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「訳す事」と「解釈する事」-『信長公記』「首巻」の現代語訳を終えて-

 ──天知る、地知る、我知る、人ぞ知る。(『後漢書』「楊震伝」)

 秘密事ですら、天も、地も知っている。『信長公記』によれば、天道は恐ろしいもの(『魏書』に「天網恢恢疎にして漏らさず」)で、今川義元は、忠臣・山口親子に切腹させたので、山口親子の領地で殺されたという。(桶狭間は水野氏の領地だと思うが。)
 もうひとつ、『信長公記』には、清洲ではなく、運が尽きた験(しるし)であろうか、桶狭間で戦ったので討たれたとある。

 ──運の尽きたる験にや、「おけはざま」と云ふ所は、はざまくみて深田足入れ高みひきみ茂り節所と云ふ事限りなし。深田へ逃げ入る者は所をさらずはいづりまはるを若者ども追ひ付き追ひ付き二つ三つ宛手々に頸をとり持ち御前へ参り候。(『信長公記』第39話「今川義元討死の事」)

 「桶狭間」と聞いて、丘陵地帯(名古屋市緑区)を想像しながら訳すか、狭間(豊明市の屋形狭間。窪地)を想像して訳すかで、訳が異なる。

 ──解釈が変われば、訳が変る。

 私は、「桶狭間は、湫み、深み、高み、低み、茂みがある節所」(足を取られる湿地や深田があり、高い場所や低い場所があって高低差があり、兵が隠れるには便利だが逃げる時には邪魔になる草木がある難所)と、まずはリズミカルに訳してみた。
 「はざまくみて」(天理本では「はざまくてみ」)は、「桶狭間」が丘陵地帯だとすると「谷が入り組んでいる丘陵で」、狭間だとすると天理本の「狭間、湫み」(窪地は湿地(くて)で。「長湫」「長久手」は「細長い湿地」)という訳になる。「深田、足入れ」は「入ると、足を取られて、身動きが出来なくなる深い田があり」と訳す。「高みひきみ茂り」は、「桶狭間」が丘陵地帯だとすると「高い場所、低い場所には草が茂り」と訳し、狭間だとすると「高い木や、低い草が茂り」「草木が高く低く茂り」と訳す。(実際、桶狭間に木があったかというと、なかった。瀬戸物(正確には猿投物?)を焼くために切ってしまい、一帯の山は禿山で、頂上に陣を敷けば見通しが良かったという。(その一方で、遮る物がないので、巨木をも倒す強烈な暴風雨を防ぐ術が無くて混乱した。)

 小軍が大軍に勝つには、籠城戦がベストで、平野で戦うのがワーストである。織田信長が採用した作戦は・・・

 ──其の夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色々世間の御雑談までにて、既に「深更に及ぶの問、帰宅候へ」と、御暇下さる。家老の衆申す様、「『運の末には智慧の鏡も曇る』とは、此の節なり」と、各嘲弄して、罷り帰られ候。

 作戦の話が全くなかったので、家老衆は、「殿の知恵の鏡が曇った」と織田信長を「嘲弄」しながら帰ったという。これを「嘲笑して」と訳された方がおられるが、笑ってはいない。想像するに、清洲城の廊下では、「殿はうつけだ」と怒り、家路では「明日、死ぬことになるぞ、どうしよう?」と困り果てた顔であったと思われる。そこに笑顔はない。

 意訳すれば、「明日は合戦だと言うのに、無策だとは、『運の末には知恵の鏡も曇る』とは、この事を言う」となり、ある研究者は「内通者や忍者がいるかもしれないので、作戦は話せなかったのである」と注を入れる。他の研究者は、「小軍が大軍に勝つには、籠城戦がベストなのに、野戦を選択するとは、『運の末には知恵の鏡も曇る』とは、この事を言う」と訳す。というのも、『信長公記』の普及している写本(町田本、陽明本)は上記の通りであるが、天理本では、「家老衆は籠城戦を主張したが、織田信長は国境付近で戦うことで押し切った」とあるからである。

 現代語訳は、訳者の解釈によっても、「どの写本を底本にしたか」によっても変わる。(もちろん、普通の本は、どの写本も大差ないが、『信長公記』の「首巻」は、まだ草稿段階だったようで、写本によって記述が異なる。天理本は最も古い写本であり、「織田信長が斎藤義龍と戦った」と書かれている。記述後に、斎藤義龍がすでに死んでいることに気付いたのか、町田本や陽明本では「織田信長が斎藤龍興と戦った」と修正されている。「首巻」については、自筆本が存在しないので、太田牛一本人が修正したのか、写した人が修正したのかは不明ではあるが。)

 ちなみに、私は、「『桶狭間の戦い』は、『鳴海桶狭間の戦い』である」と解釈して、第39話(話の数は、写本や研究者によって異なる)を訳した。

①早朝合戦:今川軍、丸根砦と鷲津砦を落とす。
②朝合戦:午前中、織田軍の先鋒を今川軍の先鋒が倒した「鳴海の戦い」。
③暴風雨:織田軍、「熱田社から吹いてくる神風」と解釈。今川軍、混乱。
④午後の合戦:織田軍が今川軍の混乱に乗じて攻勢し、今川軍、総崩れ。
⑤今川軍の退却:今川義元を追い、桶狭間で倒した「桶狭間の戦い」。

 「桶狭間の戦い」の勝利は、天(暴風雨)、地(起伏に飛んだ丘陵と湿地)、人(織田信長の精鋭部隊700~800人による今川本陣へのピンポイント攻撃)の勝利であった。(さらに、午前中に連勝した今川義元の油断もあった。)

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