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親のファシズム・子のアナキズム<その1>試考の見取り図

◾️<Whole parents>シーズン2

不登校をきっかけに学習について試考してみたのが前回までのシリーズでした。これを<Whole parents>のシーズン1とすると、ここからはシーズン2になります。ここからのテーマは「不登校で探究する親子の生活変容」です。なんかよく伝わらない抽象単語の羅列(「不登校」以外)ですが、やや詳しくすると、家庭を一つの集団統治の単位とみなして、国の統治視点を適用すると、どんなことに気がつけるのだろうか。そんな話です。
 たぶん、これでもまったく伝わってないと思います。伝わらないついでに、一応、サブテーマも持っていて「子育ての仕方の違いで、親と子の倫理観、道徳感などは変わるのか?」です。ますます、扱いが厄介そうな単語が並びます。
 なので、いきなり語り出すのは危険です。無理です。そこで、この第一回(第一回ってことは続ける気、満々ってことですな)では、シーズン2の外観を考えてみます。もちろんですが、現時点での見通しでしかないです。なので、あっさり行き詰まったら、速攻で連載打ち切りとなります。

では、まずシーズン2の見取り図からです。

◾️試考の見取り図


図表21

これから進めようとしている試考のメニューのようなものが<図表21>です。大きく3ステップを想定しています。左側「親のファシズム 子のアナキズム」→中央の「親子の民主主義」→右側の「親と子の相互変容」です。これが大まかの段取りです。
 お気づきのように政治用語が生活に転用されています。家庭を集団とみなせば、国と同様の政治視点が日々の生活にも適用できるだろう、その過程で新しい気づきが現れてくるだろうという見立てです。
 まず、政治を「集団の意思決定過程」としておいて、これを「家庭での家族の意思決定の過程」=家族政治、としようと思っております。「トーチャンの言うとおりにはしたくない!」といった子供のシャウトは、議会政治での「総理(我が家では副総理だが)に異議あり!」に相当します。


 また、ステップ2に書かれている、民主主義も範囲が広いので、あくまでも暫定的なものとしています。
 「組織の重要な意思決定を、その組織の構成員が行って、構成員が最終決定権(主権)を持つ政治思想」というのが、民主主義の一般的な視点(定義はありすぎて特定不可)なため、このまま転用すると「家庭の重要な意思決定を、その家族全員で行なって、家族が最終的に行動まで見とどける」になりそうです。うーむ、当たり前じゃん!で終わっております。なので、この親子の民主主義はもう少し生活視点で深掘りすることになります。「学校行きなさい」と「学校へは行きたくない」の対立に民主主義的な折り合いの思想はあり得るのか?、親の強引さは家庭内暴力に匹敵する望ましくない生活態度なのか、全て子供の言う通りで進めるのは統治家庭なのか放置家庭なのか?・・・。
 なーんて、すでに不穏な想定問答が小生の頭の中をよぎっております。まあ、与太度が売りなので、完成度の心配はスルーして進めましょう。

 ステップ3では「新たな生活倫理」「新たな生活道徳」「新たな生活信条」なんて書いてますから、倫理や道徳やらも考えようということです。子供から見た生活環境の中にある「望ましい自発的な行為」のバリエーション(=道徳としておきます)、日々の生活での自分だけが見ている「やって良いことか悪いことか」の迷い方(=倫理としておきます)などです。あまり、小難しい世界には入りたくないのですけど、避ける訳にもいかない。
 ましてや、「不登校って良いことなの?、悪いことなの?」なんて、ちょっと即答できない問いですよね。自分の子供じゃなければ「どちらもありだよ」って煙に巻くことができるのだが・・・。成り行きが横行する日常生活といえども、やはり、問いだけでなく、問いの前提から考える習慣が要求されるのです。
 いや、実のところ大人の倫理観も道徳感も怪しいのだった。ただ、「みんなと同じだったら何とかなる」で取り賄って、デタッチメントをお作法にしていたところが多々あるのでした。流石に、時代的にヤバくなってきましたね。(自責感あり、笑えない)


◾️親のファシズム、子のアナキズム

第一回目があくまでも外観なので、ステップ1の表題にある親のファシズム、子のアナキズムに焦点を当てて説明していきます。
 実はこの2つのファシズム、アナキズムって、「子供が産まれると、赤ちゃんなら完全に親のいいなりだけど、赤ん坊は常に泣き叫ぶことで親の想定している生活を混乱させるよね」からスタートした発想です。まあ、子供が5歳ぐらいまでは自己主張も衝動的ですし、身体的にトドラーぐらいなら親のサポートも必須ですから、あまり反生活的だとは思いませんね。むしろ、これが家族か・・・的な感慨深さと子供の愛嬌で日々の苦労をなかったことにすることができます。たまに、できないけど(苦笑

 しかし、5歳ぐらいを超えてトイレも自分で行けて、会話もできるようになれば、親子の状況は徐々に対立へと向かいます。
 小学校ぐらいに入ると、子供だって親の態度と行動に理不尽さを感じてきます。親からの一方的な「ゲームはもう終わり!」「お風呂に入りなさい」などは、子供目線からの親のファシズム(さすがに、そういう単語は使わないし、そもそも知らないし)と思えるだろう。ここは、むしろ、読み手のあなたの子供の頃を思い出して欲しい。
 親の頭ごなしのあなたへの指図(親心があったとは思うのだが)なんかは、親の独裁による家庭全体主義、つまり、親のファシズム言動に見えませんでしたか?どの家庭にも、そんな出来事の一つや二つあったでしょう。
 この親の指導部的(家庭を先導する)な体質、子供の反社会的(家庭より自分)な体質は、全ての家族が持つ親子の対立のスタート地点とできます。幼少期の子の親への100%依存が終わった頃がスタートに該当し、そして、思春期の親への反抗などが始まった頃をピークに、最終的には経済的な自立という親離れで終了します。
 この期間は親子が家庭で濃厚に生活を交差させる期間です。家庭を集団単位とした意思決定あり、構成員である家族の利害関係もありですから、相互理解だけでなく、相互の持つ信念の変化も必須となります。この辺りが親子の相互変容の意味です。
 不登校なんかは、どう考えても一つのシンボリックな出来事ですよ。

この親のファシズム、子のアナキズムですが、参照している部分があります。

・親のファシズム:ハンナ・アーレントが指摘するファシズムの特徴を転用します。政治的なファシズムには多くの特徴がありますが、家庭生活にも参照できそうな以下の3つに絞ってみました。

1)個人の無力化→子供の無力化。親からの、情報が非対称であることを利用して、子供に家族全体に従うことを強制。例:「ウチはこうしているのだから、あなたもそうしなさい」発言

2)共感感情の利用→子供への賞賛でコントロールする
子供の特定の発言や行動を共感することで、親の意図への従順さを求める。例:「今回のテストの成績はすごい! この点数はなかなか取れない、親として誇らしいよ」発言

3)排外主義→他との比較で作る家族としての優越感
特定のネットワークを否定し、我が家の優越性を植え付ける。「ウチは・・・とは違って・・・だから、あなたも・・・しないと・・・みたいに不幸になるよ」発言

うむむ、我が家はここまではないと思うが、それでもカスっている部分はあるような気がする。もうちょっと、自覚的にならないと、たまにやってしまいそうです。

・子のアナキズム:アナキズムは通常だと無政府主義に訳されますが、それだと無家庭主義で、やや不自然ですね。反家庭主義?、なんか思春期っぽいか? 抗家庭主義が子供の我が見えていいかもしれません。もう少しほぐす必要がありそうです。鶴見俊輔の「方法としてのアナキズム」とか、最近だと「くらしのアナキズム」(松村圭一郎)とかもあって、アナキズムを闘争の思想ではなく、よりよい集団の中での生き方として捉え直そうとしているように見えます。だから、敢えてこのシーズン2では、アナキズムなる単語を使っております。
  長女の不登校からフリースクールに落ち着くまでの家庭内ドタバタでは、いつも親のファシズム・子のアナキズムが信号を双方に発信していたような気がするのです。親の古い信念がファシズム調になって、子は身体の不具合や情緒の不安定でアナキズム調を表出していたことになります。

また、権力、権威、権勢という単語も使っていこうと思います。これらも人によって解釈に幅があるので、シーズン2での使い方を挙げておきます。

権力:強制によって服従を確保する力
権威:強制なしに服従を確保する力
権勢:強制感を与えることで服従を要求していることを伝達させる力

シーズン2での言葉の使い方

◾️ステップ2への進め方

ステップ1から、親子の民主主義ステップ2への転換を目指そうとする時の方法論です。対話、直接行動、尊重としてみました。
 子供側(アナキズムになってしまう者)からの視点で起きる不具合な現象に、親である大人側(脱ファシズムを願う者)が気がつけるなら、親子の民主主義的なアプローチが始まるだろうってことです。とはいえ、答えがあるわけではない。相変わらずの探求テーマなのです。与えられた条件でベストを尽くすしかないのです。

権力とは区別された自主管理の形がさがしもとめられなければならない。(そのためには)アナキズムの理想をふみにじるまいという思想をつよく担う新しい官僚が現れることが必要になろう

「方法としてのアナキズム」鶴見俊輔

鶴見俊輔氏の考え方をベースに、家庭に適用して考えるなら、上記の「官僚」が「親」と入れ替わります。

1)対話→対立の信号が出たなら、対話の質を高めるスイッチを入れる必要がありそうだ。従来の対話は、ややもするとファシズム的な意図が織り込まれていたかもしれない。自分が子供の時の親を思い出せ!(教師・反面教師を問わず)

2)直接行動→言葉だけでなく、行動で示していく。争う行動でもなく、抗う行動でもないもの。で、それって何だろう? 子供と同じような視点で眺める態度を問われているのだろう。机を挟んで親と子が向かい合う関係から、長椅子に一緒に並んで座って外を眺める関係にする・・・、できるのか?

3)尊重→できること・できないこと、したいこと・したくないこと、を共有できればできるほど、お互いの主張は否定から譲歩に移っていきます。それは人としての尊重を感じさせます。
 いくら、「主張と発言者は別モノだ」、「主張の否定は発言者を貶めるものではない!」って言っても、否定は相手への信頼と己の自尊を少しづつ削り取っていくところがあります。 ですから、対話を乱暴に扱うと、溜まりたまってのツケが回ってきます。親子の家庭生活は長いのだ(短いと思うのは振り返った時だけ)

まずはシーズン2のオープニングでした。どうなることやら。
Go with the flow.


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