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織田信長の伊勢国平定

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伊勢国の状況をざっくりと地図に記入してみた。(大雑把な地図だけど、描くのに結構時間がかかった。苦労した。)

※『勢州軍記』
 近来伊勢国は、諸家、凡そ四分にて之を守護す。南五郡は国司・北畠家の領地也。北八郡は工藤一家、関一党、其の外、「北方諸侍」の領地也。但し、南方度会郡山田、三保、宇治、大郷等は天照大神宮の領知也。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936494/5

 
 伊勢国13郡は、南から、
①山田等の伊勢神宮領以外の南勢5郡:北畠氏(北畠親房の末裔)
②北勢:工藤一族(工藤祐経の末裔=長野氏、分部氏、細野氏など)
③北勢:一党(平家の末裔=関氏、峯氏、国分氏、鹿伏兎氏など)
④北勢:「北方諸侍」(「北勢四十八家」と呼ばれる土豪、国衆)
と、4つに分かれて分割統治をしていたと『勢州軍記』にあります。

 織田信長の北勢攻略は、
①工藤一族→長野具藤を追い出して、弟・織田(長野)信包を宗主に。
②関一党→神戸友盛と和睦して、三男・織田(神戸)信孝を宗主に。
③北勢四十八家→滝川一益が飴と鞭で制圧。
というものでした。

北勢四十八家については、『勢州四家記』に次のようにあります。

 永禄十年春、美濃国織田上野守平信長、伊勢の国を打ち取るべきとて、滝川左近大夫将監一益を大将として、勢州北方へ発向せしむ。滝川家、尾張堺長島、桑名辺、美濃堺多渡辺へ打ち出で、北方諸侍、或は攻め、或は和し、武威を振るひ、員弁、桑名両郡の諸侍・上木、木俣、持福、以下、漸々に織田家に帰服するなり。(『勢州四家記』)

 滝川一益が北勢四十八家(北方諸侍)を攻めると、「北方諸侍、或は攻め、或は和し(ある土豪は攻めてきたが、ある土豪は和議を求めてきた)」中で、滝川一益は「武威」を振るって平定しました。

 これを『明智軍記』では、まずは北勢四十八家(北方諸侍)に明智光秀と勝恵が和議(飴)の条件を示し、従わなければ、滝川一益が武力(鞭)で攻め亡ぼしたとしています。

此の旨を信長、聞こし召され、御感に依て、明智方へ尊書を賜り、「敵国を治むる法は、其の地の士卒、帰服を以て善(よし)とす。今、働きの故に、勢州、悉く治むべき端也。弥(いよいよ)、智謀を廻らすべし」とぞ仰せ下さられる。一益が方へも万(よろ)ず明智と相談致し、計略有るべき由、仰せ遣はさられけり。(『明智軍記』)

【大意】明智光秀の「調略」の話を聞いて感心した織田信長は、明智光秀に「敵国を治めるには、その国の国衆たちを(武力を以ってすれば、反感を買うし、こちらの兵も命を落とすので)帰服させるのが良い。今回の明智光秀の働きは、伊勢国平定の発端である。増々智謀を巡らすように」と手紙を送り、滝川一益には、「万事、明智光秀と相談して計略せよ」と伝えた。


 明智光秀と臨済宗天龍寺派大本山・天龍寺(京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)の雲水(学僧)・勝恵禅師との関係は、『明智軍記』には「当初(そのかみ)、光秀、相知りける禅僧」(旧知の仲)としか書いてありません。

明智光秀と勝恵との関係には3説あります。

①少年期:明智光秀は、少年期、光秀公学問所(岐阜県恵那市明智町の天神神社)に、天龍寺の勝恵を招いて学んだ。

②落城前:明智光秀は、元服すると上洛し、細川藤孝に仕えた。母の弟がいる天龍寺で勝恵に学び、「明智氏ピンチ」の一報を受けて明智城へ加勢に赴くも落城したので、京都へ戻り、妻子を天龍寺に預け(一説に子供(長男・宗琳と次男・光琳)のみ預け)、全国武者修行の旅に出て、朝倉氏に仕えると、妻子を呼び寄せた。

③落城後:明智光秀は、明智城が落城したので、鈑羽間友勝(養子。三淵藤英の実子)の子・鈑羽間友忠と共に上洛し、三淵藤英の弟・細川藤孝に仕えた。明智光秀は、細川家の家老と肌が合わず、出奔し、妻子を天龍寺に預け(一説に子供(長男・宗琳と次男・光琳)のみ預け)、全国武者修行の旅に出て、朝倉氏に仕えると、妻子を呼び寄せた。

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