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『信長公記』「首巻」を読む 第32話「勘十郎殿御謀叛の事」

第32話「勘十郎殿御謀叛の事

一、上総介殿信長公の御舎弟・勘十郎殿、龍泉寺を城に御拵へなされ候。上郡岩倉の織田伊勢守と仰せ合はせられ、「信長の御台所入り篠木三郷、能き知行にて候。是れを押領候はん」との御巧みにて候。
 勘十郎殿御若衆に津々木蔵人とてこれあり。御家中の覚えの侍どもは皆、津々木に付けられ候。勝ちに乗って奢り、柴田権六を蔑如に持ち扱ひ候。柴田、無念に存じ、上総介殿へ「又、御謀叛おぼしめし立つる」の由申し上げられ候。是れより信長、作病を御構へにて、一切面へ御出でなし。「御兄弟の儀に候間、勘十郎殿、御見舞然るべし」と、御袋様並びに柴田権六、異見申すに付いて、清洲へ御見舞に御出で、清洲北矢蔵天主、次の間にて、弘治四年戊午霜月二日、河尻、青貝に仰せ付けられ、御生害なされ候。此の忠節仕り候に付て、後に越前大国を柴田に仰せ付けられ候。

【現代語訳】

一、織田信長の弟・織田勘十郎信勝は、龍泉寺(愛知県名古屋市守山区竜泉寺)を改修して龍泉寺城とした。尾張国上4郡を治める岩倉城の織田伊勢守信賢と共謀し、「織田信長の直轄領の「篠木三郷」(東春日井郡(愛知県春日井市)の篠木上・中・下郷)が良い土地であるので、これを横領しよう」と企んだ。
 織田信勝の若衆(男色の相手)に津々木蔵人という人がいた。家中の評判の良い武士たちは、皆、この津々木蔵人に付けられ、津々木蔵人が勝ち誇って奢り高ぶり、柴田権六勝家を蔑ろにした。柴田勝家は、悔しく思い、織田信長に、「織田信勝が再び謀叛(織田信賢と組んでの篠木三郷の横領)を企んでいる」と密告した。この密告以来、織田信長は、病気の振りをして、一切、外出しなくなった。「兄弟が病気なのだから、見舞いに行くべきである」と母・土田御前と柴田勝家が意見したので、織田信勝は、清洲城へ見舞いに行き、清洲城の織田信長が住む北櫓天主の「次の間」にて、弘治4年(1558年)11月2日、織田信長は河尻秀隆と青貝(詳細不明)に命じて、織田信勝を殺害した。(『甫庵信長記』には、山口飛騨守、長谷川橋介、川尻青貝の3人がまず斬りつけ、織田信勝が土田御前の方へ逃げようとしたところを、池田恒興が抑えて止めを刺したとある。)この時の忠節により、柴田勝家は、天正3年(1575年)、大国・越前国が与えられた。(討った人より情報提供者の方が優遇されるって、「桶狭間の戦い」の時と同じだな。)

【解説】

 織田信勝の殺害方法は、斎藤義龍が弟たちを殺した方法と全く同じですね(第25話「山城道三討死の事」参照)。斎藤義龍の弟たちは、帰り道「七曲り」で殺されたとする説もありますが。

 さて、戦国時代の研究は日進月歩で、古い本と新しい本では、書いてあることが異なります。

①織田信長の弟の名は、古い本では「織田信行」ですが、新しい本では「織田信勝」です。(「信行」は、同時代史料では、信勝、達成、信成。)

②暗殺されたのは、「弘治3年11月2日」(『寛政重修諸家譜』『享禄以来年代記』『織田家雑録』など)から「弘治4年11月2日」(『信長公記』。弘治4年2月28日に「永禄」に改元されたので、正しくは「永禄元年11月2日」)に変わりました。
 これは、「弘治3年11月2日」以降にも織田信勝が生きていた証拠(①『定光寺年代記』に、「信行」(信勝)が、永禄元年3月に龍泉寺の築城を開始したと記載、②弘治3年11月25日付の「武蔵守信成」(信勝)の発給文書)があるからです。

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