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視聴記録『麒麟がくる』第29回「摂津晴門の計略」2020.10.25放送

 将軍の御座所襲撃に怒った信長(染谷将太)は、京に将軍を守る城が必要だとして、独断で二条城の建設を始めてしまう。各地から資材を召し上げながら急ピッチで進む強引な工事に、幕府の摂津(片岡鶴太郎)のもとには信長に対する多くの反発の声が届く。
 ある日、伊呂波太夫(尾野真千子)から呼び出された光秀(長谷川博己)は、幕府より身を追われ身を隠した近衛前久(本郷奏多)と対面する。前久は今の幕府には、己の私利私欲を満たすことしか頭にない連中ばかりであることを忠告。そして、本来帝(みかど)を守るべき幕府の本分を見失っていることをほのめかすのだった。将軍よりも上の存在という帝の存在が気にかかった光秀は、ボロボロになった御所へと足を向ける。

★トリセツ

近衛前久、関白失脚
 足利義昭が織田信長と上洛、対抗勢力であった三好一派を畿内から一掃したことにより、三好が推す足利義栄の将軍擁立に助力した近衛前久の立場は危うくなり、朝廷内の対抗勢力である二条晴良と幕府政所摂津晴門によって、義輝暗殺の嫌疑をかけられ三好一派とともに京を追われることになりました。

駒が義昭の「悲田処」支援のために貯めると決めた1千貫はいくら?
 本国寺を訪れた駒は、「貧しい者に食べ物を与え休息できる館をつくりたい」という義昭の計画を聞き、この計画に必要な1千貫を貯めることを心に決めます。このお金を現代の価値に換算すると、1貫=約15万円。1千貫はおよそ1億5千万円の価値となります。駒の丸薬は1袋10文で売っていました。1,000文=1貫なので、1千貫稼ぐにはおよそ10万袋売り上げる必要があります。

★紀行

 京都市の中央部に位置する京都御苑。かつて天皇家が暮らした御所を中心に公家屋敷が建ち並んでいました。近衛邸(このえてい)跡に残る池の石組は、安土桃山時代のものだと考えられています。室町時代の近衛家の屋敷は、御所から1キロメートルほど離れた場所にありました。
 若くして関白に就任した近衛前久(このえ・さきひさ)は、武家と深いつながりをもった人物で、関東平定を目指す上杉謙信と盟約を結び、関東へ従軍するなど、破天荒な行動をみせました。
 兵庫県丹波市。二条晴良(にじょう・はれよし)と対立を深めた前久は、後に京から丹波国へと移ります。前久は黒井城の麓にある下館(しもやかた)に身を寄せました。現在、興禅寺(こうぜんじ)が建つこの地には、前久が設計したと伝わる庭が残されています。
 前久はその後も各地を転々とし、再起の時を待ったのです。

★戦国小和田チャンネル・「麒麟がくる」第29回「摂津晴門の計略」
https://www.youtube.com/watch?v=rALRwlKTxUU

 将軍の御座所「本国寺」襲撃で、織田信長は、2つ学んだという。
①幕臣だけでは将軍は守れない。→京に織田家家臣「京都奉行」を置く。
②本国寺では将軍は守れない。→京に二条城を築く。
である。

 織田方の「京都奉行」は、Ⅰ期が、
柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚
であり、Ⅱ期が、
丹羽長秀、明智光秀、中川重吉、木下秀吉(後の豊臣秀吉)
である。
 Ⅲ期は「天下所司代(京都所司代)」であり、村井貞勝である。

 さて、「目に見える京都再建」とは、「京都にある/あった建物の再建」であり、今回は建物シリーズである。

1.二条城 ─織田信長の計略─


 二条城は、
①2ヶ月間という誰にも真似の出来ない短期間で築くこと
②将軍の邸宅にふさわしく、豪華にすること
が必要であった。
 「早く」というのは、いつ三好勢が襲ってくるか分からないからであり、「豪華に」は、将軍の権威を示すためであって、表は「将軍のため」なのであるが、裏は「織田信長自身のため」であり、各大名に織田信長の力を示す計略(事業)だという(ジアン・クラセ『日本西教史』)。

早く」:2ヶ月間で築くには、多くの人を使えば良いのであって、大工や石工といった職人はもちろん、武士も工事に参加させた。(多くの武士が工事のために京都にいたので、三好勢は襲えなかったので、一石二鳥!)

豪華に」:問題は「早く築く」ことよりも、「内装を豪華に」することである。たとえば、豪華な襖絵は2ヶ月では描けない。そこで、織田信長は、付近の寺社から、襖絵などの物品や、名石などを徴集した。これは、足利義政が、東山山荘(後の慈照寺)の造園のため、東寺、鹿苑寺、長谷寺、建仁寺、大乗院、一乗院、小川第跡、室町第跡、仙洞御所跡などから庭石や名木を徴集したのを踏襲したのであろう。(このドラマのセットの見どころは天井絵でしょうね。)

 二条城には、鹿苑寺から細川邸へ運び込まれた「藤戸石(ふじといし)」と、慈照寺から「九山八海(くせんはっかい)」が運び込まれた。第3代将軍・足利義満の山荘「北山第」(後の鹿苑寺金閣)の「藤戸石」、第5代将軍・足利義政の「東山山荘」(後の慈照寺銀閣)の「九山八海」を運び込んだことは、両将軍の守護による両将軍が君臨した足利黄金時代(北山文化と東山文化)への復興願望、祈願の呪術であろう。

藤戸石:『平家物語』(巻10)「藤戸」の源平合戦「藤戸の戦い」に登場する「浮州岩」のこと。足利義満が、「源氏に勝利をもたらした岩」として山荘「北山第」に運び込ませ、「藤戸石」と名付けた。
九山八海:須弥山 (しゅみせん)を取り囲む9山と8海のことである。白砂の庭の9個の岩で、その雰囲気は、慈照寺の庭を模したと言われている「旧秀隣寺庭園(別名:足利庭園)」に見ることができる。

【参考記事】「織田信長が築いた二条城」
https://note.com/senmi/n/n36845b2a77a3

 織田信長の寺社から建築資材や名品を召し上げながらの二条城の工事に寺社は反発するが、織田信長が発した『殿中御掟』(永禄12年(1569年)1月16日)に「直訴訟停止事」とあり、将軍・足利義昭には直訴出来ない。ジアン・クラセ『日本西教史』には「天皇に訴えた」とあるが、『殿中御掟』に「訴訟之輩在之者、以奉行人可致言上事」(訴訟は奉行人を通せ)とあるので、ドラマでは、政所の頭人・摂津晴門に取次料(ドラマでは、取次終了後に金が入った袋を1袋、懐に入れていた)を払って将軍・足利義昭に訴えたとした。

▶二条城には三重の櫓があったという。ドラマの櫓のモデルは福山城の伏見櫓かな?
▶明智光秀が新しい塀に手を添え、御所の塀を思い出すという演出があったが、実際は不可能。堀があって塀に触れることは出来ない。

2.悲田処 ─足利義昭&駒の計略─


 駒を呼び出した将軍・足利義昭(駒の前では覚慶に戻る!)は、駒に「古(いにしえ)の「悲田院」のような館を建てたい」と言って地図を見せた。地図には重い病の者を入れる「施薬処 病者之宿処」、貧しい者に食べ物を与え休息できる「悲田処 飢餓者之宿処」が記されていた。
「将軍なので、(摂津晴門に命じれば)土地ぐらいは手に入る」
しかし、建設費用と人件費が無いという。
 駒は、
「始めから大きくおやりにならずに、この悲田処(ひでんしょ)を1つお建てになってはいかがでしょう」
と提案した。戦争孤児である駒が考えそうなことである。

聖徳太子の四箇院
・敬田院:寺院
・施薬院:薬局
・療病院:病院
・悲田院:身寄りのない老人や孤児などのための社会福祉施設

悲田と悲田院:恵みを生みだす田のように、福徳を生む物事を「福田」といい、「悲田」は「福田」の1つである。「悲田」の「悲」は、仏教の「慈悲」の「悲」であり、「悲田院」は、仏教の「慈悲」によって苦しみを除き、福徳を生む田のような施設であり、具体的には、身寄りのない孤児、身寄りのない老人、身寄りのない病人を救済するという仏教の「慈悲」の実践の場であり、平安京には東西にあった。

★戦国・小和田チャンネル「施薬院と悲田院について」
https://www.youtube.com/watch?v=zz-CHzDhEeE&t=7s

 ──1000貫は必要だ。

 1000貫は、足利義昭に言わせれば、1万人の貧民を1ヶ月間食べさせられる大金である。駒の計略は、「芳仁丸を売って1000貫稼ぐこと」である。既に200貫貯まっている。残りは今井宗久の案を採用すれば稼げるであろう。

3.御所 ─近衛前久&伊呂波大夫の計略─

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 好きなマンガの1つに、大和和紀『イシュタルの娘 ─小野於通伝─』(講談社)がある。主人公の小野於通は、近衛信輔(近衛前久の嫡男。近衛家18代当主)とは幼馴染で、この2人に出雲阿国(京都の出雲地区の出身で、幸神社の巫女であったが、踊り手に転職し、伊呂波大夫が踊っている「ややこ踊り」をベースに「かぶき踊り」を創始)が絡んでくる。
 上は近衛信輔が出雲阿国の楽屋に転がり込んでるシーン。近衛前久が伊呂波大夫の一座にいると、「親子揃ってまぁ」と思ってしまう。(私の頭の中には、マンガ、時代小説、ドラマと史実が混在している!)

 ある日、伊呂波太夫から呼び出された明智光秀は、近衛前久と対面する。近衛前久は、まずは明智光秀に鼓を打たせた。明智光秀は、「叔父・明智光安に手ほどきを受けた」と言って打った。近衛前久は褒め、
「以前、越後の上杉輝虎と話したことがある。立派な武将じゃ。その上杉が言うた。『今の幕府は、己の利しか頭にない。天下(てんが)を睨み、天下のために働く者がおらぬ。それ故、いつまでも世は治まらぬ』と。私は今、それが出来るのは、織田信長かと思うておる」
と言うと、
 ──タの音(ね)が弱かったぞ。薬指かな?
と言い残して(石山本願寺へと)去った。

光秀の名はすでに京で知らぬ者はなく、公卿や将軍、それとりまく京の貴人たちは、
「明智殿ほどこころよいお人はない。武人に似あわず、典礼にあかるく文雅に深く、物腰は閑雅で、まるで京育ちのようである。田舎武士の織田の家中としては貴重な存在であろう」
 と、評判は鳴るようによかった。
                    司馬遼太郎『国盗り物語』

 近衛前久は、明智光秀がどれほどの教養人、文化人であるか試してみたのであろう。鼓は、強く高い音(タ)、弱く高い音(チ)、弱く高い音(プ)、強く低い音(ポン)の4つの音が基本で、明智光秀は、その4音を打ち分けてみせた。(「タ」音の時、指がアップで映されたが、薬指が浮いて機能せず、本来、強いはずの「タ」の音が弱かった。)先週の明智光秀のお茶の作法は完璧であった。明智光秀は、教養人にして文化人。公家に好まれるタイプだ。
 ちなみに織田信長は鼓の達人で、入洛直後の観能会で、足利義昭に所望されたが断った。しかし、二条城落成祝の観能会では、自ら進んで、その腕前を披露した。

伊呂波太夫が補足した。
「この都には、公家や、武家や、私のような町衆がいて、そして、帝がおいでだと。帝も御料地を奪われ、大層お困りと聞きます。今の帝のひい御祖父(おじい)様は、崩御されても、お弔いの費用がなく、二月、放っておかれたと申します。それを助けるべき幕府は、手も差し伸べず、見て見ぬ振りをした。御所をご覧になればよく分かります。帝がどれ程お困りか」

御料地:直轄領。ここでは禁裏領(朝廷の領地)のこと。

後土御門天皇─後柏原天皇─後奈良天皇─正親町天皇(方仁親王)─誠仁親王

後土御門天皇:明応9年(1500年)9月28日、御所の黒戸にて崩御。葬儀の費用が無く、40日も御所に遺体が置かれたままだったという。江戸時代に書かれた『続本朝通鑑』には、「霊柩在黒戸四十日余、玉体腐損、而蟲湧出、古来未曾有焉」とあるが、本当に40日も御所に遺体が置かれたままだったのか、もしそうだとして、その原因は費用なのかと異説が複数出されている。

 織田信長がこう言った。
「昔、幼い頃、父に尋ねたことがある。『この世で一番偉いのは誰か?』と。『それはお日様じゃ』と言われた。『その次に偉いのは?』と尋ねると、『都におわす天子様、帝じゃ』と申された。わしには帝というものが分からなかった。『その次は?』と尋ねると、『帝をお守りする将軍様じゃ』と。『なんだ、将軍は帝の門番か』と思うた。我等は、その門番をお守りするため、城を造っておるのだ。わしの父は不思議なお方でなぁ、『近頃の将軍様は、帝をお守りすることを忘れておられる故、わしがお守りするのじゃ』と申して、帝の御所の塀を直すために4000貫もの大金を帝の元に送った。都へ来たが、わしはまだその塀を見たことがない。近頃、その塀が気になる。奇妙じゃな」

 信長の少年のころ、父から、
「吉法師よ、日本国でたれが一番えらい」
 ときかれ、即座に、
「将軍(くぼう)」
 と答えたが、父は意外にもかぶりを振り、
「京の天子よ」
 といった。
 この知識は父信秀の自慢のひとつで、よく家臣にも同じ質問をしては、「天子よ」と得意げに教えていた。これほどのことを知っている者は、諸国の諸大名でも類がすくない。
「偉いという証拠があるか」
と信長は父にきいたことがある。信長はなにごとにも実証がなければ信じない。
「官位をみろ。伊勢守とか弾正忠という官は、われら田舎の者が、金を将軍家に運んでくださるものだ。しかし、その将軍家も、左様か、されば武蔵守という官位を呉れてやる、というわけにはいかない。将軍家から天子に奏上してはじめて除目(じもく)される。されば将軍家は天子の申次ぎにすぎぬ」
「天子は戦が強いか」
 と信長がきくと、
「天子は兵を用いられぬ。平素はただ神に仕えておられる」
(神主の大親玉か)
 という程度に信長は理解していた。
 ところが、こうして、都へのぼってくるたびに思うことは、都の者は、
「将軍よりも天子のほうがえらい」
 ということを、ごく常識のようにしてもっていることである。これには信長も、思想を一変せざるを得ない。
                      司馬遼太郎『国盗り物語』

 司馬遼太郎は「1位:天皇、2位:将軍」としたが、ドラマでは「1位:太陽、2位:天皇、3位:将軍」と変えた。なぜ変えたのだろう? 『明智軍記』では、織田信長が明智光秀に討たれた理由を「天道に背いたから」とする。このドラマでも天道思想重視で、織田信長の切腹シーンに「一番はお日様じゃ」と言う織田信秀の回想シーンが重ねられるのだろうか?

 ──将軍の二条城の建設よりも、帝の御所の修理が優先されるべきでは?

 気になった明智光秀は、伊呂波太夫に御所を案内してもらう。築地塀の一部が崩れていた。伊呂波太夫が説明する。

「子供が入り込んで、木を折ったり、御殿に石を投げたりするそうです」

江村専斉『老人雑話』
 信長の時は、禁中微々なりし事、辺土の民屋に異ならず。築地などは無く、竹の垣に茨など結(ゆ)いつけたる様也。老人(注:江村専斉)、児童の時は、遊びに行きて、縁にて土などねやし(注:捏ね)、破れたる簾を折節あけて見れば、人も無き体也。信長、知行など付けられ、造作など寄進ありし故に、少し禁中の居做(ゐなし。注:佇まい)よくなりたり。是によって、信長を御崇敬ありて、高官にすゝめらる。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920299/160

※伊呂波太夫(田中悠愛ちゃん9歳)と方仁親王(須藤琉偉君14歳)の年齢差は5歳。正親町天皇は永正14年(1517年)生まれだから、永禄12年(1569年)には53歳。伊呂波太夫が5歳下なら48歳。明智光秀が享禄元年(1528年)生まれであれば42歳で、近衛前久は天文5年(1536年)生まれの34歳である。
 近衛前久と伊呂波太夫との年齢差は14歳。14歳の少女が、生まれたばかりの近衛前久のおしめを替える姿は容易に想像付くけど、14歳の頃には、もう近衛邸を出てたんじゃないの?

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筋塀:「定規筋(じょうぎすじ)」と呼ばれる白い水平線が引かれた築地塀で、皇族や摂家などの御所に用いられた。後に門跡寺院(興福寺一乗院など、皇族や摂家の子が出家して住職を務めた寺院)の塀にも5本の定規筋を引くようになった。一般の寺にも広まると、寺格に応じて定規筋の数が3本、4本、5本に決められた(5本線が最高格式)。
https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/132.pdf

 4月8日、織田信長は、ルイス・フロイスに対し、京都居住を許可した。
 4月13日、織田信長は妙覚寺に入った。(織田信長は、京都に居城を築かず、妙覚寺、本能寺、明智屋敷を寝所(宿泊所)とした。後に寝所として二条新御所を築くが、誠仁親王に献上した。)万里小路惟房が妙覚寺に来て、織田信長に、宇津頼重の禁裏御料所・丹波山国庄の違乱を訴えた。
 4月14日 、足利義昭、完成した二条城へ動座。
 4月15日、織田信長は、高槻城の入江春景を討ち、高槻城に和田惟政を城主として入れ置いた。
 4月16日、朝山日乗(日乗上人)は、職人の頭領たちを烏丸亭に集め、御所(内裏、禁裏)の総工事費を見積もらせると、約1万貫であった。
 4月18日、和田惟政を後ろ盾とするルイス・フロイスが妙覚寺に来て、織田信長に時計をプレゼントしようとしたが「複雑過ぎる」と返された。
 4月19日、朝山日乗は禁裏修理奉行に任命され、修理費1万貫を渡された。
 4月20日、ルイス・フロイス&ロレンソ了斎と朝山日乗は妙覚寺の織田信長の面前で宗論を行った。ルイス・フロイスが「永遠の霊魂」の存在を説くと「見てみたい」と朝山日乗は、部屋の隅に置かれていた長刀を手にしてロレンソ了斎の首を刎ねようとしたが、織田信長に止められた。この時、和田惟政は、「織田信長の面前でなければ、朝山日乗を斬っていた」と言った。朝山日乗が許されたのは、「禁裏修理奉行に任命したばかりだからであろう」とルイス・フロイスは推察している。
 4月21日、織田信長、岐阜へ。足利義昭は、門外まで見送り、織田信長が粟田口に入るまで遠見した。
 6月8日、内裏修理工事着工。(工事完了は、10ヶ月後の永禄13年3月21日。とはいえ、12月と1月は宮中行事があって、工事が中断されたようで、実質8ヶ月。)

朝山日乗:後奈良天皇が内裏の修理を要請すると、天文12年(1543)2月14日、織田信秀が内裏修理料4000貫を献上した。しかし、その金額では塀を直す程度であった。朝山善茂が出家し、夢で釈迦に「内裏の修復をせよ」と命じられたことを近衛前久が後奈良天皇に奏上すると「日乗上人」の号を賜った。

「永禄度内裏」の工事期間:工事は永禄12年(1569年)6月着工に決まり、陰陽師(土御門有脩)が6月を調べると、着工の吉日は8日と12日だったので、6月8日に始めたという。(某サイトに「永禄13年2月2日、工事開始」とあった。この根拠は、『言継卿記』の永禄13年2月2日条の「今日、禁中、御作事始云々」であろうが、これは、「年末、年始は、宮中行事で工事が中断されていたが、2月2日から工事が再開された」の意味である。)工事は永禄13年3月21日に一応終わったが、なんだかんだで3年かかったという。

太田牛一『信長公記』(巻2)
抑(そもそも)、禁中、御廢壊、正躰なきの間、「是れ又、御修理なさるべき」の旨、御奉行、日乗上人、村井民部少輔、仰せ付けられ候ひき。
【現代語訳】 禁中(内裏)は荒廃して、元の姿を留めていなかったので、(織田信長は)「ここも修理しなくては」と、奉行の日乗上人(朝山日乗)と村井貞勝(後の京都所司代)に修理を申し付けた。)


4.摂津晴門の計略


 鎌倉時代以降、寺社や貴族の荘園は、武士に奪われていった。足利義昭を擁して織田信長が上洛した時も、幕府奉公衆や織田家家臣による土地の横領が行われたという。
 寺社と武士は、守り、守られの関係で、永禄9年(1566年)2月17日、覚慶が矢島御所で還俗して「足利義秋」と名乗る5日前、東寺鎮守八幡宮へ願文を送っている。(「東寺鎮守八幡宮様、どうか、凶徒(三好氏?)を退治して下さい。すぐに帰京できれば、1宇建てます」。)

※「足利義秋願文」(「信士家世襲文書」)
立願文
   東寺八幡宮
右所願凶徒令退治、急速令帰洛者、可奉建立一宇之状如件
                 (花押)
     永禄九年二月十二日

 実は、明智光秀も、上洛以降、「足利義昭から拝領した」と称して、土地を横領していたようで、ドラマでは永禄12年(1569年)4月に変更されているが、元亀元年(1570年)4月10日、東寺宝菩提院の僧・禅我(ぜんが)が、「明智光秀の東寺八幡宮領である山城国下久世荘の横領を止めさせて欲しい」と、室町幕府奉行・松田秀雄&飯尾昭連(貞遙)に訴え出ている。

『山城国久世上下庄年貢米公事銭等注文』(「東寺百合文書」)
永禄十一年、上様御出張之砌、明知拝領之由被申、押領候。然者、小野木殿、西岡御代官間、相理申候処、従去々年、十五石之分寺納申候。
【書き下し文】永禄十一年、上様御出張の砌(みぎり)、明智拝領の由、申され、押領候。然らば、小野木殿、西岡御代官の間、相理申し候処、去々年より、十五石の分、寺納申し候。
【大意】永禄11年、上様(足利義昭)が上洛した時、明智光秀は、「上様から拝領した」として横領した。それで、木下秀吉家臣・小野木重次が西岡(山城国西部)の代官であったので、筋を通して訴えたところ、一昨年より、15石分が東寺に納められるようになった。
※『就下久世儀上意へ申状、元亀元』(「東寺百合文書」)
当寺八幡宮領下久世庄、年中為御神供料所、等持院殿御寄附已来、干今、無相違之処、明知十兵衛尉方、彼庄一職為上意被仰付由被申、年貢諸事物等、至干今無寺納候条、御訴訟可申上と存刻、殊に来十五日放生会料、従上下庄令沙汰之間、下庄へ申付之処、十兵衛尉一円存之間、雖為本所分、年貢諸公事等曾以不可致沙汰之由申、不能承引候、既上庄之儀者、厳重依被仰下、無相違神事法会執行、日々抽御祈祷精誠候、然に下庄之儀者、如此候へば、放生会雖可及退転候、天下安全御武運御長久神事儀御座候間、先役者中に申付、可致執行存候、殊更自彼下庄、就放生会所出物并懃役等数多在之儀候、大様之儀迄、此度不可致沙汰之由申放候、無勿躰存候、所詮被退彼妨候様ニ、為公儀急度被仰出候様、宜預御披露候、
  元亀元 四月十日        禅我
(折封上書)
  松田主計大夫殿
  飯尾右馬助殿
【写真】
http://hyakugo.pref.kyoto.lg.jp/contents/detail.php?id=19495
【書き下し文】&【大意】
https://note.com/senmi/n/nebdc50c82a60

学説:学説は、「「上様(将軍・足利義昭)」が「上意(将軍の命令)」で東寺の鎮守八幡宮領「下久世庄」を家臣・明智光秀に与えた」を前提として、次の2つに分かれる。

学説A:明智光秀は、足利義昭の家臣(幕臣、奉公衆)であるから足利義昭が土地を与えた。明智光秀は、織田信長の家臣ではないので、織田信長からは土地を与えられない。

学説B:明智光秀は織田信長の家臣であるが、この訴状から足利義昭の家臣でもある「両属」状態にあったことが判明した。

通説は学説Bですが、ドラマでは学説Aを採用。
ちなみに、私の説(解釈)は↓
https://note.com/senmi/n/nebdc50c82a60

ドラマで、足利義昭は、駒に対して、
「将軍なので、(摂津晴門に命じれば)土地ぐらいは手に入る」
と言っている。足利義昭は、上洛に尽力したお礼として、明智光秀に、妻子が住む明智屋敷の建設地を摂津晴門に命じて与えた。ところが、摂津晴門が選んだ土地は、東寺の領地であった。明智光秀は怒るが、摂津晴門にしたら、こういうことは日常茶飯事であって、意に介さないようだ。

「困ったお方じゃ。世の仕組みを教えて差し上げたのじゃが、じゃが!」

 なお、明智屋敷は、下久世庄(京都府京都市南区)ではなく、御所近隣の幕府奉公衆の屋敷が立ち並ぶ一角にあった(『言継卿記』)。

山科言継『言継卿記』(永禄13年1月26日条)
未下刻より奉公衆方、年頭之禮に罷向。路地次第、竹内治部少輔、濃州へ下向云々、三淵大和守、同彌四郎、一色式部少輔、曾我兵庫頭、明智十兵衛、濃州へ下向云々、摂津守(後略)。
【現代語訳】15時頃から、幕府奉公衆の方々の屋敷へ年始回りに出掛けた。道順は、竹内治部少輔(美濃国へ行っていて不在)、三淵晴員、御部屋衆・三淵藤英、御供衆・一色藤長、申次衆・曾我助乗、明智光秀(美濃国へ行っていて不在)、摂津守(摂津晴門、もしくは、御牧摂津守)・・・。)

東寺鎮守八幡宮領「下久世庄」

 建武3年(1336年)6月、再度上洛を果たした足利尊氏は、本陣を東寺に置き、鎮守八幡宮(京都府京都市南区九条町)で戦勝祈願を行うと、新田義貞との洛中合戦に臨んだ。利無くして東寺の本陣に退却すると、鎮守八幡宮から新田軍に矢が放たれ、勝利できた。足利尊氏は、その御礼に、鎮守八幡宮に下久世庄を寄進した。

丹波の御料地

明智光秀は、摂津晴門に向かってこう言った。
「そうやって帝の丹波の御料地もお仲間の武家に与えられたのか?」
何の事? 宇津頼重による御料所・丹波山国荘の違乱の事? 
 朝廷の経済的困窮の主因となった山国荘の違乱問題については、織田信長が返還を命じたが、宇津頼重は無視したので解決しなかった。日乗上人も2人の奉行を連れて出向いたが、すぐに戻ってきた。明智光秀の丹波攻略によって宇津頼重が追討された結果、ようやく朝廷による山国荘の直務支配が回復し、朝廷から、明智光秀に鎧、馬、香袋が与えられた。(宇津頼重は土岐頼遠の末裔で、明智光秀は土岐頼重の末裔。同族の罪は同族が裁く!)
 寺社領(荘園)はともかく、御料所(朝廷の直轄地)の横領って・・・摂津晴門は否定しなかったけど、宇津頼重の独断であって、さすがに摂津晴門は関係ないと思うぞ。

 「摂津晴門の計略」というタイトルを聞いて、摂津晴門と明智光秀が足利義昭の面前で討論して、明智光秀が負けそうだったが、細川藤孝が証拠を見つけて倍返し出来たという半沢直樹的展開を想像していたが、そうではなかった。
 読解力に欠く私には「摂津晴門の計略」が分からない。
 摂津晴門の登場は2回。
 最初の場面では、寺社が金を差し出して足利義昭に直訴し、最後に摂津晴門が成功報酬なのか、取次料なのか、一袋、懐に入れた。
 次の場面は、明智光秀に「下久世庄を誰が横領して私に与えたのか調べて報告しろ!」と恫喝され、こっそりとその訴状を破る場面。摂津晴門は「横領しましたね」と明智光秀の弱みを握り、「これで、あなたも私も同じ穴の狢」と言って、味方にしようとしたが、細川藤孝の報告で先手を打たれて失敗し、訴状を破いた(のだと思う)。
 思うに、「摂津晴門の計略」って、「朝倉義景に讒言して、織田信長と敵対させる」レベルの大きな陰謀ではなく、「本当は禁止だけど、特別に取り次いであげる」と言って取次料をせしめるとか、寺社の荘園を横領するって個人レベルの話(賄賂、横領)?

 あと分からないのが崩れている御所の築地塀。織田信秀が朝廷に4000貫送ったのに、公家たちが着服して直さなかったのか、直したけど、その後の戦いで、また崩れたのか、どちらだろう? 織田信長の「都へ来たが、わしはまだその塀を見たことがない。近頃、その塀が気になる。奇妙じゃな」という言葉からは、織田信長は、「直さなかったのでは?」と疑っているように思われる。だとしたら、幕臣だけではなく、公家も腐ってる。
 織田信長が行った修理工事は、門や建物の屋根の修理が中心で、塀については「南西御築地、新儀に高く厚く覆瓦之儀、御造替候」とある。なお、京都御所の築地塀が、ドラマのような、現在と同じ筋塀(最高位の朽葉色に横に白い5本線が入る築地塀)になったのは、江戸時代中期とされる。

 今回の記事の小見出しは、「◯◯の計略」としてみた。記事を書き終えて振り返ると「明智光秀の計略」がない。主人公なのに影が薄い・・・。
 放送開始前は『光秀と煕子』で「家族愛の物語」になると予想された方がおられましたが、結局は『麒麟がくる』で、次から次へと戦国武将が生まれては消え、「誰が麒麟を連れてくるのか? 誰が平和な世にするのか?」という「群像劇」となり、主人公であると思われる明智光秀の出番が減り、妻・煕子もなかなか出てこない。

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