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【活動支援記事】豊臣秀吉と明智光秀の出自

※「活動支援記事」について:「明智光秀に関する本を出版したい」なら、出版社に自費出版(セルフ出版)の費用を聞き、その出版費用をクラウド・ファンディングで集めるという手もあるのですが、漠然と「明智光秀を研究してます。取材費募集中」では集まらないので、「活動支援記事」を載せ、サポートを全て明智光秀公の調査・研究費にあてさせていただくことにしました。


 豊臣秀吉も明智光秀も有名人ですから、その出自ははっきりしていると思いきや、そうではありません。2人ともハイスペックだったので、実力主義者の織田信長に仕えたことから運が開け、有名になったようです。

1.豊臣秀吉の出自


 豊臣秀吉は、尾張国の農民の子で、義父と仲良くなれず、針を売りながら三河国へ行き、矢作橋で蜂須賀小六に出会って仕え、生駒吉乃(織田信長の側室)に推薦してもらって、織田信長に仕えたとされています。

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 とはいえ、当時、矢作川に橋は無く、史実は、「豊臣秀吉は、尾張国の農民の子で、忍者(表向きには能楽師)だった義父と仲良くなれず、針を売りながら遠江国へ行き、松下屋敷(頭陀寺城)の松下氏に仕えたが、能力が高すぎて、スピード出世を周囲の人々に妬まれたので、頭陀寺城を出て、織田信長に仕えた」のだとか。

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 松下屋敷(頭陀寺城)は、頭陀寺の前にあり、松下氏は引馬城の飯尾氏の家臣ですが、頭陀寺の寺侍でもあったようです。(磯田先生は、「寺侍でもあったが、松下常慶は山伏の姿で・・・」と説明されていました。最終的には、証拠を集めて「忍者だった」とおっしゃりたいようですが、本当に忍者であれば、「忍者だった」とする証拠は残さないでしょう。)
 この松下屋敷(頭陀寺城)は牢人が集まる梁山泊状態だったようです。

 豊臣秀吉は、能力が高すぎて、スピード出世を周囲の人々に妬まれ、頭陀寺城を出て、織田信長に仕えました。この時、超お気に入りの頭陀寺の仏像「空海作三面大黒像」を盗んだそうです。「大黒天は1000人司る」とされるので、豊臣秀吉は、「3000人の家臣を持つ侍大将になりたい」と思ったのでしょう。

2.明智光秀の出自


 明智光秀は、美濃国の武士の子で、居城を斎藤氏に落とされたので、越前国に逃げ、朝倉義景に仕えるも、能力が高すぎて、スピード出世を周囲の人々に妬まれ、一乗谷を出て、叔母・小見の方(父の妹で、帰蝶の実母)、もしくは、いとこ・帰蝶(織田信長の正室)に推薦してもらって、織田信長に仕えたとされています。

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 とはいえ、落城して逃げたのは、後に明智家を再興した愛菊丸(後の明智定政)であり、後に明智光秀と名乗ることになる人物は、「佐目に生まれて、六角氏に仕えて甲賀流忍術(情報を引き出すコミュニケーション能力や疲れにくい歩き方など)を学び、諸国勘合し、妻子が出来ると、安定した生活を求め、『探索帳』を土産に、一乗谷の朝倉義景に仕えたが、能力が高すぎて、スピード出世を周囲の人々に妬まれ、一乗谷を出て、織田信長に仕えた」のだとか。

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 明智光秀は、長崎称念寺の門前で10年間、寺子屋を営んでいたとされますが、①当時はまだ江戸時代のような「寺子屋」は存在せず、②長崎から一乗谷に通うには遠く、③朝倉家の鉄砲指南役だというが朝倉氏の家臣一覧にその名がないことから、明智光秀は、長崎称念寺の横の長崎城にいた寺侍だと考えられます。長崎城の城主は不明ですが、近くに黒坂館があるので、黒坂氏だと考えられます。
 当時の長崎城は、牢人が集まる梁山泊状態だったようです。

 明智光秀は、能力が高すぎて、スピード出世を周囲の人々に妬まれ、一乗谷を出て、織田信長に仕えたそうです。
 なお、佐目から長崎に引っ越す時、川で大黒像を拾ったので、家で祀っていたら、客人が「これは縁起がいい。大黒天は1000人司るとされる。お主は1000人の家臣を持つ侍大将になれるぞ」と言ったので、「たったの1000人か」と言って、大黒像を川に捨てたそうです。

3.二人の御落胤


 後奈良天皇の子のご落胤が尾張国に2人いました。

 1人は豊臣秀吉です。豊臣秀吉のスピード出世の理由は、「天皇のご落胤だから」だそうです。

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