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『信長公記』「首巻」を読む 第10話「備後守病死の事」

第10話「備後守病死の事」

一、備後守殿疫癘に御悩みなされ、様々の祈祷、御療治候と雖も、御平愈なく、終に三月三日、御年四十二と申すに、御遷化。生死無情の世の習ひ、悲しきかな。颯貼たる風来なりては、万草の露を散らし、漫漫たる雲色は満月の光を隠す。
 さて一院建立、万松寺と号す。当寺の東堂「桃巌」と名付けて、銭施行をひかせられ、国中の僧衆集まりて、生便敷御弔いなり。
 折節、関東上下の会下僧達余多これあり、僧衆三百人ばかりこれあり。三郎信長公、林、平手、青山、内藤、家老の衆、御伴なり。御舎弟勘十郎公、家臣柴田権六、佐久間大学、佐久間次右衛門、長谷川、山田以下、御供なり。
 信長、御焼香に御出づ。其の時の信長公御仕立、長つかの大刀、わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻き立て、袴もめし候はで、仏前へ御出でありて、抹香をくはつと御つかみ候て、仏前へ投げ懸け、御帰る。御舎弟勘十郎は折目高なる肩衣、袴めし候て、あるべき如きの御沙汰なり。三郎信長公を、「例の大うつけよ」と、執々評判候ひしなり。其の中に筑紫の客僧一人、「あれこそ国は持つ人よ」と、申したる由なり。

 三郎信長公は上総介信長と自官に任ぜられ候なり。

一、末盛の城、勘十郎公一参り、柴田権六・佐久間次右衛門、此の外、歴貼相添一御譲るなり。

※この後に平手政秀の自害の話が載っていますが、殉死ではないので、「第14話 平手中務生害の事」として切り離しました。

【現代語訳】

一、織田信秀は、疫癘(えきれい。悪性の流行病、疫病)を患ったので、様々な祈祷や治療をしたが、平愈せず、終に天文20年3月3日、まだ42歳と若いのに、他界された。生死無情は世の常といえども、悲しいことである。これは、まるで、風がさっと吹いて、多くの草の葉の上の露を散らすようなものであり、雲が広がって満月の光を隠すようなものでもある。
 さて、織田信秀は、生前に菩提寺を那古野城の南に建ててあった。これを「万松寺」(現在は大須に移転)という。織田信秀を万松寺の東堂(先の住職。ここでは「開基」)「桃巌」(織田信秀の戒名)と名付け、「銭施行」(ぜにせぎょう。銭の施し)をして尾張国中の僧侶を集めたので、生便敷(おびただしき)「御弔い」(御葬儀)となった。
 ちょうど関東地方へ上り下りする旅の「会下僧」(えげそう。修行僧)も加わって、僧侶だけで約300人いた。
 織田信長のお供は、林秀貞、平手政秀、青山與三右衛門、内藤勝介の家老たちであう。
 織田信長の弟・勘十郎(元服して織田信勝)のお供は、家臣・柴田勝家、佐久間盛重、佐久間信盛、長谷川宗兵衛、山田弥右衛門などであった。
 (御焼香は喪主から始めるので、織田信長が来るのを待っていると)織田信長が御焼香にやってきた。その時の織田信長の仕立て(身なり)は、長い柄の大刀、脇差を注連縄(しめなわ、七五三縄。ここでは「藁縄」の意味)で巻き、髪型は茶筅に巻き立て、袴も穿かずに御仏前へ出て、抹香をガバっと掴んで、御仏前へ投げかけて帰っていった。弟・勘十郎は、折目正しい肩衣に袴を穿き、正しい作法で焼香した。
 こうして織田信長を、「例の大うつけよ」という評判が広がったが、そこにいた筑紫(九州)から来た客僧の1人だけが、「ああいうタイプの人なら国を維持できる」(一説に「国を持つ」で「ああいうタイプの人が国主(国持大名)になれる」)と言ったという。

 織田信長は、織田弾正忠家の宗主として、織田弾正忠信長と名乗らず、自官(朝廷から任官された官位ではなく、自称)で「織田上総介信長」と名乗った。

一、(織田弾正忠家の宗主が入るべき)末森城には、(織田信長は万松寺がある那古野城から動かず)勘十郎(織田信勝)が入り、柴田勝家、佐久間信盛、その他、お歴々を付けて、末森城を譲ったのである。

【解説】

織田信秀の死亡年については、
説①「天文18年説」:天文18年(犬山衆と楽田衆が攻めてきた年。第9話参照)に亡くなり、遺言により死を3年隠して天文21年に葬儀を行った。
説②「天文19年説」:天文19年に亡くなり、『信長公記』の記載は、天文21年の3回忌の様子。
説③「天文20年説」:天文20年に亡くなり、『信長公記』の記載は、翌・天文21年の2回忌の様子。
説④「天文21年説」:天文21年に亡くなり、『信長公記』の記載は、その年の1回忌(葬儀)の様子。
があります。「死を3年隠せ」と言われても難しいと思いますけどね。

 織田信秀の死後、織田弾正忠家を継ぐ候補者は、
・武辺の者・織田信光(織田信秀の弟)
・大うつけ・織田信長(三男ではあるが、上の2人は側室の子なので嫡男)
・品行方正・織田信勝(四男)
だったそうで、家督相続問題の解決には1年かかったとされています。(織田信長は、織田弾正忠信長と名乗れませんでした。末森城にも入れませんでした。)父親の位牌に抹香を投げたのは、「家督相続問題を解決してから死ね」という意味だったとも推測されていますが、伝承では「抹香は母・土田御前に投げた」そうです。「死を3年隠せ」と言われ、葬式を3年後に行う予定でしたが、織田信勝を宗主にしたい母・土田御前が、織田信勝を喪主にして、葬儀を行ってしまったのだとか。川遊びをしていた織田信長は、報告を聞いてすぐに万松寺に駆けつけ、母親に怒りを込めて抹香を投げつけたそうです。

 とはいえ、もしかしたら、織田信長は、織田弾正忠家の宗主になって「織田弾正忠信長と名乗り、末森城に入ること」などどうでもよくて、夢は「尾張統一」だったのではないでしょうか。そして、家臣たちも、織田信秀死後の織田信長の行動を見て、それに気づき、「信長様こそ国は持つ人よ」と言い始めたのでは?

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