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[カレーハウスCoCo壱番屋] 壱番屋の歴史

 今回は、カレーハウスCoCo壱番屋店舗の経営で有名な、壱番屋の歴史について解説します。

 1978年1月、創業者の宗次徳二(むねつぐ とくじ)さんは、愛知県に「カレーハウスCoCo壱番屋」1号店をオープンしました。
創業者の宗次徳二(むねつぐ とくじ)さんは、学生時代、ギャンブル好きの養父の元で苦労したり、生活苦のためアルバイトをしながら学校に通ったので、根性があり入社後4年後の1972年に独立し、激務で有名な不動産会社を立ち上げました。特に、宗次さんが不動産会社を開いていた愛知県は、戦後に繊維工場などが沢山作られ発展した、愛知県名古屋市周辺で働く労働者が多数住んでいたため、また1968年に東京や神奈川などの首都圏と愛知県とを結ぶ「東名高速道路」ができたことにより、1960年から1973年にかけて人口が年間10万人以上増加し、さらに1972年 地価変動率(地価が去年より何%上がったか)が18.2%を記録するなど、地価がどんどん上がっていたので、愛知県の土地や建物が売れまくり、仕事が多く大変だったはずです。このような大変な時期・場所で、不動産会社を営んでいた宗次さんはスーパーマンですね。
そのため、有名だった宗次さんは1974年、「不動産業は競合が増えてきて、今後収入が落ちるだろうし、家族持ちでは続けられない。喫茶店を始めます」と言って名古屋市内に喫茶店を開くと、開店10分もしないうちに人が集まりました。

1973年10月に中東で起きた戦争により、中東産原油の供給量が減り 原油の価格が4倍以上に上がったので、国内で買いだめ騒動のようなパニック現象が起き、1974年の物価は前年より約37%上昇し、1974年の経済成長率は戦後初めてのマイナス成長 マイナス0.8%となりました。そのため、よほど美味しいものでなければ売れない世の中になりました。そのため、宗次さんは積極的にお客さんの声を聞き味を改良しました。
宗次さんはカレーハウスを経営する中で、「仕事をきちんとこなすためには、遊んでる暇はない」と知ることができました。

喫茶店が上手くいかなくても生活費を稼げるように、宗次さんは不動産の仕事も掛け持ちでやっていましたが、喫茶店が流行ってきたので、「飲食一筋で行こう」と思われ、1975年に不動産会社を廃業し、喫茶店一筋で行くことに決めました。飲食店の仕事に打ち込むうち、メニューの中のカレーが一番よく売れると気づいた宗次さんは、カレー専門店で行くことを決意し、1978年に「カレーハウスCoCo壱番屋」1号店をオープンしました。

 1989年11月、カレーハウスCoCo壱番屋社はHHT(注文を入力する端末)を導入し、全店舗と本部が簡単につながるようにしました。
カレーハウスCoCo壱番屋社は、愛知県内にチェーン店をつくりまくり、1979年11月 各店舗で使う食品を作る工場も完成したので、1980年4月からフランチャイズ展開も開始し、ビジネスを大きくしていきました。また、1987年からアンケートはがきを導入し、お客さんの声を積極的に聞くようになりました。接客や商品開発など日々の仕事を続け 出た利益で店舗拡大を進めるうち、カレーハウスCoCo壱番屋社は、1988年12月には100店舗を達成しました。
戦略を練るため、各店舗で何が一番良く注文されているかを知る必要が出てきたので、カレーハウスCoCo壱番屋社は各店舗にHHT(注文を入力する端末)を導入し、何が注文されたかを示すデータを、本部に送れるようにしました。

当時、日本はバブル景気のまっただ中にあり、1989年末には日経平均株価が3万8915円の史上最高値を記録し、1989年の日本のGDPも1985年のそれの約1.3倍になり、国民の所得が上がり 消費が激しくなったので、タイ料理チェーンやブラジル料理チェーンなどが利益を上げようと日本に進出し、珍しい海外の料理が流行りだしました。家庭的な味にこだわっていたココイチの売上げは低迷しました。そのため、カレーハウスCoCo壱番屋社は客足を引き止めるために、20分で大盛りカレーを完食すればただになる「1300gカレー」など新メニューを開発しました。

カレーハウスCoCo壱番屋社は会社の経営を続ける中で、ココイチでしか食べることができない味だが、味付けが濃すぎず 毎日食べられるようなカレーが売れるということを知ることができました。
また、カレーハウスCoCo壱番屋社がHHTを導入して売上げ・利益を上げ、テレビやラジオなどの宣伝にも力を入れられるようになった事を知ったあるラーメン屋チェーンは、 HTTを導入し 何が注文されているのかのデータを集め、味を改良した結果、客単価が80円増加しました。

 2000年2月、カレーハウスCoCo壱番屋社は、株式を店頭公開(直近一年間の売上げが30億を超えていればでき、株主数300人以上・直近一年間の利益合計額が1億円以上などの規準が設けられている、株式上場より簡単にできる事。店頭公開をすれば、証券会社など金融機関からお金を借りやすくなる)しました。
カレーハウスCoCo壱番屋社は、1991年11月から広告を打ちまくりました。また、全国に店舗を作り 東北や北陸・関西など全国に食品製造工場・配送センターをつくらなくてはいけなくなったので、カレーハウスCoCo壱番屋社は1993年10月に、車両整備部門をつくり 外部の会社が引き受けてくれないときでも、自社の中で 配送に使う車両の車検や修理を行えるようにしました。また、1994年4月から店舗内の清掃に力を入れ 清掃・施設管理部門をつくりました。このような活動をしながら店舗数を増やし続けたので、ついにカレーハウスCoCo壱番屋社は「健全な経営・店舗拡大を行い、地域活性化に寄与している企業」とみなされ、1994年11月 農林水産大臣賞を受賞しました。ココイチはさらに有名なブランドとなり、売上・利益を上げることができ 資金を貯めて店舗拡大し、1999年5月 600店舗を達成しました。

2000年、アメリカのインターネットバブルが崩壊しました。1980年後半からインターネットの技術が驚異的に飛躍し、実店舗をもたなくても多くの消費者にものを売れる「ネット販売」ができるようになり、「これから儲かるのはネット販売の会社だ」と思われ多くの人がIT企業などインターネット関連の企業に投資をするようになりました。このようにして、インターネット関連の企業の株がバカ上がりし、こちらの現象をインターネットバブルと呼びます。こちらのバブルにより、パソコン部品の製造会社 インテルの株価は、2000年に1999年の約2倍の66.84ドルまで急上昇しました。
しかし、IT企業を新しく立ち上げようとする人が急増した結果、不動産会社や建設会社で人手が足りなくなりました。結果 土地やビルの価格が急騰し、2000年の物価上昇率は3.37%になりました。(アメリカ政府は、物価上昇率が2%だと、経済は安定すると考えている)。このように、アメリカ国内で大規模なインフレが起き、ヤバいと思ったアメリカ政府は、1999年6月から2000年5月にかけて、金利を4.75%から6.5%まで引き上げました。すると、金利が上がったのでお金を借りにくくなり、IT企業を新しく立ち上げようとする人が減り、また、既存のIT企業も事業を縮小せざるを得なくなり、アメリカのインターネットバブルは終わりました。
こちらは、日本企業にも無関係とは言えず、ヤフーやライブドアなどのインターネット企業は、アメリカのIT企業から新技術を売ってもらえなくなったので、売上げが低迷しました。この中、2000年3月ついに携帯電話の回線の販売会社 光通信で、架空の売上げをつくっていた問題がばれ、信用がなくなり売上げが急減し、2000年8月期中間決算では同社の営業利益が129億円以上の赤字となりました。この騒動のため、「インターネット関連の会社って怪しそう」というイメージが広がり、日本のインターネット企業は売上げが下がりました。社員の給料も下がり、日本の景気は悪くなりました。日本では元々、1991年のバブル崩壊以来不況が続いていましたが、インターネットバブルの崩壊によるショックも手伝って、日本の消費者物価指数は、2000年を境に落ち始め、人々が生活費を節約し始めました。

そのため、カレーライスの販売だけでは、十分な売上げを出せないと考えたカレーハウスCoCo壱番屋社はカレーパンやカレーうどんなど、カレーライス以外の専門店も新たに作りたくなり、資金を集めるために証券会社からお金を貸してもらうため店頭公開に応じました。
また、カレーハウスCoCo壱番屋社が店頭公開することにより 資金を集め事業拡大できるようになった事を知ったワタミ株式会社は、それまで東京や神奈川など 関東地方に居酒屋を展開していたが、1996年に株式を店頭公開してから 資金を集め、近畿地方に店舗を作ったり魚介料理専門店「海鮮処 和民市場」を作ることができたので、ココイチもやっと、店頭公開の利点に気づいたかと思いました。

 CoCo壱番屋社は2010年3月、新業態 ハンバーグ専門店「にっくい亭」をオープンしました。
2002年6月、CoCo壱番屋社は、新業態店舗 カレーパン屋ヨシヅヤ太平通り店を愛知県名古屋市にオープンしました。
さすがに、神戸屋や山崎製パンなど競合の多いカレーパン市場にいきなり進出しても、上手くいかなかったようで、売上げが上がらずCoCo壱番屋社は資金繰りが悪くなりました。2002年10月、CoCo壱番屋社は、固定資産税・運営費などを節約するために、カレールーや米などを仕入れ加工し、各店舗に送る石川配送センターを廃止せざるを得ませんでした。
しかしココイチの、カレーライス以外の商品への進出は、まだまだ続きました。CoCo壱番屋社は2003年3月、新業態店舗 あんかけスパゲッティ専門店「パスタ・デ・ココ」を愛知県一宮市にオープンしました。また同社は2003年5月、新業態店舗 カレーうどん専門店「麺屋黄粉壱」(めんやここいち)を一宮駅前にオープンしました。
しかし、スパゲッティ業界にはサイゼリヤやカプリチョーザなど、カレーうどん業界にははなまるうどんや丸亀製麺などの競合がいるので、進出は上手くいかずココイチの売上げ・利益は低迷し、2003年12月ついに、ココイチはそれまで自社で行っていた壱番屋チェーン店の国内全店舗の物流業務を、(株)トーカンへ一括委託せざるを得なくなり、さらに各店舗に指示を送る、営業所の数も減らさざるを得なくなりました。
2003年のアジア主要9カ国の実質GDP成長率の平均が5.6%となったため、これからアジアに進出すると儲かりそうだと考えたCoCo壱番屋社は、2004年には中国に2005年には台湾に、2008年には韓国やタイに出店し、売上げ・利益を伸ばし 東証第1部に上場できるような大会社になりました。

2008年9月、アメリカの不動産バブルの崩壊から、アメリカ五大投資銀行の一つに数えられていた大銀行 リーマン・ブラザーズが、負債総額約64兆円という史上最大の経営破綻をし、「アメリカでは、大会社でもある日突然潰れる。アメリカの企業は信用できん」と、投資家がアメリカ企業の株を投げ売りした結果、NYダウはリーマン・ブラザーズ倒産前の2007年10月は約1万4500ドルでしたが、倒産後は約1/2の7000ドルとなってしまいました。また、金融機関もアメリカの企業を信用しなくなり 資金を貸さなくなったので、アメリカ企業は節約してモノを買わなくなり、2009年の日米貿易の貿易額(輸出入合計)は2007年より10兆円以上減って14.2兆円にまでなりました。
アメリカに輸出することにより経済発展してきた日本では、会社が儲からなくなり2009年の日経平均株価は、2007年のそれ(18138円)の半分より低い7162円90銭になってしまいました。
従業員の給料なども減り、日本の景気は悪くなりました。そのため外食する人も激減し、「カレーは家で食べよう」と考える人が増えハウス食品やエスビー食品の固形カレールーがよく売れるようになりました。

そのため、CoCo壱番屋社はカレーハウス ココイチの売上げは、もっと減るに違いないと考え、カレーとは別の商品をもっと売らなきゃ生き残れないと思い、2010年3月ハンバーグ専門店をつくり、2011年度の営業利益を2010年度のそれより約6億円増やしました。これを見た九州の企業家が、九州産黒毛和牛の肉を使った美味しいハンバーグ専門店 『極味や』をつくりました。

今後 CoCo壱番屋社が、どのように世の中を変えていくのかに注目ですね。

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お疲れ様です。
貴重な時間を割き、お読みくださいましてありがとうございました。
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あなたはアマゾン派?楽天派?
<亀田の柿の種>




次回は、ハンバーガーレストランチェーンの店舗を全国展開する、日本マクドナルドの歴史について解説します。

サムネイル内で使った画像の引用元:
https://macaro-ni.jp/109926

https://www.tochinavi.net/spot/home/?id=12452

https://k-tsushin.jp/interview/ichibanya-3/


その100円が、まあにのゼンマイを回す