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『政秀寺古記』を読む 第5話「平手政秀諌死せし事」

第5話「平手政秀諌死せし事」

 角て信長卿、十六歳にて、父・備後守殿におくれ給ふ。
 信長卿は、御幼少より、行跡、我意にして、先考へも不孝に候事、起居に政秀、盡至諫申せしは、「先祖、先考へ不孝に候事、五常をしろしめされず候。古人の語にも「孝子事亡如事存」(孝子、亡きに事(つか)うること存に事うるが如し)」とこそは申しをかる。
 彌(いよいよ)御機隨に候ては、武家の御冥加も盡(つ)き候はんか。一度は国家をも治め給はんを見申し度存知そろを、乳哺より守り立て候へども、御機隨に候を悪く成らせ給ふ事、彌頼母敷(たのもし)げもなく君臣の間も不和に成り行き候へば、諫書を捧げてより年月工夫せられ、只自害をして三郎殿に見せ候はば、御心をもなをされ給はんと思い定め、政秀が領地の志賀村へ引入り、天文二年丑閏正月十三日の暁とかや、政秀内に家老の山田久内と云者を密に喚び、澤彦和尚へ一書を進め、「信長卿之御行跡、彌我意をならせ給へば諫言かへりて耳、逆らふ迄に候。所詮自害をして見せ申さば、御心も、なをされ給はんと存じ候。後世の事、頼み候」と也。
 角て床木に腰をかけ、一脇差切って「信長卿を急ぎ呼び申し候へ」と申されし時、家内の者ども、いねて有りしが、驚き起きて信長卿へ註進申すところ、はだかせ馬にて駈け付け給ふ。「さて、其の方、何にとして、か斯せんや」云ひながら、脇差に御取り付き候へば、床木より下りて御手を引きよせ、密かに何事をか暫く言上せんとや。信長卿宣ふは、「委細心得候。是より萬事其方異見次第なり。此の上、養生尤もなり」とて、又、脇差に御取り付き候へども叶わず、「是、御覧候へ」と云ふ儘(まま)、十文字に掻き切て、介錯なしに六十二歳にて逝去せらる。信長卿、死骸に御抱き付き候て、御愁嘆の事、限りなし、「古今、追腹をば切る者は多し。君の御心を直さん其のために自害をして見せ申す事、本朝にも異朝にも無双の侍哉」と、自国、他国の貴介公子、惜しまぬ人はなかりけりと也。

【現代語訳】

 こうして織田信長公、16歳の時、父・織田備後守信秀殿が亡くなられた。病死で、享年42という。(48歳まで生きられなかった。早すぎる死である。)
 織田信長公は、幼き頃より、行いが我儘(わがまま)で、先考(亡父)にも親不孝者(織田信長は、織田信秀の位牌に抹香を投げつけたという)であった。起居(日常生活)において、守役・平手政秀が、その都度諫めてきたのは、「先祖や先考(亡父)への不孝は、五常(仁、義、礼、智、信)が分かっておられないからである。『荀子』「礼論篇」の言葉にも「孝子事亡如事存」(孝行息子は、亡くなった人に対しても、今生きている人と同じように孝行する(大切に扱う))とある」ということである。
 これ以上、勝手気ままにされたのでは、武家の冥加も尽きて(神仏や先祖の加護から見放されて)しまわないか。一度は(天下人になって)国を治める姿を見たいものだと思って、乳児の頃から守り立ててきたが、我儘の度が過ぎた今は、頼もしくは無く、主従関係も不和に成ってきているので、諫状を捧げてから、いろいろと考えてきたが、「自害して織田信長殿に見せれば、御心を直される」と思い、平手政秀は、領地である志賀村(愛知県名古屋市北区平手町)の平手屋敷(志賀城)へ行き、天文2年(天文22年の誤り)閏1月13日の明け方、平手屋敷に家老の山田久内という者を密かに呼び、沢彦和尚へ手紙を書いて託した。そこには、「織田信長公の行いは、どんどん我儘になっていき、注意すればするほど(うるさがって)かえって耳を貸さない迄になってしまった。ここまでくると、自害をして見せなければ、御心は直らないと思われる。後の事、頼みます」書かれていた。
 こうして、床几に腰かけ、腹を刺して、「織田信長公を急いで連れてきて下さい」と言った時、家の者は寝ていたが、驚いて起きて、織田信長公へ連絡すると、裸背馬(はだかせうま。背中に鞍を乗せていない馬)に乗って(馬に鞍を乗せる時間も惜しみ、急いで)駆け付けた。織田信長公は、「さてさて、お前はどうしてこんな事をしたのだ?」と言いながら、脇差に手をやり、引き抜こうとしたので、平手政秀は、床几から下りて、織田信長公の手を引き寄せ、(耳元で)密かに何かを暫(しばら)く告げていた。織田信長公は「委細承知した。今後は、全て、そなたの言う通りにする。さぁ、手当をしよう」と言って、また、脇差に手をやり、引き抜こうとしたが、平手政秀は拒み、「これを御覧下さい」と言うと、腹を十文字に掻っ切って、介錯も無しに62歳で亡くなった。織田信長公は、死骸に抱き付いて嘆き悲しむ事、この上なかった。「今も昔も、追腹(主君が亡くなっての殉死)する者は多い。しかし、主君の心を直さんがために諌死して見せることは、日本にも外国にも、並ぶ者がいない立派な侍である」と、日本や他国の貴介公子(きかいこうし。身分の高い家柄の男子)で、平手政秀の死を惜しまない人はいなかったという。

【解説】


平手政秀宅址 ここ志賀の地を領した平手政秀は、主君織田信秀の子、信長の補佐役をつとめた。
 信長はかねてから行状が悪く、政秀は日ごろからこれをいさめていたが、父信秀の死後も一向に改まらなかった。天文22年(1553)正月13日、信長の将来を絶望した政秀は、この地で自害した。信長はその死を哀惜し、一寺を建て、政秀寺と号して厚く菩提を弔った。 名古屋市教育委員会」(「平手政秀宅址」現地案内板)

 短刀で腹を刺すと、超痛いので、短刀を刺すと同時に介錯人が首を斬ってあげるのだそうですが、平手政秀は凄いね。織田信長が来るのを待ち、何かを告げて、介錯無しで作法通りの切腹をするとは。「凄い!」「お見事!」「立派!」としか言いようがない。
 平手政秀の切腹の理由は、「織田信長を諌めるため、心を直すため」であり、直接の原因は「織田信長が織田信秀の位牌に抹香を投げつけた」ということだそうです。この織田信長の先考や先祖を敬ない行為は、守役の平手政秀の責任とされたようです。
 ──本当にそうでしょうか?
 最後に織田信長の耳元で、平手政秀が何を頼んだのかが気になります。一説に嫡男が敵と内通していたのがばれての自殺であり、「後のこと頼みます。平手家を潰さないで下さい」と言ったのだとか。
※『信長公記』第14話「平手中務生害の事」参照

★織田信秀の死:「信長卿、十六歳にて、父備後守殿におくれ給ふ」とある。織田信秀の没年には諸説ある。織田信長が生まれたのは天文3年であるから、16歳の時であれば、天文18年となる。天文19年、または、天文20年11月5日付の書状に「備後守病中ゆえ」とあり、通説では天文21年に亡くなったとする。織田信秀は、亡くなる時に「死を3年隠せ」と言っているので、天文18年に亡くなり、天文21年に公表されたのかもしれない。
※『信長公記』第10話「備後守病死の事」参照

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