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[ハンバーガーレストランチェーン] 日本マクドナルドの歴史

 今回は、ハンバーガーレストランチェーン店舗の経営で有名な、日本マクドナルドの歴史について解説します。

 1971年5月、藤田商店を経営していた藤田田さんが、アメリカ・マクドナルド社とのライセンス契約を締結し、日本マクドナルド社を設立しました。

創業者の藤田田さんは、実家が貧しかったため、教師から悪い成績を付けられたり同級生からいじめられたり散々な目にあいましたが、勉学に勤しんだため1944年に東大法学部へ入ることができました。そこでの学費を稼ぐため、藤田さんは通訳のバイトをしていましたが、そのバイトをする中で知り合ったユダヤ系の金持ち実業家に促され、在学中の1950年に雑貨販売店「藤田商店」を設立しました。ナイフやフォークなど、生活雑貨をアメリカの会社に売っていましたが、その中で飛行機の予約が取れず納期が守れそうにないとき 赤字覚悟で3万ドルのジェット機を購入し、自らアメリカに渡って納期内に商品を納めた藤田さんは、当時 日本人が白人社会から差別されがちな中、「あいつは約束を守る日本人だ」と有名になりました。そのため、元々 マクドナルド兄弟がつくったマクドナルドをマクドナルド兄弟と共同経営していましたが、それまでなかった
「フランチャイズ加盟者は本部に売上げの1.9%しか払わなくて良いが、本部はフランチャイズ加盟者からロイヤリティが払えなくなったときの担保も事前に受け取っておく」
という優れたシステムを考案し、それによって売上げ・利益を上げ マクドナルド兄弟から商才を認められ、1961年から一人でマクドナルド社を経営して良いことになった、マクドナルドの創業者の一人として見られているレイ・クロックから才能を見抜かれ、藤田さんは彼から業務提携を依頼されます。藤田さんは、提案を受け入れましたが、そのとき「アメリカ本社の命令は受けない。日本マクドナルドの経営は、私の好きにやらせていただく」と条件を付けたそうです。このようにして、藤田さんは1971年から日本マクドナルドを経営することとなりました。

1968年に日本国内では郵便番号制度ができ、荷物やハガキをどこに運ぶべきか機械が判断できるようになったので、郵便局の業務が簡略化され、多くの荷物をはやく運べるようになり、物流事業を郵便局に任せることも多い国内の会社はビジネスを大きくすることができました。
このようにして日本の経済が活発化し、日本の国民総生産(GNP)はアメリカに次ぐ世界第二位になりました。さらに、世界中からその国の最新鋭の技術を使った商品が集まり、人も世界中から大勢集まる万博が1970年3月から半年間開催されることに決まり、こちらに備えて人が移動しやすいように、大阪や、戦後 工場・オフィスビルが林立し 人口が多くなった東京や名古屋などでは地下鉄や環状線・高速道路などが作られ、経済はますます活性化しました。大阪万博に向けての街作りに、約4兆9509億円が使われたといわれています。「日本で商売すると儲かるかも」と期待した小売企業やアパレル会社など外資系の企業は、日本の企業と業務提携しようとしました。日本企業の方も「資金力・技術力のあるアメリカの企業と業務提携すると、もっと儲かりそうだ」と考え、業務提携に応じるケースも多々ありました。商店を営んでいた時代、アメリカの会社と取引することも多々あり、その時ブローチやネックレスなどの完璧に整形された高級アクセサリーや、進んだ医療器具などを見てアメリカの技術のスゴさを目にした藤田さんも、その波に乗り、マクドナルドという巨大アメリカ企業と業務提携して、日本マクドナルドを立ち上げたと言えます。

そのため、創業者の藤田田さんは、マクドナルドは、1960年に全米で200店舗を建て、当時の日本では困難とされていたチェーン展開を実現させるほどの経営ノウハウをもっており、そのようなカリスマ企業 マクドナルドと業務提携したがっていた、後にファミレスチェーン すかいらーくを建てることになる横川兄弟(当時は東京で地域スーパーを経営していた)や、同じくマクドナルドと業務提携したがっていたスーパーマーケット「ダイエー」の経営者 中内功(やまうち いさお)さんなどからうらやましがられました。

 1987年、マクドナルド社はサンキューセットのセットメニューを販売開始しました。
日本マクドナルド社は、1971年7月に1号店を銀座三越1階に出店しました。ハンバーガーは一個80円で、開店の様子を伝える朝日新聞記事は、
「すでにウインピーインターナショナル(本社ロンドン)と東食(本社東京)の合弁会社『東食ウインピー』が六月末から東京・青山で、またゼネラル・フーズ(本社東京)が神奈川県でドライブイン形式のハンバーガー・レストランを開店しており、首都圏で激しいハンバーガー戦争が繰り広げられそうだ」
と語っています。
ちなみに、東食は三菱・住友と並ぶ三大財閥の内の一つ、三井グループに所属しているため、バックに膨大な資産とブランド力がありました。
また、ゼネラル・フーズは1951年からアサヒビール社とアメリカの清涼飲料水製造社 バヤリース・オレンヂ社の商品を一括して引き受けて販売し大きくなり、男性のみならず女性の社会進出も進んでいた高度経済成長期に「いそがしくて料理する暇がない」を解決する調味料を多数販売し喜ばれていた味の素社と1973年から業務提携していたため、有名企業でした。
日本マクドナルド社は出だし早々から、彼らのような強敵と闘わねばなりませんでした。
しかし日本マクドナルド社は、日本人の好みに合うよう味の追求や「日本人は太平洋戦争での苦い記憶がありアメリカが嫌いなはずだから、店内にはアメリカを連想させるものを置かない」など店内のインテリアへの工夫を続けた結果、関東のみならず関西や九州など全国に店を出せるようになり、1984年12月には、年間売上高1000億円を突破しました。

1987年10月19日、ブラックマンデーが起き米国ニューヨーク株が暴落しました。
こちらにより、米国の主要株価指数であるダウ工業株30種平均は、2250ドルから22.6%も下がりました。
ブラックマンデーの発生原因は、ハッキリとは分かっていませんが、アメリカ政府が外国からお金を貸してもらうために高金利政策を打ち出した結果、外国投資家からドルが買われまくり極端なドル高が発生してしまい輸出があまりできなくなったので、1980年代初期からアメリカの製造会社は儲からなくなり、株に対する信用がなくなり、「株はいつ暴落するか分からないし、早く現金化しておこう」と株を売る人が続出したため、株が暴落したと言われています。
暴落したのはダウ工業株30種平均だけではなく、アメリカと繋がりの深い日本の株もでした。ダウ暴落の翌日、日経平均は過去最大の14.9%も値下がりしました。
こちらにより、さらに不安になった日本の投資家が個別株も一気に売る・信用が落ち銀行も融資してくれなくなるという事態が起き、企業はお金を集めることができず 資金繰りが悪くなり設備投資をケチるようになったので、各企業の売上げ・利益も低迷し、経済は悪化しました。

そのため、日本マクドナルド社は「お好きなハンバーガーとあつあつポテトとお好きなドリンク」のセットを破格の390円で販売し、「経済が悪化している中、安売りは嬉しい」と、『サンキューセット』が1987年の流行語大賞に選ばれるほど人気になりバカ売れしました。
尚、当時は円高の世の中でしたが、日本マクドナルド社は食材を外国から輸入していたので、安売りしても十分利益は出たそうです。

 2001年7月、日本マクドナルド社は、ジャスダック市場へ上場しました。
1980年代からすかいらーく社が、ファミレス『ジョナサン』や『バーミヤン』を全国展開しているので、日本全国に家族連れで外食するのが普通の光景になりました。こちらを見た日本マクドナルド社は、ファミリーに向けた取り組みとして1987年10月から、ハッピーセット(おまけのおもちゃ)の販売を開始しました。
1989年4月、所得税の最高税率が88%から75%に引き下げられ、富裕層を中心に収入が増え、外食する人も増え、さらに当時はやっていたトム・クルーズの出世作『トップガン(1986年)』やアクション映画『ダイ・ハード(1988年)』などのアメリカ映画の影響でアメリカブームが来ていることを見抜いた日本マクドナルド社は、1989年(平成元年)7月、東京の一部の店舗でアメリカ風の店舗内装・調度品を採用しました。店舗1階には、当時話題になっていたイギリス出身の伝説のロックバンド ビートルズの等身大人形が設置され、話題になりました。
また日本マクドナルド社は、国民の所得が上がり自動車所有者が増えてきたのをみて、1990年末には全774店舗中344店舗にドライブスルーを取り入れました。
このようにして、抜け目なく流行にのる日本マクドナルド社は、ちゃくちゃくと売上げ・利益を伸ばし、1993年には1000店舗出店を達成しました。
また、円高が発生する度 牛肉やジャガイモなどの食材を外国から安く仕入れられ、その度 商品の価格を値下げしたマクドナルドの人気はとどまることを知らず、店舗数が急激に増え利益も増え、1995年には本社を超高層ビル内に作ることができました。ちなみに、1989年は700店舗、1993年には1000店舗、1999年には3000店舗という日本マクドナルド社の店舗数推移をみると、店舗数の伸びが年々大きくなっていることが分かります。

1986年末から、日銀がお金をすりまくり そのお金を全国の金融機関が不動産に投資し、土地・建物の値段が一般の人が買えないぐらい暴騰するバブルが起きたため、ヤバいと思った政府が、1990年3月から全国の金融機関に「不動産に投資する額に上限を設ける規制(不動産融資総量規制)」の指令を出しました。こちらにより、バブルは収まりました。
不動産融資総量規制の影響で、日本全体の地価は1990年から2002年で1000兆円も減少しました。
そのため、これまで地価が上がっていくので不動産に投資して儲けていた銀行など金融機関は、一気に貧しくなりました。お金が無いので企業に融資することもできず、NTTや松下電器産業などの優良企業ですら資金不足に陥り、給与カットやリストラなどを余儀なくされました。例えばNTTは、11万人をリストラせざるを得なくなり、多くの社員の賃金を3割カットせざるを得なくなりました。このように、日本の景気は悪くなりました。

そのため、日本マクドナルド社は他の企業がビジネスを収縮する中、「わが社は、上場して資金を集め 2004年までに新業態の店を作る」と宣言し、上場を断行しました。日本マクドナルド社を応援したいという人が大勢現れ、2002年1月 日本マクドナルド社の株価は3320円まで伸びました。(同時期、日本マクドナルド社の最大の競合、モスバーガー社の株価は970円でした)

 2010年4月 日本マクドナルド社は、東京都の渋谷駅周辺や赤坂・青山エリアの店舗を一斉に「新世代デザイン店舗(落ち着けるような店の外観・店内デザイン・BGM にした店舗)」としてリニューアルしました。以降、首都圏の繁華街の店舗を中心に順次「新世代デザイン店舗」としてリニューアルを進めていたようです。

日本マクドナルド社は、2002年6月 イギリスのサンドイッチチェーン Pret A Mangerプレタ・マンジェ)社と提携し、日本プレタ・マンジェ株式会社を設立しました。そして全国に、季節の新鮮な野菜をたっぷり挟んだサンドイッチやタコスを売るファーストフード店「プレタ・マンジェ」を展開しました。
また日本マクドナルド社は2003年5月に、関東圏を中心に、新鮮フルーツのケーキや安いマックの店では提供できない高級チーズバーガーを売る新業態・マクドナルドダイニングを出店しました。
2007年8月から日本マクドナルド社は、「早い・品揃えが豊富で便利」を追求した、ピスタチオケーキやマカロンなど今風のお菓子やコーヒーメニューを揃えた新業態・マックカフェを出店しました。
日本マクドナルド社は、宣言通り新業態の店を作ったのでした。
しかし2007年11月、東京のマクドナルド店舗で、賞味期限切れのマックシェイクの材料を使用していたことが発覚し、日本マクドナルド社長が記者会見で謝罪しなくてはいけない事態になりました。
イメージが下がってしまった日本マクドナルドは、2008年8月から社員の給料引き上げを実施し、同年11月から食品廃棄物を回収し肥料化・飼料化する活動を始めました。

2008年9月、アメリカの不動産バブル崩壊からアメリカの名門と言われた大銀行 リーマン・ブラザーズ社が破綻してしまったリーマン・ショックが起き、負債総額(返せなくなった借金の大きさ)は約6000億ドル(約64兆円)という、アメリカの歴史上最大の企業倒産が起きました。
以来 「名門大企業でも倒産するんだ」と思い銀行が企業にお金を貸さなくなり、こちらの波が世界中に広がり、アメリカやヨーロッパなど、特に先進国で絶望的な金融危機が起きました。日本でも無関係ではなく、リーマン・ブラザーズ倒産の数日前は12214円だった日経平均株価が翌月には6000円台まで下落しました。会社は資金がないので事業縮小せざるを得ず、賃金もカットされデフレが進み、景気も悪くなりました。
また、アメリカ企業が事業縮小したことから、アメリカの輸入量が減り、これまでアメリカの過剰消費が日本を含めた世界の経済成長を助けていたのですが、それがなくなってしまい、世界経済はますますデフレ不況に陥りました。世界全体のGDPの伸びは、2009年は1.1%まで落ち、好不況の境目となる3%を大きく下回りました。
ヤバいと感じた世界各国首脳が、2008年11月にアメリカのワシントンDCで金融サミットを開き、知恵を出し合って銀行への資金注入や金利の引き下げなどを行いましたが、間に合わず、日本を含めた世界中でデフレは進み続けました。日本企業の中には、「これからはアメリカではなく、新興国に輸出して儲ける時代だ」と考え、中国やベトナムなどの新興国に輸出するようになりました。2009年・2010年の、日本の対中国の貿易額(輸出入合計)は、対アメリカの貿易額の約2倍になりました。しかし、中国企業は資金力がアメリカ企業ほどはまだないので、あまり輸出できず儲かりませんでした。そして、ビジネスがかつてより難しくなりました。

そのため、日本マクドナルド社は店内装飾やBGMなどを変えて、喫茶店のようにゆったりくつろげる「新世代デザイン店舗」を作ることにより、ビジネスマンが商談や打ち合わせで使えるようにしました。

 2015年10月から、日本マクドナルド社は地域別価格制度を実質廃止しました。
日本マクドナルド社は、2011年3月に東日本大震災が起き、東北の食品工場が使えなくなったのと、原発事故が起き 各国の日本からの輸入量が減った(2010年の日本の貿易額は、輸出総額が約67兆4000億円。2011年の日本の貿易額は、輸出総額が約65兆5500億円だから、輸出量は約2兆円分下がっている)ため 日本は外国から食材をあまり輸入できず、原材料が高騰してきたので、2011年6月から 人気メニューのマックシェイクを値上げし、看板メニューの一つであった『100円マック』を120円に値上げしました。その代わり、期間限定で、炭酸ドリンクを全サイズ100円で販売し、客足をひきとめ、2011年度の売上高を前年比約6.6%減に抑えました。

2014年4月には、東北支援・福祉の充実のため 消費税率の5%から8%への引き上げが行われ、それに伴う駆け込み需要の影響で、実質GDP(国内で生産されたモノ・サービスの付加価値)は2014年1~3月期に534.7兆円まで増加しましたが、その後落ち込みました。しかし、2014年末 建築業や衣服・電気機械の工場など、中国の主力企業の債務が100兆元(2000兆円)を超え、経営不振に陥り、普段 石油を大量購入する中国の石油需要がなくなり、一方 技術の向上などにより石油の供給量が増えたため、1バレル=100ドル近辺で安定していた原油価格が、突然50ドル台まで下落しました。そちらに助けられ、2015年初めから 日本の経済は、少し良くなりました。

そのため、2014年7月 使用期限切れの鶏肉を使ってチキンマックナゲットを作り問題となり、客数が大きく減った日本マクドナルド社は今なら高くても売れるはずと考え、事業を続けていくために客単価を上げようと、2015年10月から商品の値上げを開始しました。サラ・カサノバ社長によると、全店で値上げをする前に実験店で値上げしたらどうなるかを試した結果、
「値上げを開始すると同時に 新たな低価格商品の販売を始めると、客足が減らず 売上げも上がる」
ということが分かったので、2015年10月から全店で値上げをすると同時にサイドメニューの新発売も始めたようです。
小規模で実験してから大規模で行うという、日本マクドナルド社の慎重な行動が功を奏したのか、2016年度の売上高は2015年度より上がりました。

今後 日本マクドナルド社が、どのように世の中を変えていくのかに注目ですね。

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お疲れ様です。
貴重な時間を割き、お読みくださいましてありがとうございました。
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<亀田の柿の種>


<なとり チータラ>

次回は、フライドチキンチェーン店の店舗を全国展開する、日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社の歴史について解説します。


サムネイル内で使った画像の引用元:
https://www.amazon.co.jp/%E5%B8%B8%E5%8B%9D%E7%B5%8C%E5%96%B6%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E-%E8%97%A4%E7%94%B0%E7%94%B0%E8%AA%9E%E9%8C%B2%E2%80%95%E6%9C%80%E5%96%84%E3%81%AF%E6%9C%80%E6%82%AA%E3%81%8B%E3%82%89%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%82%8B-%E3%82%BD%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4789713628

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89

https://www.mcdonalds.co.jp/menu/burger/

その100円が、まあにのゼンマイを回す