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視聴記録『麒麟がくる』第30回「朝倉義景を討て」2020.11.1放送

 孤独な立場の義昭(滝藤賢一)は、駒(門脇 麦)を話し相手として頼りにしていた。ふたりは弱きものを救う悲田院づくりの夢を通して仲を深める。
 一方、信長(染谷将太)に呼び出され美濃に向かった光秀(長谷川博己)は、ついに信長が越前の朝倉攻めを決めたことを知る。しかし信長は、朝倉相手に織田軍だけでは勝てないと冷静に考えていた。光秀は、帝(みかど)に戦の是非を認めてもらえれば大義名分が立ち、ほかの大名もおのずと集まると助言する。しかし、それは大きな賭けであった。信長はすぐさま上洛し、帝・正親町天皇(坂東玉三郎)に拝謁するのだが…。

<トリセツ>
「織田信長、越前へ出陣!」

織田信長は、帝より勅命を受け越前へ出陣。しかし、朝倉義景に恩義のある将軍率いる足利軍は出陣しませんでした。

<紀行> 「京都府京都市」
 国宝・洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)は足利義輝が狩野永徳に描かせたものだといわれています。そこには金閣や清水寺などの今も残る名所の数々や、都の四季の移ろいが描かれていて、色彩豊かな着物を身にまとう当時の人々の営みを今に伝えています。
 御所の近くには、織田信長がたびたび宿泊した妙覺寺(みょうかくじ)が描かれています。二条殿に隣接する妙覺寺は、両替町通沿いにあったといい、町の名前がその名残をとどめています。
 妙覺寺は豊臣秀吉によって現在の場所に移されました。日蓮宗の本山である妙覺寺は、美濃の斎藤家とゆかりが深く、斎藤道三の遺児が住職を務めていたことから、信長はここを宿所に選んだとも伝わっています。
 信長は妙覺寺を拠点に、新たな国づくりを目指したのです。

松波基宗(法蓮房)─斎藤秀龍(道三)┬義龍─龍興【朝倉義景が保護】
                   ├龍重【義龍が殺害】
                   ├龍定【義龍が殺害】
                   ├日饒【常在寺5世→妙覺寺19世】
                   ├日覚【常在寺6世】
                   ├利堯(龍定と同一人物?)
                   ├利治(斎藤道三の末子?)─徳元
                   ├長井道利【井上家】
                   ├松波政綱【松波家】
                   ├女子(姉小路頼綱正室)
                   ├女子(土岐頼純室→織田信長正室)
                   ├女子(斎藤利三正室)
                   ├女子(伊勢貞良正室)
                   ├女子(稲葉貞通正室)─典通
                   ├女子(斎藤利之室)─元忠
                   ├女子(畠山昭高正室)
                   └養子:正義(関白・近衛稙家の子)

 斉藤道三の父は、妙覺寺の僧・法蓮房で、日運とは仲が良かった。日運が岐阜の常在寺4世住職になると、法蓮房は還俗して松波基宗と名乗り、日運を頼って岐阜へ向かった。
 斉藤道三の子・日饒は、日運を継いで常在寺5世住職となるが、後に本山・妙覺寺の19世住職となり、弟・日覚が常在寺6世住職となった。
 織田信長は、20回以上上洛しているが、宿所を建てず(二条新御所を築いたが、誠仁親王に献上した)、18回、妙覺寺に泊まった。明智光秀の屋敷に泊まったこともある。後に本能寺を改修して京都の宿所にするが、2回目に泊まった時、「本能寺の変」が起きた。

★参考サイト:『興覚寺』「斎藤道三と妙覺寺(興覚寺の本寺)」
http://orange.zero.jp/kougakuji.lion/dousankakusan.html

★戦国・小和田チャンネル:「麒麟がくる」第30回「朝倉義景を討て」
https://www.youtube.com/watch?v=r9w8v10XYtY

■関連年表

永禄12年(1569年)
2月2日    二条城、造営開始。
4月13日  織田信長、妙覚寺に入る。
4月14日  足利義昭、二条城へ動座。
4月20日  フロイスと朝山日乗が妙覚寺の織田信長の面前で宗論。
5月11日  織田信長、「名物狩り」をして岐阜へ帰る。(史料①)
6月8日    内裏(禁中)修理工事(まずは塀、門と屋根の葺替)着工。

永禄13/元亀元年(1570年)
1月23日  織田信長、諸侯にお触れを出す。(史料②)
2月25日  織田信長、上洛のため岐阜を発つ。
2月30日  織田信長、上洛。
3月21日  内裏(禁中)修理工事、ひとまず終了。
4月20日  織田信長、早朝、京都を発ち、和邇に着陣。
4月23日 「元亀」に改元。

■ドラマ・ストーリー&解説


永禄12年(1569年)夏、京 二条城の一室───
ミンミンゼミの鳴く声がする。岐阜へ発つ準備をする明智光秀。
読んでいた『公事根源』を『吾妻鏡』と『つれづれ草』の上に置く。
・『公事根源』:有職故実の本。公家と付き合う人の必読書。
・『吾妻鏡』:鎌倉幕府の公式記録。徳川家康の愛読書。
・『徒然草』:吉田兼好の随筆。明智光秀の愛読書。
そこに木下秀吉(後の豊臣秀吉)が、妻・ねねの腰弁当(手弁当)だと言って、強飯(こわめし)とゴボウとタコの煮物を持ってやって来て、
「岐阜に呼び出されたのは、次の戦の打ち合わせか?」
と聞かれるが、明智光秀は、
「妻子に会いに行くだけ」
と答えた。
「また、また、おとぼけに」
と言って、「朝倉戦についでしょ?」と聞く。(多分、鈍感な明智光秀は、朝倉戦の打ち合わせだとは気づいていない。)木下秀吉は続けて、「幕府の中には、織田よりも朝倉に幕府を支えて欲しいと思っている人たちがいる。その人たちの目を織田に向かせるには、朝倉という選択を消せばいい」と言った。明智光秀は、「朝倉は強い。倒すには多くの兵と銭がいる(織田単独では無理だ)」と答えた。(ちなみに、豊臣秀吉の好物は「タコの八丁味噌焼き」で、日常の食事では、タコ、イカ、アワビなど、頭の回転を速くしたり、疲労回復に効果があったりするタウリンやアミノ酸を含む海産物を好んで食べていたという。)

岐阜城へ着くと、織田信長が「名物狩り」で買い取った品々を松永久秀が鑑定し、値を付けていた。

史料① 太田牛一『信長公記』「名物狩り」
 然(しか)うして、信長公、金銀、米銭(べいせん)御不足なきの間、此の上は、唐物、天下の名物召し置かるべきの由、御言葉候て、先(まず)、
  上京大文字屋所持の 一、初花。
  祐乗坊の 一、ふじなすび。
  法王寺の 一、竹さしやく。
  池上如慶が 一、かぶらなし。
  佐野 一、雁の絵。
  江村 一、もゝそこ。
                         以上。
友閑、丹羽五郎左衛門、御使申し、金、銀、米を遣はし、召し置かれ、天下の定目仰せ付けられ、五月十一日、濃州岐阜に至りて御帰城なり。
【現代語訳】こうして信長公は金銀・米銭(米と銭。または、米代)に不足することはなくなっくいたので、この上は唐からの渡来品や天下の名物を集めようとし、まずは次の品々の献上を命じた。
・上京の大文字屋宗観(疋田宗観)所持の茶入「初花肩衝」
・祐乗坊所持の茶入「富士茄子」
・法王寺所蔵の竹茶杓
・池上如慶所持の花入「蕪なし」
・佐野家所蔵の絵「平沙落雁図」
・江村家所蔵の花入「桃底」
松井友閑と丹羽長秀を使者として、金、銀、米を与えて召し上げた。
 この後、織田信長は、天下に条目(法令)を発布し、5月11日、美濃国岐阜に帰還した。

松永久秀は、
「朝倉は織田が悪い。隙きあらば取って代わろうと思っている」
と明智光秀に告げ、三淵藤英は、
「朝倉を討つ気のようだが、大義名分が無いので、幕府は加勢しない」
と織田信長に言ったという。

 従来、「織田信長が足利義昭に代わって、朝倉義景に上洛を促したが、拒否したので、『上意に逆らった』として、朝倉義景を攻めた」とされてきたが、『二条宴乗日記』に引用された織田信長が触れ状(史料②)を出した諸侯一覧には、朝倉義景の名がない。要請されてないのに、拒否されたと因縁付けられてもなぁ。

史料② 興福寺一乗院門跡坊官・『二条宴乗日記』「2月15日条」
信長上洛付、書立。昨日、京都北大へ下。
就信長上洛可有立京衆中事
北畠大納言殿(同伊勢諸侍中)徳川三河守殿(同三河遠江諸侍衆)姉小路中納言殿(同飛騨国衆)山名殿父子(同□国衆)畠山殿(同□□衆)遊佐河内守
三好左京大夫殿 松永山城守(同和洲諸侍衆)
同右衛門佐 松浦孫五郎(同)和泉国□
別□□□□(播磨国衆)同孫左衛門(同□国□衆)
丹波国悉 一色左京大夫殿(同丹後国衆)
武田孫犬丸(同若狭国衆) 京極殿(同浅井備前)
同□子 同七佐々木 同木林源五父子
同□州南諸侍衆 紀伊国衆
越中神保名代 能州名代
甲州名代 淡州名代
因州武田名代 備前衆名代
池田・伊丹・塩河・有右馬此外其寄□ニ衆として可申触事

  同触状案文
禁中御修理武家御用其外天下弥□□来中旬可参洛候条、各御上洛、御礼被申上、馳走肝要、不可有御延引候。恐々謹言
   □□月廿□日          信長
依仁躰文躰可有上下

※織田信長触状(案文)
禁中御修理、武家御用、其外、天下弥静謐、来中旬、可参洛候条、各御上洛、御礼被申上、馳走肝要、不可有御延引候。
(禁中(内裏)御修理、武家御用、その他、天下弥(いよいよ)静謐のため、(織田信長は)来月(2月)中旬に参洛する(注:実際は2月30日になった)ので、各(おのおの)御上洛し、(足利義昭に)御礼を申し上げられ、馳走することが肝要(大事)であり、延引する(引き延ばす)ことはないように。)

 明智光秀は、久しぶり(永禄3年(1560年)5月19日の「桶狭間の戦い」以来、10年ぶり)に女軍師・帰蝶P(「P」は「プロデューサー」の略に会い、朝倉攻めについての意見を聞くと、
「我が兄の子・斉藤竜興は、朝倉を唆し、この美濃を取り返そうと企んでおる。国境では既に、朝倉と小競り合いが続いておる。京は一時穏やかになったとて、足元の美濃に火がつけば、全てまた一から始めなければなりますまい。それ故、私は申し上げました。朝倉をお討ちなされと」
とのこと。やっぱ、この女が織田信長をけしかけたのか!(親族(甥・斉藤竜興)に味方しようとは少しも思ってない。)

※帰蝶P
https://dic.pixiv.net/a/%E5%B8%B0%E8%9D%B6P

男には3タイプある。
①女に左右されない男
②女に左右され、ある女との出会いで出世した男
③女に左右され、ある女との出会いで堕落した男
織田信長と女性については、
・生駒吉乃が死ぬと、明るさが消え、冷酷人間に変わった。
・明智光秀の妹が死ぬと、明智光秀を冷遇するようになった。
と言われているが、このドラマの織田信長は、斎藤道三の血をひく女軍師・帰蝶Pと出会って、出世していく感じである。当の織田信長は、帰蝶を「いつでも褒めてくれる。『母』のような存在」と言っている。やはり、織田信長にとっての「妻」は、生駒吉乃なのだろう。

男が女に求めるのは「癒やし」(母性愛)であろうか?
その場合、年上の女性の方がいいのであろうか?
足利義昭=1537年生まれ
駒=1532年生まれ(第1話(1547年)の時は15歳なので逆算)
駒の方が5歳年上。
今は永禄12年(1569年)。足利義昭は33歳で、駒はアラフォーの38歳。
ちなみに、足利義昭には正室がいない。
兄・足利義輝の正室は近衛稙家の娘である。同様に、足利義昭の正室には、二条晴良の娘がいいのであるが、二条晴良には、それなりの年齢の未婚の娘がいなかった。(それなりの年齢の未婚の公家の娘を養女にして結婚させればいいと思うが・・・。)

話を戻そう。明智光秀が織田信長に会うと、
「(帰蝶に『朝倉を討て』と言われたが)織田単独では勝てないし、何より大義名分がない」
と冷静に状況を判断していた。明智光秀は、『徒然草』最終段(史料③)の話を始めた。

史料③吉田兼好『徒然草』(第243段)「八つになりし年」
 八つになりし年、父に問ひて云はく、
「仏は如何なるものにか候ふらん」
と云ふ。父が云はく、
「仏には、人の成りたるなり」
と。また問ふ、
「人は何として仏には成り候ふやらん」
と。父また、
「仏の教によりて成るなり」
と答ふ。また問ふ、
「教へ候ひける仏をば、何が教へ候ひける」
と。また答ふ、
「それもまた、先の仏の教によりて成り給ふなり」
と。また問ふ、
「その教へ始め候ひける、第一の仏は、如何なる仏にか候ひける」
と云ふ時、父、
「空よりや降りけん。土よりや湧きけん」
と言ひて笑ふ。
「問ひ詰められて、え答へずなり侍りつ」
と、諸人に語りて興じき。
【大意】私が8歳になった時、父に質問攻めをしたことがある。
私「仏とは?」
父「仏とは、人がなった」
私「人はどうしたら仏になれるのか?」
父「仏の教えによってなれる」
私「その教えを人に教えて仏にしたのは誰?」
父「それは、先に仏になっていた人だ」
私「では、最初に仏になった人に教えたのは誰?」
父「空から降ってきたか、土から湧いてきたか(笑)」
父は、息子の成長を喜ぶかのように、「8歳の子に問い詰められて、答えられなくなった」と皆に話していたという。

この話を聞いた織田信長は、
「父が話した『1位は太陽、2位は天皇、3位は将軍』という話に似ている」
と言ったが、どこが? 全然似ていないよ。
 『徒然草』の話は・・・「人は『仏の教え』を学んで仏になる」と息子に言うと、息子は、「最初に仏になった人に『仏の教え』を教えたのは誰?」と聞かれ、答えられなくなり、「天から降りたか、地から湧き出たか」と言い逃れたという話。

 しいて似た話を探せば、去年の4月20日、キリスト教の宣教師・フロイスと日蓮宗の日乗上人が、妙覚寺の織田信長の面前で行った宗論である。織田信長がフロイスに「仏を崇拝するか?」と聞くと、「仏は人がなったものであり、自分を救えても、全人類は救えないから崇拝しない。我々が崇拝するデウスは全人類を救える」と言い、フロイスが日乗上人に、「仏は人がなったものであり、その人類を最初に造ったのは創造主・デウスであるが、仏教では誰が人類を造ったことになっている?」と聞くと、日乗上人は「知らない」と答え、最終的には切羽詰まって長刀を手にして、織田信長に抑えられた。

 明智光秀が、「『天から降りてきた最初の人』に教えを請いたい」と言うと、敏感な織田信長は、「人間界で1番偉い天皇の言葉を聞きたくなった」という繋がりなんですけど、ちょっとこじつけっぽい。それに「天から降りてきた最初の人」は、父親が苦し紛れに言っただけで、存在しない。(前回、「天皇上に太陽を置いたのは天道思想か?」と書いたけど、この話をするための伏線だったようですね。)

 私が脚本家なら、
明智光秀「帝(天皇)と公方様(将軍)とどちらが偉いとお思いですか?」
織田信長「父から『帝だ』と何度も聞かされた」
明智光秀「それは何故だとお思いですか?」
織田信長「公方様にはいつでも会えるが、帝は尊いお方で会えないからだ」
明智光秀「お会いしてみませんか?」
織田信長「出来るのか? そんな事が?」
明智光秀「禁裏の御門を直された方ですから門が開かれるやもしれません」
と言い、伊呂波太夫に頼んで近衛前久に連絡してもらい、織田信長と近衛前久を会わせ・・・って感じかな。(ちなみに、天皇に会える従五位下に織田信長が任官されたのは、まだ先のこと。天正2年3月18日です。)

 ──叩けよ。さらば開かれん。(『新約聖書』「マタイによる福音書」)

望月東庵の、織田信長の紹介の仕方が良かったのか、正親町天皇は織田信長と会い、朝倉征伐の勅命を下されたという。(望月東庵のモデルは、曲直瀬道三。)
囲碁は、「三劫」っぽいですね。「劫」が3ヶ所に出来ると、どちらも譲らなければ無勝負。滅多に無い稀なことなので、不吉なことが起こる前兆とされています。「本能寺の変」の前夜の本行院日海(本因坊第一世算砂)と鹿塩利賢との対戦で起きたとされています。あの時は「本能寺の変」が起こり、今回は「金ヶ崎の退き口」が起こった。(「三劫」より珍しいのは「長生」で、これは生きているうちに見られるかどうかという吉兆です。)

明智光秀が、その事を足利義昭に告げると、
「将軍は戦をする人ではなく、休戦調停をする人だ」
と言って、その場を去った。
残された摂津晴門は、「三淵藤英の奸計」について語った。阿君丸の毒殺を考えたのは三淵藤英で、毒を京都から運んだのは、摂津晴門の旧臣だという。(史実では、摂津晴門は、あの時、一乗谷にいたという。)

三淵藤英は「義昭様を上洛させ、幕府を再興するためなら手段は選ばない。たとえ、朝倉義景の嫡男に毒を盛ることになっても。三淵は清濁併せのむような面がある人間なので、そこに後悔はないはず。摂津のことは認めてはいないけど、使える毒だと思っているのではないでしょうか」(谷原章介)
https://twitter.com/nhk_kirin/status/1322871655308402688

4月20日、織田信長は出陣した。織田軍の中に明智光秀の姿があった。
煕子、岸、玉は京都に来ていて、明智光秀を送り出せたであろうか。(史実の明智光秀は先鋒で、織田信長が出陣した4月20日の昼には、既に熊川に到達しています。)

史料④山科言継『言継卿記』「永禄13年4月20日条」
 早旦、弾正忠信長出陣見物。一条東へ坂本に令下。三万計有之。自両三日以前、直に若州へ罷り越す云々。三好左京大夫被送之。松永山城守は罷り出づ。摂州・池田筑後守、人数三千計有之。公家・飛鳥井中将、日野等被立了。今日、鰐迄被行云々。貴賤、男女、僧俗、見物了。
(【大意】早朝、織田信長が若狭国に向けて出陣すると聞いて見物に行った。兵数は約3万人で、2、3日で若狭国に着くという。三好義継は出陣せずに見送ったが、松永久秀は出陣した。摂津国の池田勝正は兵数約3000人で加勢。公家の飛鳥井雅敦、日野輝資らも出陣した。金持ちも貧しきも、男も女も、僧侶も俗人も(織田信長の出陣を)見物した。)

 池田隊を信長本隊に入れてないのは、「殿(しんがり)」だからかな? それとも、「幕府軍」「足利軍」という扱いだからかな?
 朝倉征伐は「織田軍 vs 朝倉軍」ではなく、足利義昭の命令による「幕府軍 vs 朝倉軍」、もしくは、「足利軍 vs 朝倉軍」とされてきましたが、公家の飛鳥井雅敦、日野輝資らも出陣していますので、このドラマのように「皇軍 vs 朝倉軍」なのかもね。ただ、このドラマの解釈ですと、天皇の勅命を将軍・足利義昭が、拒否したことになり、同じく天皇の勅命を拒否した兄・足利義輝同様の運命を辿る恐れがありますね。

※池田勝正:織田信長に摂津国の支配を任された池田勝正、伊丹親興、和田惟政の3人を「摂津三守護」という。後に池田勝正は、幕府から摂津国守護に任じられ、伊丹親興、和田惟政を配下として摂津国を治めた。
池田市の個人的郷土研究サイト「呉江舎」
http://www.ikedaya.com/gokosha/index.html
池田筑後守勝正を紹介するブログ「戦国大名池田勝正研究所」
https://ike-katsu.blogspot.com/

 さて、ドラマでは「幕府軍は出陣しない」と摂津晴門が言っていたのに、幕臣の明智光秀が出陣して大丈夫なのか? 気分はもう織田家家臣なのか?

「わしに仕えぬか?」

と織田信長が明智光秀に聞いた時に「心は決まっています。将軍に仕えます」と答えられた織田信長は空を見上げました。あれは「残念だ」という意味だと思いましたが、今回を見ると「お前、鈍感だな」という意味だったのかも。織田信長は、明智光秀の母、妻、子が美濃国にいることを知っていて、いつでも殺せるわけで、「家族を人質にして『家臣になれ』とおどしてみたが、あれ、あれ、おどされてると気づいてないぞ」と空を見たのではないでしょうか?

最後に1首。

男に忘られて侍りける頃、貴船に参りて、御手洗川に蛍の飛び侍けるを見てよめる

  物思へば沢の蛍も我が身より あくがれいづる魂かとぞみる

最近尋ねてこないあの人の事を思えば、沢に飛び交う蛍は、恋焦がれるあまりに我が身を離れていった私の魂ではないかと思えてきます。(和泉式部 『後拾遺和歌集』 1162 雑歌)
 駒は、まだ明智光秀の事が好きなのだろうか?

あなたのサポートがあれば、未来は頑張れる!