、まことに都合の良い質問の設定かもしれん。だが試考してみよう!

この親の自律を、ミニマムなやり取りで、子の自律に繋げようとしています。ミニマムの意味は、信念転写が少なくなるようにという願いです。その自律構成のコア要素は、倫理、道徳、信条で何とか賄えるとしてみましょう。

倫理・道徳・信条って感じで分けてますけど、オープンAIをバディにして調べてみても、倫理も道徳とはクロスオーバーしてまして、「人としての正しいと判断する行動規範」ぐらいの定義になっています。まあ、倫理は意識レベル、道徳は行動レベルってことで進めます。

これを生活思創というフレームにしてみると・・・

  • ・生活倫理「正しい生活と判断する行動意識

  • ・生活道徳「正しい生活と判断する行動選択

・・・のように設定できます。そして、ここに信条を加えてます。流れ的には生活信条を付け加えようとするわけですが、ここに生活信条を加える意図は、生活習慣を見つめたいからです。

倫理も道徳もやや単発的な場面で浮かび上がる難題に対する、答えはないけど「自分で決めろ、自分で選べ」を想定している感がある。でも、生活は日々の営みであって、大した事件が起こるわけではないけど、さりげない小さな行動への意識、さりげない小さな行動の選択の積み重ねです。世間でもよく言われますが、その違いが大きな差になっていきます。さしずめ。生活の差積化か?(※)ならば習慣の視点も持っておきたい、そこで・・・

・生活信条「正しい生活と判断する行動習慣

※差積化(させきか)は、小生が提唱させていただいているビジネスにおける信条の行動累積を用語化したものです 拙著「新版ブランディングの基本」に掲載しております。


◼️生活倫理、生活道徳、生活信条を見える化する

 抽象的な話なので、誰でも扱えそうな形に構造を与えてみました。あくまでも一例です。頼るのは、あなたの納得感だけです。たぶん、もっと多岐にわたる定義と、多彩な図解があるはずです。なので、この試考は小生のものでしかありません。あくまでも参照のための資料です。

図表46

・生活倫理(図表左)
 「自分の心に聞いてみて」なんて言い回しを子供の頃に何回か聞いた気がする。言ったのは親じゃなかったかもしれないが、記憶は確かにあるし、TVドラマでもよく出るセリフなのだろう。この言葉は、「私の中に、もう一人の私を想定する」パターンですね

 言葉を足すと「いつもの自分らしさもいいけど、もっと深いところにいる自分の意見も聞いてみたらどうか?」ぐらいの感じですかね。「本当の自分も同じ意見かどうか、確かめてみてくれ」なんて、親の意識は奥の方を向いているらしい、ぐらいでも十分だな。これは先のノンコミュニケーションWの断絶にも繋がるのだが、「一人にさせる」「放っておく」「あえて、こちらからは語らない」という態度も親子の生活倫理を反映した対話の一手段だと思うのです。混乱していそうな子供に、混乱の先を見つめる時間を邪魔しない、みたいな。


・生活道徳(図表中央)
 「みんなのためになっているのか?」とか言われると全体主義っぽいので、ここでの外側に向かう行動選択に関する正しさって、どうやっても怪しくなってしまう。しかし、利他の話は道徳の奥底にあるテーゼなはずなので、言い回しの問題なのかもしれない。

 言葉を入れ替えると、「その行動は、普段考えないような周りの人への配慮もあるだろうか?」になりそうだ。実際には、世の中の弱者への眼差しだ。できる行動は知れてても、そこに関心があること、無関心でスルーしないことだと思う。小生も学校教育的にはインクルーシブ教育を推しています。不登校現場にいるとなおさら痛感するのだけど、そこに生活道徳があるから。


・生活信条(図表右)
 子どもだけでなく、大人もそうだが自分の行動には意志があります。ただし、それは勢いで出てきたものなのか、それとも奥底から湧き上がった何かと結ばれているのかどうかは、よくわかりません。

 やや個人に属する活動の「ギターやりたい」も「犬を飼いたい」も衝動的なことが多そうです。しかし、家庭としての生活方針に「音楽のある生活を尊しとする」生活信条があるなら、5年後(もしくは10年後)の家の中にも音楽があるはずだと言えます。ならばです。「ギターやりたい」は家庭生活の一部になりえます。もう一つ。「大人数の家族で暮らすことは尊い」が生活信条なら、犬は単なるペットではなく、家族を増やす行動とも言えます。「犬を飼いたい」は、家庭生活の延長線上の1提案になります。
 
より長い時間尺で考える「正しい生活と判断する行動習慣」なら、生活信条と言えます。子供に「選択の正しさ」を強要はできません。でも、「選択の正しさ」に対して、「長い視点で考えてより良い生活習慣になるかどうか?、を大切にしているんだよ」とは、伝えてもいいのではないか? 


◼️倫理・道徳・信条へのアンテナが親を救う(と思う)

硬い話で収束させています。申し訳ないです。そうでもしないと区切りがつかない感じがするのです。

最後は柔らかめで。

小生は親として、「いいなあ、この話。娘(次は下の息子)に、折りがあったら話してあげよう」と、いつも倫理・道徳・信条についてアンテナを張っています。すると、いろんな場面で「うむ、これはキープ」みたいな話に出会います。まあ、説教がいやなので、ネタで勝負を目指しているのだが。

そこで!、好きな代表的なネタも紹介します。我が家では、まだ未使用です。表現の仕方違いで3つ。

<1>カントの定言命法の話

◼️定言命法:「(理由なし)で、・・・・する」
◼️仮言命法;「・・・・だから、・・・・する」

「倫理的な態度で、道徳的な行動をとる」とは、もうこれ以上理由が語れない状態である、つまり、定言命法でなければならない

エマニュエル・カントの極限解釈w

このシンプルさがいいですね。娘が中学生(理解無理?)、高校生ぐらいになったらカマしたいです! そんな場面ってあるのかなあ、淡い期待があるのだった。(普通は、「早く一緒にビール飲みたい」かもしれないが、あなたの父は違っていた)


<2>四つの約束

◼️自分に対して背かない、ということだ。あなたが正しい時、あなたは自分の行動に責任を持つが、その行動によって自分を捌いたり、非難はしないだろう 

◼️罪とは、あなた自身を拒絶することから始まる

「四つの約束」ドン・ミゲル・ルイス

「罪って何か知ってる?」から切り出して、「罪って、あなた自身を拒絶することから生まれる」って話があるんだ。これもイイっすね。父、自分に酔ってますよね。でも、やるよ。語っちゃうよ。これなら中学生でもいけるかもしれないが、場面がね、そんな場面があるかなあ?


<3>ネイティブ・アメリカンの教え

老人が、孫たちに人生について教えていた。彼は孫たちにこう言った。

「私」の中で喧嘩が起こる。それは二匹のオオカミによる喧嘩だ。
 一匹のオオカミは、恐怖や怒り、嫉妬、など、エゴを象徴している。
 もう一匹のオオカミは、喜びや平穏、愛、希望、などを象徴している。

 この対決が、すべての人の「私」の中でくりひろげられている。

孫たちは老人に質問した。
「どっちが勝つの?」
老人は答えた。
「お前がエサをやるほうだよ」

"Tale of two wolves" 抄訳

読むたびにドキドキしちゃうネタでございます。「俺、餌あげちゃってるじゃん」みたいな。ということで、これは語るより、読ませてる方が効きそうだな。寓話だからわかりやすさ抜群なのが素敵なのだが、老人と孫ってことは、小生でも時期尚早ってネタかもしれない。


これで<シーズン2>親のファシズム・子のアナキズムはおしまい。あっちゃこっちゃコッツンコッツンぶつかりながらも、当初の見取り図らしき筋道を歩いてみました。これはまだまだ生活思創の中で広げられそうだ、という確信だけは残っております。

次回以降もダラダラいく予感だけは十分にございます。
いずれにせよ、

Go with the flow.

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