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織田信長 -天正5年12月15日の鷹野-

 天正5年12月15日の三河国吉良(愛知県西尾市吉良町)での鷹野(鷹狩)が、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』(2021/1/24放送)で扱われた。

この鷹野について、織田信長は、明智光秀に、
「去年、鷹狩に、三河岡崎まで足を伸ばしたことがある。その時、儂の警護に付き添うた家康の家臣たちは、儂のことを妙な目で見た。三河の者が、尾張の者を睨む目じゃ」
と語り、徳川家康は、明智光秀に、
「昨年、織田様が、僅かな供だけを連れて鷹狩に岡崎までおいでになった時、『今なら討てる』と申した者がおります」
と語った。

 ──不穏な雰囲気である。

 その昔、織田信長が足利義昭を擁して上洛する前、上洛ルート上の領主・六角義賢と話し合おうと、織田信長が馬廻り衆250騎を引き連れて、佐和山城にいたことがあった。この時、接待役の浅井長政家臣・遠藤喜左衛門直経が、浅井長政に「今なら織田信長を討てる」と言うと、浅井長政は「暗殺は信義に反する」と拒否したという。後に浅井長政は織田信長を裏切り、堂々と戦った。
 徳川家の状況は朝倉家に似ている。徳川家康も浅井長政のように織田信長を裏切ることになり、暗殺ではなく、堂々と戦うことになるのだろうか?

 ──実際、織田信長と徳川家康の仲はどうだったのか?

 織田信長の行動について詳しく書かれている太田牛一『信長公記』には、次のように書かれている。

※太田牛一『信長公記』(巻10)「三州吉良へ御鷹野の事

 12月10日、三州吉良御鷹野に御出で。「近日に、羽柴筑前罷り上るべく候。今度、但馬、播磨申しつけ候御褒美として、おとごせ(乙御前)の御釜下さる」の由にて、取り出だしおかれ、「罷り参り次第、筑前に渡し候へ」と、仰せつけられ候。忝き御事なり。
 信長公、其の日は、佐和山惟住が所に御泊り。次の日、垂井に御成り。12日、岐阜に至って御座を移され、翌日、御逗留。14日、雨降り候と雖も、尾州清洲御下着。
 12月15日、三州吉良まで御成りあって、鴈、鶴余多御取り飼ひなされ、19日には濃州岐阜へ御出で。さる程に、路次にて緩怠の者御座候を、信長公、御手討ちの仰せつけられ候。
 12月21日には、安土まで日通しに御帰城なり。

【大意】天正5年12月10日、織田信長は、三河国吉良(愛知県西尾市吉良町)での鷹狩りのため、安土を出立した。「近日中に羽柴秀吉が帰陣するであろう。但馬&播磨平定の褒美として『乙御前の釜』をやろう」と言って取り出し、「羽柴秀吉が来たら渡すように」と留守居役・菅谷九衛門尉に指示した。有難きことである。
 織田信長は、佐和山の丹羽長秀の居城に宿泊し、翌日は垂井に到着。12日に岐阜城に到着し、翌日まで逗留した。14日は雨が降っていたが、尾張国の清洲に到着。
 12月15日、織田信長は、三河国吉良で鷹狩りを行い、(兎は冬眠中であったが)雁や鶴などの鳥を、たくさん獲った。
 19日に岐阜城へ戻ったが、途中で過失を犯した者がいたので、手討ちにした。
 12月21日には安土へ帰城した。


 以上のように、近江国安土で鷹野をせずに、美濃国岐阜、尾張国清須を経て、わざわざ三河国吉良まで行った理由も、織田信長に対する三河衆の態度についても書かれていない。
 あと、帰路で(12/15~12/19の間で)手討ちにされた「緩怠(かんたい)の者」が、具体的にどんな緩怠(過失)を犯したのかが気になる。

 似たような記事に、天正8年4月24日の記事がある。

※太田牛一『信長公記』(巻13)「安土城下に屋敷地を賜う」

 辰4月24日、伊庭山御鷹野へ御出で。丹羽右近の者ども、「普請仕り候」とて、山より大石を、信長公御通り候御先へ落とし懸け候。此の中、条々相届かざる道理の旨、仰せ聞かされ、其の内、年寄候者を召し寄せられ、一人御手打にさせられ候。

【大意】 4月24日、織田信長は、伊庭山へ鷹狩りに出かけた。丹羽氏勝の家臣たちが、「土木工事をする」といって、山から巨岩を織田信長が通る先へ落としてしまった。織田信長は、これが(間者による織田信長の暗殺未遂ではなく)様々な不行届きによって起こった事件であるという報告を聞き、丹羽氏勝の家臣のうち、年輩の者を呼びつけて(不注意を叱責し)、1人を手討ちにした。


 この記事では、手討ちの理由が書かれている。なぜ先の記事には詳しい手討ちの理由が書かれてないのだろうか?

 手がかりを求めて、鷹狩が大好きな深溝松平家の宗主・松平家忠の『家忠日記』を読んでみた。

松平家忠『家忠日記』天正5年12月14日~27日の記事
14日丙申 雨降り。深溝へかへり候。
15日丁酉 会下へ参り候。
16日戊戌 家中衆水鳥一位たしの(虫食い)
(虫食い)(  虫食い  )迄家康越。後、岡崎へ越る。
(26日まで欠損)
27日(以下略)

【解釈】
14日丙申 岡崎城から居城・深溝城(愛知県額田郡幸田町深溝)へ帰る。
15日丁酉 会下(仏教の教えを聞く会)に参会する。
16日戊戌 家中衆、水鳥(解釈不明)。
17日甲亥 浜松城から吉良まで徳川家康が来て、後に岡崎城に入る。


 どうも12月17日に徳川家康が、浜松城から吉良に来て織田信長と鷹狩を行い、その後、岡崎城に入ったらしい。肝心の手討ち部分については、故意なのか、ページが抜かれているので不明である。

 もしかして17日の記事は「浜松城から吉良に来て、15日から鷹狩をしている織田信長に合流し、その後、岡崎城に入った」ではなく、「浜松城から私がいる深溝に来て、織田信長と鷹狩の計画と準備を行い、その後、岡崎城に入った」であり、織田信長との鷹狩は後日(欠損部分)なのかもしれない。というのも、『信長公記』には「15日に織田信長が鷹狩を行った」とあるが、徳川家康の行動について詳しく書かれている木村高敦『武徳編年集成』では、鷹狩を22・23・24日の3日間としているからである。この『武徳編年集成』の12月の記事は、次の3件のみである。

木村高敦『武徳編年集成』
10日 神君、従四位下に叙し玉ふ。
22日 信長亦参州吉良に狩せらるゝ事、今日より3日と云々。
29日 神君、右近衛権少将に転任せらる。


 この鷹狩で、織田家と徳川家の関係が悪化したかといえば、そうでもなく、『武徳編年集成』の翌月(天正6年1月)の記事に、

16日 神君、浜松を発し、岡崎の城に赴き玉ふ。
18日 右府信長、又、参州吉良に至て放鷹せらること4箇日と云。


とある。織田信長は、また吉良に「放鷹」(鷹狩)に行っているのである!
ただし、日付は、1次史料『家忠日記』の方が正しいと思われる。

※松平家忠『家忠日記』天正6年1月16日~22日の記事
16日戊辰 雨降。御家門様御成候とて、家康(虫食い)御越候。
17日(略)
18日(略)
19日(略)
20日壬申 岡崎へこし候
21日癸酉 御家門様岡崎(虫食い)
(虫食い)甲戌 御家門様(虫食い)
(2月3日迄欠損)

【解釈】
 1月16日、「御家門様(織田信長)が来る」と言って、徳川家康は(松平家忠のもとへ打ち合わせに?)来た。
 20日、(徳川家康は?)岡崎城に来た。
 21日、御家門様(織田信長)が岡崎城へ来て、翌・22日、織田信長は(吉良で鷹狩をした?)。


 この時の鷹狩について、『信長公記』には次のようにある。

太田牛一『信長公記』(巻11)
1月13日、尾州清洲にて御鷹つかはさるべき為、柏原まで御成り。
14日岐阜へ御下り、翌日御逗留。
16日、尾州清洲へ御下着。
18日、三州吉良へ御成り、雁、鶴余多御取り飼ひなさる。
22日、尾州へ御帰り。
23日、岐阜まで御上り、次の日、御滞留。
25日、安土に至りて御帰城。


 「清須で「御鷹」(鷹狩)をする」と言って出て、急遽、予定を変更して吉良まで足を伸ばしているのである。どうも、この時期の織田信長には、徳川家康と直接話し合わなければならない何かがあったように思われる。(織田信長にとっての「鷹狩」は、現在の「ゴルフ外交」に相当するのか?)
 織田信長が相手の領地まで出向くのは「緊急性」よりも「相手の安心感」を重視しているからかもしれないが、徳川家康を呼ぶのではなく、織田信長から出向くほどのことがあったのかもしれない。

 ──それは何か?

 実際、織田信長と徳川家康の仲が良かったのか、悪かったのかは不明だが、織田信長が徳川家康を「東の壁(武田氏との障壁)」として頼りにしていたのは事実で、同盟関係が崩れぬよう、何度も三河に足を運んだのであろう。

※徳川幕府公式記録『徳川実記』「東照宮御実記」(巻2)
 信長卿はことし大納言より内大臣に昇られ、兵威ますます盛なり。5年12月10日、君も四位の加階ましまし、その29日、右近衛の権少將に任じたまふ。
 当時天下の形勢を考るに、織田殿、足利義昭将軍を翊戴し、三好、松永を降参せしめ、佐々木六角を討ち亡し、足利家恢復の功をなすにいたり。強傲專肆かぎりなく䟦扈のふるまひ多きを以て、義昭、殆どこれにうみくるしみ、陽には織田殿を任用するといへども、その実は是を傾覆せんとして、ひそかに越前の朝倉、近江の浅井、甲州の武田に含めらるゝ密旨あり。これ、「姉川の戦」おこるゆへんなり。その明證は、高野山蓮華定院吉野山勝光院に存する文書に見へき。また其後にいたり、甲州の武田、越後の上杉、相摸の北条は、関、東北国割據中最第一の豪傑なるよし聞て、この三国へ大和淡路守等を密使として、信長誅伐の事をたのまれける。その文書もまた吉野山勝光院に存す。
 しかれば、織田氏を誅伐せんには、当時、徳川家與国の第一にて、織田氏の頼む所は徳川家なり。故に先ず徳川家を傾けて後、尾州へ攻め入りて織田を亡し、中国へ旗を挙げんとて、信玄、盟約を背き、無名の軍を興し、遠三を侵掠せんとす。是れ、「三方原の大戦」おこるゆへんなり。勝頼が時にいたり、また、義昭より、北条と謀を同じくして織田をほろぼすべき事をたのまるゝ。その使は真木島玄蕃允なり。此文書又勝光院につたふ。是れ、勝頼がしばしば三遠を襲はんとする所にて、「長篠大戦」のおこるゆへんなり。義昭、ついに本意を遂ず、後に芸州へ下り、毛利をたのまる。これ、豊臣氏、「中国征伐」のおこる所之。しかれば、「姉川」「三方原」「長篠」の三大戦は、当家において、尤も険難危急なりといへども、その実は、足利義昭の詐謀におこり、朝倉、武田等、をのれが姦計を以て、また纂奪の志を成就せんとせしものなり。すべて等持院将軍よりこのかた、室町家は人の力をかりて功をなし、その功成て後、また他人の手をかりてその功臣を除くを以て万古不易の良法として、国を建し餘習。十五代の間、其の故智を用ひざる者なし。終に其の故智を以て、家、国をも失ひしこと豈天ならずや。

※『家忠日記』(駒澤大学図書館)
https://www.sankeibiz.jp/business/news/200329/prl2003290913002-n1.htm
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/02/syoho0002-iwazawa.pdf

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