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【活動支援記事】伊勢神宮ご祭神考-天照(アマテル)と天照(アマテラス)-

 伊勢神宮のご祭神については、「内宮が女神・天照大神、外宮が女神・豊受大神」として広く知られています。ところが、『明智軍記』の伊勢神宮の紹介や西行法師の歌にあるように、外宮のご祭神は男神とする「外宮男神説」が昔からあります。調査してみました。

1.伊勢神宮の成立


 ──天皇家のレガリア「三種の神器」は、なぜ皇居に置かれていないのか?

 崇神天皇6年、御所に坐す天照大神と倭大国魂のパワーがすごくて干渉する(「財布にお守りを2つ入れると神様が喧嘩するのでよくない」というようなもの)ので、崇神天皇は、両神を御所から出すことにし、天照大神を娘・豊鍬入姫命に託して大和国笠縫村(纏向の檜原神社)に祀り、倭大国魂を娘・渟名城入姫命に託して祀らせたが、渟名城入姫命は、倭大国魂の凄まじいパワーで(実際にはストレスで?)髪が抜け落ち、体も痩せこけて、祀れる状態ではなくなってしまいました。

※資料:『日本書紀』(巻五)崇神天皇六年
 百姓流離。或有背叛。其勢難以徳治之。是以晨興夕惕。請罪神祇。先是。天照大神。倭大國魂二神。並祭於天皇大殿之内。然畏其神勢共住不安。故以天照大神。託豐鍬入姫命。祭於倭笠縫邑。仍立磯堅城神籬(ひむろぎ)。亦以日本大國魂神。託渟名城入姫命令祭。然渟名城入姫命髮落體痩而不能祭。

 豊鍬入姫命が老いたので、天照大神は、垂仁天皇の娘・倭姫命(やまとひめのみこと。倭建命(やまとたけるのみこと(日本武尊)の叔母)に託されました。倭姫命は、皇室のレガリア「三種の神器」を収める地を探して太陽信仰の地を巡りました。そこに建てられた仮宮は「元伊勢」(収納地が伊勢神宮に決まるまでの神宮)と呼ばれています。(後に天叢雲剣は、甥・倭建命に渡され、妃・宮簀媛命(尾張氏)の元熱田・氷上姉子神社(愛知県名古屋市緑区大高町火上山)から熱田神宮(愛知県名古屋市熱田区神宮)へ移されました。熱田神宮のご祭神は、「三種の神器」草薙剣(天叢雲剣)を依代とする天照大神です。)
 倭姫命が伊勢国に達すると、天照大神が、
「是神風伊勢國。則常世之浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國」
(是(こ)の神風(かみかぜ)の伊勢国は、常世(とこよ)の浪(なみ)の重浪(しきなみ)帰(よ)する国也。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国也。是(こ)の国に居(お)らむと欲(おも)ふ。)
と言われたので、伊勢に神宮を建てて納めました。
 一方の倭大国魂のパワーは、天皇やその娘では押さえられないようなので、倭国造(やまとのくにのみやつこ)に任せることにし、大倭直祖・長尾市宿禰に大和神社(おおやまとじんじゃ。奈良県天理市泉町星山)で祀らせました。

 そもそも大和政権は、玉の出雲国、剣の尾張国、鏡の邪馬台国の連立政権で、「三種の神器」は各国のレガリアであり、人質ならぬ物質(ものじち)だったようです。(今でも熱田神宮では、686年6月10日に、物質・草薙剣が大和政権(草薙剣に祟られた天武天皇)から戻されたことを喜ぶ「酔笑人神事」が行われています。)このため、御所に置くと、天皇(連立政権の議長)では、それらのパワーを押さえられなかったようです。(なお、出雲国、尾張国、邪馬台国以外の大和政権傘下の国々のレガリアは、石上神社(奈良県天理市布留町)に保管されていたそうです。)

※資料:『日本書紀』(巻二九)朱鳥元年(686年)6月10日
 戊寅。天皇病祟草薙劔。即日。送置于尾張國熱田社。

 一説によると、崇神天皇の「崇神」は、「旧来の神々に祟(たた)られた天皇(祟られたので御所から追い出した天皇)」ではなく、「旧来の神々を御所から出し、新しい神々を崇拝した天皇」という意味だとか。崇神天皇の娘が鏡のパワーを押さえられたのは、崇神天皇が邪馬台国出身者だからでしょう。

※資料:『日本書紀』(巻六)垂仁天皇二五年
 三月丁亥朔丙申。離天照大神於豐耜入姫命。託干倭姫命。爰倭姫命求鎭坐大神之處。而詣莵田筱(ささ)幡。更還之入近江國。東廻美濃到伊勢國。時天照大神誨倭姫命日。是神風伊勢國。則常世之浪重浪歸國也。傍國可怜國也。欲居是國。故隨大神教。其祠立於伊勢國。因興齋宮干五十鈴川上。是謂磯宮。則天照大神始自天降之處也。
 一云。天皇以倭姫命爲御杖。貢奉於天照太神。是以倭姫命以天照太神。鎭坐於磯城嚴橿之本而祠之。然後隨神誨。取丁巳年冬十月甲子。遷干伊勢國渡遇宮。是時倭太神。著穗積臣遠祖大水口宿禰。而誨之曰。太初之時期曰。天照大神。悉治天原。皇御孫尊。専治葦原中國之八十魂神。我親治大地官者。言已訖焉。然先皇御間城天皇。雖祭祀神祇。微細未探其源根。以粗留於枝葉。故其天皇短命也。是以。今汝御孫尊。悔先皇之不及而愼祭。則汝尊壽命延長。復天下太平矣。時天皇聞是言。則仰中臣連祖探湯主而卜之。誰人以令祭大倭大神。即渟名城稚姫命食卜焉。因以命渟名城稚姫命。定神地於穴礒邑。祠於大市長岡岬。然是渟名城稚姫命。既身體悉痩弱以不能祭。是以命大倭直祖長尾市宿禰。令祭矣。

2.最東端の「元伊勢」濱名惣社神明宮


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 最東端の「元伊勢」は、浜名郡(浜名湖北部、西部)の総社(「三ヶ日みかん」で有名な静岡県浜松市北区三ヶ日町三ヶ日)です。
 太陽は東から昇るので、大和国からどんどん東へ行きたいところですが、浜名湖が限界ですね。(『萬葉集』の「東歌」に出てくる地名の最西端の地名は、浜名湖周辺の地名です。つまり、浜名湖以東は東国ですので、大和国がある紀伊半島の東端に神宮を建てるのが無難ですね。倭姫命が伊勢神宮の斎宮になると、倭建命が来て、天叢雲剣を持って東国征伐(平定)をし、ようやく浜名湖の東まで安全に行けるようになりました。浜名湖は都から遠く離れた湖で、国名「遠江国」の由来です。遠江国の東が駿河国(国名の由来は富士川という急流)で、倭建命は駿河国造に攻められますが、叔母・倭姫命から授かった天叢雲剣と火打ち石で難を逃れ、この時から天叢雲剣は草薙剣と呼ばれるようになりました。)

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 倭姫命は、浜名県(はまなのあがた)の式内・英多神社(『延喜式』には「えた」とあるが「あがた」の間違いだとされる)に40余日間逗留して機織り技術を伝えましたので、後に天棚機姫命(あまのたなばたひめのみこと)を祀る初生衣神社(うぶぎぬのかみやしろ)が建てられましたが、神明宮(伊勢神宮の分社)となり、主祭神は天照大神に変えられました。

 ここで重要なのは、「神社は普遍的な存在ではない」ということです。「神社は、新しい神が迎えられ、従来の神が追い出されて、社号が変わる可能性がある存在」なのです。本殿から追い出された神は、境内の「境内社」という小祠に移されますので、神社調査にあたっては、境内社も重要ポイントになります。濱名惣社神明宮で重要な境内社は、
・天棚機媛神社(ご祭神:天棚機媛命)
・太田命社(ご祭神:太田命)
になります。
・英多神社(ご祭神:稲荷神・倉稲魂命)
・初生衣神社(ご祭神:天棚機媛命)
の2社は、少し離れた場所にあります。境内から追い出されたのか、昔は境内が広くて、そこまで境内であったのか。

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 倭姫命は、40余日間逗留後、「綺麗な川が無い」として、太田命(道案内の神・猿田彦命の後裔。上の写真は太田命を祀る境内社・太田命社)の先導で、船で伊勢国へ渡ったと伝えられています。(古文書によっては、倭姫命が伊勢国へ行くと、太田命が五十鈴川の河口で待っていたとあります。)

※案内板には、「太田命は、浜名県主(あがたぬし)の先祖」とあるが違うであろう。浜名県主(三輪氏)の先祖は、大和国一之宮・三輪明神大神神社(奈良県桜井市大字三輪)の初代宮司・太田田根子である。太田田根子は、太氏(「多氏」とも。『古事記』を編纂した太安万侶など)の祖である。つまり、太田・田根子ではなく、太・田田根子である。つまり、浜名県主の祖神は、太田神社の太田命ではなく、太神社の太命、あるいは、大神神社の三輪明神である。

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