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『信長公記』「首巻」を読む 第25話 山城道三討死の事

第25話 山城道三討死の事

 山城子息、一男新九郎、二男孫四郎、三男喜平次、兄弟三人これあり。父子四人共に稲葉山に居城なり。
 惣別、人の総領たる者は、必ずしも心が緩々として、穏当なるものに候。道三は智慧の鏡も曇り、新九郎は「耄者」と計り心得て、弟二人を「利口の者哉」と崇敬して、三男喜平次を一色右兵衛大輔になし、居ながら、官を進められ、ケ様に候間、弟ども勝ちに乗つて奢り、蔑如に持ち扱ひ候。
 新九郎、外見、無念に存知、十月十三日より作病を構へ、奥へ引き入り、平臥候へき。霜月廿二日、山城道三、山下の私宅へ下られ候。爰にて、伯父の長井隼人正を使にて、弟二人のかたへ申し遣はす趣、「既に重病、時を期する事に候。対面候て一言申し度事候。入来候へかし」と申し送り候。長井隼人正巧みを廻し、異見申すところに、同心にて、則ち二人の弟ども、新九郎所へ罷り来るなり、長井隼人正、次の間に刀を置く。是れを見て、兄弟の者も同じ如く、次の間に刀ををく。奥の間へ入るなり。態と「盃を」と候て、振舞を出だし、日根野備中、名誉の物切のふと刀、作手棒兼常、抜き持ち、上座に候へつる孫四郎を切り臥せ、又、右兵大輔を切り殺し、年来の愁眉を開き、則ち、山下にこれある山城道三かたへ右の趣申し遣はすところ、仰天致し、肝を消すこと限り無し。爰にて螺を立て、人数を寄せ、四方町末より火をかけ、悉く放火し、井口を生か城になし、奈賀良の川を越え、山県と云ふ山中へ引き退く。
 明くる年四月十八日、鶴山へ取り上り、国中を見下し居陣なり。信長も道三聟にて候間、手合のため、木曾川、飛騨川、舟にて渡り、大河打ち越え、大良の戸島東蔵坊構へ至りて御在陣。銭亀、爰もかしこも、銭を布きたる如くなり。
 四月廿日辰の剋、戌亥へ向つて新九郎義龍人数を出だし候。道三も鶴山をおり下り、奈加良川端まで人数を出だされ候。一番合戦に竹腰道塵、六百計り真丸になつて、中の渡りを打ち越え、山城道三の幡元へ切りかゝり、散々に入りみだれ、相戦ふ。終に竹腰道塵、合戦に切り負け、山城道三、竹腰を討ちとり、床木に腰を懸け、ほろをゆすり満足候ところ、二番鑓に新九郎義龍、多人数焜と川を越え、互ひに人数立て備へ候。義龍備への中より武者一騎、長屋甚右衛門と云う者進み懸かる。又、山城人数の内より柴田角内と云ふ者、唯一騎進み出で、長屋に渡し合ひ、真中にて相戦ひ、勝負を決し、柴田角内、晴れがましき高名なり。双方よりかゝり合ひ、入り乱れ、火花をちらし、相戦ひ、しの木をけづり、鍔をわり、爰かしこにて思ひ思ひの働きあり。長井忠左衛門、道三に渡し合ひ、打太刀を推し上げ、むすと懐き付き、山城を生捕に仕らんと云ふ所へ、あら武者の小真木源太走り来なり、山城が脛を薙ぎ臥せ、頸をとる。忠左衛門者、後の証拠の為にとて、山城が鼻をそひで、退きにけり。
 合戦に打ち勝ちて、頸実検の所へ、道三が頸持ち来たる。此の時、身より出だせる罪なりと、得道をこそしなりけり。是れより後、新九郎はんかと名乗る。古事あり。昔、唐に、はんかと云ふ者、親の頸を切る。夫者、父の頸を切りて孝なすとなり。今の新九郎義龍は不孝重罪、恥辱となるなり。

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