見出し画像

明智玉の結婚

 織田信長は、明智光秀に、「娘・たまを細川藤孝の長男・忠興に嫁がせよ」と命令したという。2020年NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、
・織田信長の命令は、天正5年10月10日の信貴山城の落城直後、明智光秀を安土城に呼んで伝えた。
・天正6年秋に結婚した。
という設定で、結婚まで1年かかったのは、たまが結婚を拒否していたからだという。

「母上に代わって父上を支えなくてはいけない、という思いがとても強かったと思います。多くのものを背負い過ぎていたけど、駒さんと話しているうちにそれが少しずつ軽くなっていった。嫁に行く決心ができたのは、駒さんの存在が大きかったと思います」(芦田愛菜)https://twitter.com/nhk_kirin/status/1350773614270939138

画像1


 明智たまは、オリキャラの駒に説得されて結婚したというが、相談するなら未婚の駒ではなく、既婚の姉・岸にした方がいいと想う。また、当時の女性にとっては父親の命令は絶対で、四の五の言わずに、さっと結婚していたはずである。

 史実の明智玉(玉子、珠、珠子とも)の結婚については、
・天正2年1月17日の年賀の席で命令される(細川家記『緜考輯録』)。
・天正6年、細川氏の居城・勝竜寺城で挙式(新郎新婦共に16歳)。
とされる。

1.天正2年1月17日の年賀の席


 細川家記『緜考輯録』によれば、天正2年(1574年)1月17日、年賀の席で、織田信長は、
①明智光秀の4男を筒井順慶の養子にすること
②明智光秀の娘を織田信澄の正室にすること
③明智光秀と細川藤孝が縁家になること
を命じたという。

『緜考輯録』
 天正2年甲戌正月、藤孝君を初諸将岐阜へ至り、年頭の賀を述らる。
 同17日、御饗応あり、藤孝君、蒲生、青地、池田、松井、筒井、畠山、中川、閉地、関、分部、平塚等也。
 此時信長公仰は明智光秀の4男を筒井主殿入道順慶の養子とし、光秀の娘を織田七兵衛信澄(信長の御舎弟・勘十郎の子也)に嫁すべき由、又、藤孝君は光秀と縁家たるべきよし被命候。藤孝君は、忠興君の剛強に過るといふを以、御辞退被成候得ども、信長公よりも教誡を加へらるへき旨にて、再三仰せによって、与一郎君と光秀の息女御縁約の事を諾せらる。其外、諸士の不和を解しめて、又、光秀に仰せられ候は、「汝を西国征将となすべし。因茲先、丹波を征伐すべし。然らば長岡も倶に趣へし」と有て御暇を給はり候。
【現代語訳】 天正2年(1574年)1月、細川藤孝をはじめ、諸将は(織田信長がいる)岐阜城に集まり、(織田信長に)年賀を述べた。
 同17日に饗応(酒食を供して客をもてなすこと)があり、細川藤孝、蒲生賢秀、青地元珍、池田景雄、松井有閑、筒井順慶、畠山秋高、中川清秀、閉地(阿閉貞征?)、関盛信、分部光嘉、平塚為広等が饗応を受けた。
 この時、織田信長は、明智光秀の四男を筒井順慶の養子とし、明智光秀の娘を織田信澄(信長の弟・勘十郎信勝の子)に嫁すよう、また、細川藤孝には、明智光秀と縁家となるよう命令が下された。細川藤孝は、嫡男・与一郎(忠興)は「剛強過ぎる」(まだ躾が十分でなく、結婚できるような状態ではない)と言って辞退したが、織田信長は、「自分からもよく言って聞かせるから」と再三に仰せられたので、細川与一郎忠興と明智光秀の娘・玉(後の細川ガラシャ)の婚約を承諾した。
 その他、諸将の不和を解き、また、光秀には、「西国平定の大将とする。まずは丹波国を平定せよ。であるから、長岡(細川藤孝)も共に赴くように」との命令があり、お暇をいただいた。)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2568412/2

補足説明① 「明智光秀の4男を筒井順慶の養子とせよ」ということであるが、明智光秀の次男が筒井順慶の養子となっている。筒井順慶の養子となった次男(正室が生んだ2番目の男子)が「4男(明智光秀にとっては4番目の息子)」だということは、明智光秀には既に側室の子が2人いたようで、実際、『二尊院過去帳』に、明智光秀の長男は宗林(宗琳)、次男は光林(光琳)とある。(この2人の男子は、正室の子ではないので、出家させられたようである。)
補足説明② 明智光秀の4女・繁子(9歳)が天正2年(1574年)、織田信澄(20歳)の正室になった。
補足説明③ 織田信長は、明智光秀を総大将、細川藤孝を与力として、西国=中国地方(山陰地方。山陽地方は羽柴秀吉が担当)平定を考えており、まずは明智・細川両家の縁組を通しての団結、そして、領地を空ける明智光秀のために、諸将の不和を解き、大和国の筒井順慶に明智光秀の子を養子として送り込ませようとした。(筒井順慶は明智光秀の与力となり、天正4年(1576年)5月10日、明智光秀と万見仙千代が使者となって織田信長から大和国支配を任されたこと(「大和一国一円筒井順慶存知」)が伝えられた。)

2.織田信長の書状


 織田信長の「明智玉と細川忠興の結婚命令」を、細川藤孝は、その場では「剛強過ぎる」と1度断っている。これは社交辞令と思われるが、実はその後も織田信長の要請を断り続け、結婚は4年後の天正6年となった。
 細川藤孝が拒否した理由は不明であるが、
①【身分差】明智光秀の身分が低いので不釣り合いだから。(実は明智光秀は、名門・土岐明智家の宗主ではない。)
②【身分差】明智光秀は旧家臣だから。(実は明智光秀は、以前、細川藤孝に仕えていたことがあった。)
③【身分差】明智玉の母・妻木煕子は明智光秀の正室ではないから。(明智光秀の正室である斎藤利三の姉の子なら良い。)
④他家の結婚に口出しする織田信長のやり方が気に入らなかったから。(実は、織田信長が他家の結婚に口出しするのは、これが初めて。)
等が考えられる。

 結婚が決まったのは、次の織田信長の書状の発給時点であり、それを
・細川家記『緜考輯録』では天正6年8月11日
・喜多村家伝『明智家譜』では天正9年8月11日
としている。

『緜考輯録』
光秀への御書
其方事、近日相続抽軍功、於所々智謀高名依超諸将、数度合戦得勝利感悦不斜、西国手尓(に)入次第、数ヶ国可宛行之条、無退屈可励軍忠候。仍、細川兵部大輔専守忠義、文武兼備二候。同氏与一郎事、秀器量、志勝事抜群二候。以後者(は)可為武門之棟梁候。云隣国、云剛勇、尤之縁辺、幸之仕合也。
  8月11日     信長(御印判)
   惟任日向守殿
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2568418/18
喜多村家伝『明智家譜』
同辛巳9歳8月11日信長賜御感状。其詞云、
其方近年打続抽軍功於所之智謀高名依諸将超数度之合戦得勝利感悦不斜候。西国手入次第数箇国可宛行候条無退屈可励軍忠候。仍、細川兵部大輔専守忠義文武兼備候。同氏与市郎事、秀器量、志勝抜群候。以後者可為武門之棟梁候。云隣国、云剛勇、尤之縁組幸之仕合候也。
  8月11日              信長(御書判)
     惟任日向守殿

【現代語訳】其の方(明智光秀)については、最近、相次いで軍功に抽(ぬき)んでており、あちこちにおける智謀、高名は諸将を超え、数度の合戦で勝利を得たことは喜ばしい。西国(中国地方)を手に入れ次第、数ヶ国(山陽は羽柴秀吉に与えるので、石見、出雲といった山陰)を与えるので、退屈することなく(何もしないで無駄に日々を過ごすのでは無く)、軍忠に(戦の折には忠節を示して軍功を得るよう)励むように。
 さて、細川藤孝は専ら忠義を守り、文武兼備である。彼の嫡男・与一郎(忠興)については、器量に秀で、志の勝る事は、抜群である。将来は武門(武家)の棟梁になるであろう。(明智氏と細川氏の領地が)隣国であることといい、(明智氏も細川氏も)剛勇であることから、この縁談は幸せな縁組であるといえよう。

※織田信長書状について
 明智光秀は、元亀2年(1571年)に近江国志賀郡の領主となり、天正3年(1575年)7月に惟任日向守と名乗り、天正8年(1580年)に丹波国を加増された。
 細川藤孝は、天文21年(1552年)、従五位下、兵部大輔に叙任された。元亀4年(1573年)、織田信長から、桂川の西、山城国長岡(西岡)一帯(現在の長岡京市~向日市付近)を与えられると、名字を「長岡」に改めた。天正8年(1580年)、丹後国南部を加増された。
 この織田信長書状には、「細川兵部大輔」とあることから元亀4年以前の発給、「隣国」とあることから天正8年以後の発給と考えられ、重なる期間がないとから偽文書だと考えられている。(どちらも本に掲載されており、実物は発見されていない。)
 また、「隣国」とは、丹波・丹後ではなく、近江・山城だとし、偽文書ではなく、細川忠興と明智玉の結婚は、この天正6年8月11日付織田信長書状が出された天正6年8月だとする説もある。実際、細川忠興と明智玉の長女・蝶(長、於長)が生まれたのは天正7年(1579年)、長男・熊千代(後の細川忠隆)が生まれたのは天正8年(1580年)4月27日であることから、結婚は天正6年(1578年)である可能性が高い。

※『明智軍記』は、他書には書かれていないことが数多く書かれていて興味深い本であるが、明智玉については、
・天正7年1月9日、安土御殿周武の間で織田信長が結婚を指示
・天正7年2月26日、丹後田辺城へ嫁入り
とあり、到底信用できない。長男・熊千代の出生は天正8年4月27日であるから、長女・蝶の出生はその1年前の天正7年4月あたりであろう。2月26日の結婚では生めない。それに嫁入りの準備は1ヶ月や2ヶ月では無理であろう。
 また、田辺城の築城は天正10年で、天正7年には無かったと思われる。「天正10年2月26日、丹後田辺城へ移る」の誤伝であろうか。

3.細川忠興と明智玉の結婚

天正6年、明智玉と細川忠興は結婚し、翌天正7年、丹波国の平定がなった。
丹波国の平定には4年かかったが、織田信長が、尾張国平定に8年、美濃国平定に8年かかったことを考えれば、半分の期間である。

『緜考輯録』
青竜寺にて御婚礼あり。十六歳にて御夫婦御同年也。(御前様御名於玉様、後は伽羅奢様と云、御母は妻木勘解由左衛門範凞女なり。)
【現代語訳】 青竜寺(後の勝竜寺)で、(細川忠興と明智玉の)結婚式が行われた。2人とも16歳の同い年である。(御前様の名を於玉様、後にガラシャ様といい、母親は妻木範凞の娘である。)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2568418/18
『明智軍記』
 細川忠興の妻室は、光秀第三の娘なるを、28の春の比、江州坂本より迎て、早4年、相馴たり。
 容色殊に麗く、歌を吟じ、糸竹呂律(しちくりょうりつ)の弄も妙なりけり。舅・兵部太輔藤孝は、歌道の達人なれば、「数寄の道、同機相求る」習にて、一人最愛思はれけり。又、父が不義に替り、貞女の志し正しきに依て、与市郎も妹背の契り深かりけれども、忠義の道、黙止がたきに付、互にあかぬ夫妻の中を、涙とともに、離別に及ぶ心の程こそ痛はしけれ。
【現代語訳】 細川忠興の妻・玉は、明智光秀の三女で、細川忠興が28歳になった春の頃に、近江国坂本から迎えて早くも4年が過ぎて馴れた(警戒心が消えて打ち解けた)。細川玉は、容姿麗しく、和歌を詠み、糸竹呂律(糸(琵琶などの弦楽器)と竹(笛などの管楽器)及び「呂」と「律」の音階。転じて、「和楽器の演奏」)にも長けていた。舅・細川藤孝は、和歌の達人(数寄者)であったので、「同気相求」(どうきそうきゅう。「類は友を呼ぶ」)というように、嫁・玉とは気が合い、人一倍いとおしく思われていた。また、父・明智光秀が(織田信長を討つという)謀叛を行っても、玉は貞女(貞節な女性)で、妻としては申し分ないことから、与一郎(細川忠興)も夫婦の契りが深かったが(深く愛し合っていて、離婚したいとは思っていなかったが)、玉の父・明智光秀が忠義に外れた行為を行った事を無視することは出来ず、泣く泣く引き離されることになった事は、お労しいことである。)

4.細川忠興の子供たち


正室:玉
(「珠」とも。明智光秀の娘。後の細川ガラシャ)
・長女:蝶(「帰蝶」の「蝶」。「長」とも)
・長男:細川忠隆(幼名:熊千代)【細川(長岡)内膳家】
    ※「与一郎」ではなく、明智光秀の幼名「熊千代」を採用。
・次男:細川興秋(幼名:与五郎。「本能寺の変」の翌年に誕生)
    ※「本能寺の変」の時、玉は妊娠中。
・三男:細川忠利(幼名:光千代)【熊本藩細川家】
・三女:多羅(稲葉一通室。「多羅」は明智光秀の出生推定地の1つ)
側室:藤
・次女:古保
側室:小也(明智光忠の娘)
・四女:万
側室:幾知
・四男:細川立孝【宇土藩細川家】
・五男:細川興孝【細川(長岡)刑部家】
側室:才
・六男:松井寄之(松井(長岡)興長養子)【松井家】

 明智玉は絶世の美女だったという。(同時代資料からは確認できず、後世の創作とも言われるが、明智家の家族は全員、美男美女だったと伝わる。)細川忠興は明智玉をひと目で気に入った。そして、彼は嫉妬深かった。人の目(特に好色で名高い豊臣秀吉の目)に触れないよう、屋敷に幽閉、軟禁した。細川玉の顔を盗み見た職人の首を即座に刎ねたという逸話もある。とはいえ、細川忠興自身は、一途ではなく、細川玉の妊娠中に藤に手を付け、次女・古保を儲けている。

あなたのサポートがあれば、未来は頑張れる!