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視聴記録『麒麟がくる』第13回「帰蝶のはかりごと」2020.4.12放送

暗殺を企てた頼芸(尾美としのり)を攻めると息巻く道三(本木雅弘)。高政(伊藤英明)は、戦になったときには実の父と慕う頼芸側につくと明言し、光秀(長谷川博己)にも決断を迫る。道三を訪ね、この戦は身内同士が殺し合う、国をほろぼす戦になると訴える光秀。すると道三は、本当は戦をするつもりはなく、頼芸は追い出すが、あくまでもこれは国衆にカツを入れるための芝居だったと白状する。その一方、頼芸を総大将に担ぎ出すべく鷺山城に集まる高政らの目前で、頼芸は恐れをなして早々に逃げ出してしまう。
https://www.nhk.or.jp/kirin/story/13.html

1.四面楚歌の織田信長


織田信秀が死ぬと、「織田弾正忠家を継いだ織田信長はうつけだから」と身内(織田一族)が織田信長に反発し始めた。

帰蝶「ご無事のお帰り、祝着至極に存じます」
織田信長「うむ。清洲まで行ってきたぞ。彦五郎め、臆病風を吹かして城から一歩も出て参らぬ。城の周りを焼き払うてやった故、暫くはおとなしくしていよう」
帰蝶「父上様がお亡くなりになってまだ僅かというのに、清洲といい、岩倉の織田といい、よってたかって殿に戦をしかけてまいります。真に恥知らずなお身内たちでございますな」
織田信長「身内ほど当てにならぬものはない」

※太田牛一『信長公記』
或る時、上総介殿御人数清洲へ引き入れ、町を焼き払ひ、生城に仕り候。信長も御馬を寄せられ候へども、城中堅固に候間、御人数打ち納れられ、武衛様も城中に御座候間、透を御覧じ、乗つ取らるべき御巧みの由、申すに付いて、清洲の城外輸より城中を大事と用心、迷惑せられ候。
https://note.com/senmi/n/n135a19c499e3
【現代語訳】ある時(天文21年8月16日の深田・松葉両城奪還後)、織田信長は軍勢を清洲へ引き入れ、町を焼き払い、清州城を生城(はだかじろ。城の周囲に何もない城)してしまった。織田信長も出馬して清州まで来たが、清州城は堅固な城で、城兵は出陣せずに籠城したので、織田信長は、攻めあぐねた。織田信長は、「城内には武衛様がおられ、攻め込んで武衛様を危険に晒すことは出来ないので、隙を見て乗っ取ろう」と梁田弥次右衛門の策略(内部分裂策)について話したので、それが伝わって、清州城では、「清洲城外より城も中の監視が大事」と用心したので、織田信長は難渋した。

2.字は読めないが理解力はある豊臣秀吉


木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、「織田信秀の鉄砲足軽・木下弥右衛門の子である。木下弥右衛門は、負傷して帰農したので、農民の子ともいえる」という。武士の子であれ、農民の子であれ、文字の読み書きが出来なかったと言うことは、高貴の出(上級武士の子)ではないでしょう。
名字は無く(「木下」は妻・ねねの名字)、織田信長と会った時に木の下にいたので、織田信長が「木下」と名付けたというが、このドラマの木下藤吉郎は、猿のごとく、木の上にいそうである。「馬鹿と煙は高いところへ上る」と言うが、木下藤吉郎は、字は読めないが、理解力に優れており、馬鹿だとは言えない。

※吉田兼好『徒然草』(第92段「ある人、弓射ることを習ふに」)
或人、弓射る事を習ふに、諸矢(もろや)をたばさみて的に向ふ。師の言はく、「初心の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、はじめの矢に等閑(なおざり)の心あり。毎度ただ得失なく、この一矢(ひとや)に定むべしと思へ」と言ふ。わづかに二つの矢、師の前にてひとつをおろかにせんと思はんや。懈怠(けだい)の心、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべし。

駒「初心の人、二本の矢を持つ事なかれ」
木下藤吉郎「あぁ、初めて矢を習う者は、矢を二本も持つなというのだな。その次は何と読む?」
駒「後の矢を頼みて、はじめの矢に等閑の心あり」
木下藤吉郎「なるほど。二本目の矢があると思うと、初めの矢を疎かに射てしまうぞとたしなめておるのだ。いやぁ助かったぁ。そういうことか。いやぁ書物というものは、偉いものだ」

※この場面、浜名湖との位置関係からして、今川軍は西(尾張)から東(駿河)へ移動しているように見えてしまうのですが・・・。

3.聖徳寺の会見


※太田牛一『信長公記』
四月下旬の事に候。斎藤山城道三、「富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく候間、織田上総介殿も是れまで御出で候はゞ、祝着たるべく候。対面ありたき」の趣、申し越候候。此の子細は、此の比、上総介を偏執候て、「聟殿は大たハけにて候」と、道三前にて口々に申し候ひき。左様に人々申し候時は、たハけにてはなく候よと、山城連々申し候ひき。見参候て、善悪を見候はん為と聞こへ候。上総介公、御用捨なく御請けなされ、木曾川、飛騨川、大河の舟渡し打ち越え、御出で候。
 富田と申す所は、在家七百間もこれある富貴の所なり。大坂より代坊主を入れ置き、美濃、尾張の判形を取り候て、免許の地なり。斎藤山城道三存分には、実目になき人の由、取沙汰候間、「仰天させ候て、笑はせ候はん」との巧にて、古老の者、七、八百、折目高なる肩衣、袴、衣装、公道なる仕立にて、正徳寺御堂の縁に並び居させ、其のまへを上総介御通り候様に構へて、先づ、山城道三は町末の小家に忍び居りて、信長公の御出の様体を見申し候。其の時、信長の御仕立、髪はちやせんに遊ばし、もゑぎの平打にて、ちやせんの髪を巻き立て、ゆかたびらの袖をはづし、のし付の大刀、わきざし、二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、ふとき苧なわ、うでぬきにさせられ、御腰のまわりには、猿つかひの様に、火燧袋、ひようたん七ツ、八ツ付けさせられ、虎革、豹革四ツがわりの半袴をめし、御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄炮五百挺もたせられ、寄宿の寺へ御着き(後略)
https://note.com/senmi/n/n8b3dc70c5255
【現代語訳】天文20年4月下旬の事である。織田信長の義父(正室・帰蝶の父)・斎藤山城守道三が、「尾張国富田(一宮市冨田)の正徳寺(聖徳寺)まで出向くので、よろしければ織田上総介信長殿にも正徳寺まで出向いていただいて、お会いしたい」と言ってきた。この理由(会いたいと思った理由)は、この頃、織田上総介信長を妬んで、「聟殿(帰蝶の夫)は、『大たわけ者』(大馬鹿者)である」と、人々が斎藤道三に面と向かって言ったからである。このような時、斎藤道三は「(儂の判断には間違いがなく、織田信長は)『大たわけ者』ではない」と否定し続けていたが、実際に会って、真偽を見極めるために会見を申し込んだとの噂である。織田上総介信長公は、御用捨(判断力、分別)無く承諾し(宗主同士が会うことは超異例で、武装は失礼であるから出来ず、討たれる心配もあるというのに、二つ返事で快諾してしまい)、大河である木曾川、飛騨川、「萩原の渡し」を越えて、会見場である正徳寺がある富田村へと向かった。
 (尾張国とはいっても、尾張国と美濃国の国境付近に位置する)富田村は、人家が700軒も並び建つ裕福な村である。正徳寺は、大阪の石山本願寺から住職が派遣される寺で、美濃国、尾張国の両国から判物(許可状)をいただいて、種々の特権を得ている門前町である。
 斎藤山城守道三は、聞いた限りでは(織田信長は)「実目(じちめ。質実)無き人」(不真面目な人)だというので、「驚かせて笑ってやろう」と企み、古老の者、7、800人に、折り目正しい肩衣に袴と衣装は礼服とし、正徳寺の御堂の縁に並ばさせ、その前を織田上総介信長が通る様に準備した。先ず、山城守道三は、富田村の町末(村はずれ)の小家に隠れて、織田信長公の行列の様子を見た。その時の織田信長の仕立て(身なり)は、頭(髪型)は、茶筅髷(ちちゃせんまげ。茶道の茶筅に似たヘアスタイル)で、萌葱色(もえぎいろ、黄緑色)の平打ち紐(平たい紐)を巻いて立てられ、上半身は湯帷子(ゆかたびら。入浴の際に着用する和服。 浴衣の原型)を袖脱ぎ(肩脱ぎ)し、熨斗(金銀飾り)付きの大刀と脇差は、2本とも長柄に藁縄を巻き、太い苧縄(麻縄)を腕貫(刀剣の柄頭や鍔に付ける緒。手首に通して手から離れないようにする)として付け、腰周りには、猿使い(猿回し)の様に、燧袋(火打ち袋)、瓢箪(ひようたん)を7、8個付け、下半身は、虎革と豹革を4色に染め分けた半袴(肩衣とコーディネイトする踝丈の袴)を穿き、御伴衆7、800人をずらっと並べ、健者(健脚な足軽)を先に走らせ、柄の長さが三間半(6.4m)もある朱槍約500本、弓と鉄砲500丁持たせ、会見場である正徳寺へ着くと(後略)

連れてくる供の数は互いに1000人と決めたようである。
斎藤利政は、700~800人に正装させ、織田信長は槍隊500人、鉄砲隊500人の軍隊を率いてきた。(史実は・・・明智光秀が斎藤利政の家臣であったら、ベスト700~800人にはランクインしていて、織田信長を見たと思われる。)
織田信長軍のポイントは2つ。
①500人の鉄砲隊(ドラマでは帰蝶が伊呂波太夫に頼んで用意したという)
②500人の槍隊(まずは3間半(身長の3倍以上)という長さに驚かされるが、ポイントは「統一規格」ということである。槍足軽の場合、槍は自分で用意するが、「同じ長さ」ということは、織田信長が作らせて支給したということである。しかも当時は高価だった朱を使っている。)
鉄砲500丁と朱槍500本の購入費は莫大だと思うが、織田弾正忠家にはあったのである。(ドラマでは、斎藤利政は「30人の鉄砲隊を組織する」と言って、明智光安に「30ではお飾りに過ぎない」とバカにされていた。)

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