見出し画像

織田信長と伊勢神宮

 伊邪那美(イザナミ)命の死後、夫・伊邪那岐(イザナギ)命は、黄泉国へ妻に会いに行って戻ると、筑紫(九州)の日向国の橘の小戸の阿波岐原(檍原)に於いて、海水で黄泉国の汚れを落とした。
 『古事記』には、この時、神々が生まれ、「終得三貴子(ついに三貴子を得る)」(やったぞ! 遂に「三貴子」という素晴らしい三神を生んだぞ!)と伊邪那岐命が歓喜したとある。

洗左御目時、所成神名、天照大御神。
次、洗右御目時、所成神名、月読命。
次、洗御鼻時、所成神名、建速須佐之男命。
此時、伊邪那伎命、大歡喜詔「吾者生生子而、於生終得三貴子」。
即、其御頸珠之玉緖母由良邇此、下效此取由良迦志而、賜天照大御神而詔之「汝命者、所知高天原矣」、事依而賜也、故其御頸珠名、謂御倉板擧之神。
次、詔月読命、「汝命者、所知夜之食國矣」、事依也。
次、詔建速須佐之男命、「汝命者、所知海原矣」、事依也。

 左眼を洗うと天照大神、右眼を洗うと月読命、鼻を洗うと建速須佐之男命の「三貴子」が生まれた。伊邪那岐命は歓喜し、「三貴子」に、それぞれ高天原、夜の食(をす)の国、海原の統治を任せた。
 中国の盤古説話(建速須佐之男命(牛頭天王)に比定される盤古の体から万物が生成されたという伝説)に対応させると、天照大神は日、月読命は月、建速須佐之男命は嵐(息は風雲、声は雷)になる。農耕民族である日本人にとっては、

天照大神:左目。レガリアの首飾り「御倉板擧(みくらたな)之神」(稲霊)を渡された穀物神にして、高天原のリーダーに抜擢された太陽神(農耕には太陽光が必要)。
月読命:右目。太陰暦(月の満ち欠けによる暦)、農業暦を司る神。
建速須佐之男命:鼻息。嵐(台風)は海から生じるので、海を司った。本来、海を司るのは竜宮城の竜王(龍は農耕に必要な水の神)であり、建速須佐之男命に比定される盤古の娘たちは竜王を生み、牛頭天王は、竜宮城の沙掲羅竜王の三女・頗梨采女と結婚している。

となろう。

※任昉『述異記』(巻上)
 昔、盤古氏之死也。頭為四岳、目為日月、脂膏為江海、毛髮為草木。秦漢間俗説、盤古氏頭為東岳、腹為中岳、左臂為南岳、右臂為北岳、足為西岳。先儒説、盤古氏泣為江河、気為風、声為雷、目瞳為電。古説、盤古氏喜為晴、怒為陰。吳楚間説、盤古氏夫妻陰陽之始也。今、南海有盤古氏墓亘三百餘里。俗云、後人追𦵏盤古之魂也。桂林有盤古氏廟。今、人祝祀。
 南海中盤古国、今、人皆以盤古為姓。昉按、盤古氏天地万物之祖也。然、則、生物始於盤古。

【大意】昔、盤古が死んだら、頭は四岳に、眼は日月に、脂肪は川や海に、毛髪は草木に変わったというが、秦漢時代の俗説では、盤古の頭は東岳(泰山)、腹は中岳(嵩山)、左手は南岳(衡山)、右手は北岳(恒山)、足は西岳(華山)に変わったとする。また、昔の学説では、盤古が泣いたら川ができ、息が風となり、声が雷となり、瞳が稲妻となったとし、古い説では、盤古が喜べば晴れ、怒れば曇るとする。呉や楚では、盤古夫妻は陰陽の始めだという。今、南海(中国広東省)に300余里にもわたる盤古の墓がある。俗に、後代の人が盤古の魂を追葬した墓だいう。桂林には盤古の宮があり、今も祭祀が行われている。
 南海の盤古国の人たちは、皆、「盤古」姓だという。任昉(筆者)が思うに、盤古は天地万物の祖である。生きとし生けるものは全て盤古から生じたのである。


 そして、このように、太陽神と月神は、右目と左目程の差しかない。
 しかし、実際は、太陽神は、天皇の祖先として月神と大差をつけている。
 天皇の祖先が太陽神・天照大神(女神)であれば、天皇は女性のはずであるが、天照大神は高天原にいて、地上へは、娘ではなく、孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を降ろした(「天孫降臨」)。この孫の瓊瓊杵尊が男神であるので、天皇は男なのである。(『古事記』編纂期の状況を考えると、天照大神(女神)=持統天皇(女性天皇)であり、持統天皇の子の草壁皇子の早世により、皇位を孫・文武天皇が継いだことと対応させたのであって、本来は諸国のように、日本でも太陽神は男神で、月神は女神であったという。)

 天照大神は高天原にいるが、祈る時は、伊勢神宮(内宮)の依代「八咫鏡」(もしくは分社「神明宮」の神体鏡)に依っていただく。(ただし、祈願の内容は、「天下泰平祈願」など、国家レベルの祈願に限る。個人的な祈願は伊勢神宮(外宮)で行う。参拝順も外宮が先である。)

さて、

──織田信長は、太陽神の子孫・天皇に対抗しようとして月に登ろうとした?

それを「畏れ多い」として、明智光秀が織田信長を討ったというのが「本能寺の変」の真相?

1.織田信長の伊勢神宮参拝『明智軍記』

 「『明智軍記』は伊勢神宮の観光案内本か?」と思われるほど、伊勢神宮について詳しく書かれている。(ただし、執筆時(江戸時代)の案内であって、現状とは多少異なる。たとえば、桜宮は、現在は無い。)
 伊勢神宮と織田信長や明智光秀がどう関わるのかほとんど書かれていないが、こういう観光案内的な記述もあるので、『明智軍記』は庶民受けしてベストセラーになったのであろう。『明智軍記』(全10巻)から、明智光秀には関係のない記述をカットした『抄本 明智軍記』を書けば、全3巻くらいになりそうである。

(注)伊勢神宮のご祭神の正体や天逆鉾は長くなるので別記事にしてある。
「鍵を握るのは、丹後一宮・籠神社だ!」
https://note.com/senmi/n/n2856f024cb81
「「天逆鉾」は今どこにある?」
https://note.com/senmi/n/nc526b8099a31

※『明智軍記』
 志摩国は、北畠の領知なれば、其の辺、一見すべし。且は、天下泰平の為、信長朝臣、参宮成さらるべしとて、内宮、外宮、其の外の末社迄、奉幣(ほうへい)を捧(ささげ)させ給へり。
 抑々、太神宮と申し奉るは、忝なくも、日本累代の宗廟、国家鎮護の尊神也。
 先つ内宮は、地神五代の曩祖(のうそ)・天照太神(あまてらすをほんがみ)にて御座(をはしま)す。初めは天子の御同殿に崇(あがめ)給ひしを、垂仁帝の皇女・大和姫命(やまとひめのみこと)の御伯母・豊鍬入姫命(とよすきのいりひめのみこと)、斎宮の始めにて、皇太神を載(いただ)き奉て、大和国三輪迄出給ひ、其れより倭姫命(やまとびめのみこと)を斎宮として、弥、御鎮所を求め、伊勢国神風や五十鈴川の上(ほと)り、宇治郷に御鎮座有りて、天手力雄(あまのたちからをのみこと)、万幡豊秋津姫命(よろづはたとよあきつひめのみこと)を左右の相殿(あひどの)とし、心の御柱、天御榊をぞ崇奉られける。
 外宮の御社は、天神七代の始め、国常立尊(くにとこたちのみこと)命也。昔、丹波国真井原(まないのはら)にて、豊受太神(とよけだいじん)と号せしを、雄略天皇の御宇に天照太神の御告げに依て、度会郡(わたらゑのこほり)沼木郷山田原に御遷宮あり。内宮より程を去る事四十二町也。瓊々杵尊(ににぎのみこと)を東の相殿とし、天兒屋根命(あまのこやねのみこと)、太玉命(ふとだまのみこと)を西の相殿と祠(おはひ)て、皇太神宮と申し奉り、都(すべ)て内宮、外宮、差別(しゃべつ)なく尊敬致すべき也。古歌にも、
  片批の千木は内外に替はれども 誓ひは同じ伊勢の神がき
 又、両宮の拝殿近く、僧尼は参らざる掟なれば、西行法師も荒垣の外に通夜して、本地は隔(へだて)有間敷を、遥かに拝し奉る事よと打ち歎きて、目睡(まどろみ)けるに、斯ぞ示し給ひける。
  天照す月の光は神垣や 引く注連縄の内外もなし
 内外は、瑞籬の内外ながら、内宮、外宮、御一体の意(こころ)をも含みける尊詠にや有り難くこそ覚ゆれ。
 偖、礒宮(いそのみや)は、太神、始めて天降(あまくだ)り給ふ所也。神路山の以住(あなた)五十鈴川河上なり。風宮は、級長戸辺命(しながとべのみこと)にて、内外共に御社あり。海陸安全に守り給ふ神也。月弓宮も、内外両宮に祠(いは)へり。内宮七所の其の一つ、外宮にては、四所の別宮なり。桜宮は内宮・二の鳥居より左の方に石積宮にて、桜木を御神体とす。木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)と御一体とや。朝熊宮六座内五社は乾の方の麓に立ち給ふ。櫛玉命(くしたまのみこと)、一社は朝熊峯に垂跡(すいじゃく)坐(ましま)せり。鏡宮は、横根山に祠ひ、宇治川、浅間川落合の辺(ほとり)也。御神体は鏡にて、日神、月神の応化(をうけ)なり。滝宮は、御裳濯(みもすそ)川の岸に石を積みて、地底を宝殿とし、天逆鉾(あまのさかほこ)等、納め置からるる神仙也。此の外、神宮の数、多し。
 内宮の禰宜(ねぎ)は、荒木田氏、外宮は度会氏也。織田殿、則ち、十人の長官、並びに、禰宜、神主に残らず引出物賜り、重ねては、悉く造営成さらるべき旨、仰せ聞かられつつ、天岩戸、高天原にて御神楽など奉り給ひ、それより二見の渚、一覧有りて、宮川を越へて、目出度濃州へ下向成りにけり。

【大意】 さて、「志摩国は、北畠氏の領地であるから、見ておこう。ついでに、天下泰平祈願のため、伊勢神宮に参宮しよう」と織田信長は、伊勢神宮の内宮、外宮、その他、末社に至るまで、奉幣を捧げた。
 そもそも、伊勢神宮とは、畏れ多くも古代においては宇佐神宮、中世においては石清水八幡宮と共に「二所宗廟」のひとつであり、国家鎮護の神である。
 まず内宮(皇大神宮)は、地神五代(天照大神、天忍穂耳尊、瓊瓊杵尊、火折尊、鸕鶿草葺不合尊)の最初の神・天照大神がおられる。初めは天皇の御所に祀っていたが、垂仁天皇の娘・倭姫命の伯母・豊鍬入姫命が、初代斎宮として、天照大神(三種の神器)を載いて、御所を出て大和国三輪に祀り、次に倭姫命が第2代斎宮となり、御鎮所を求めて諸国を巡り、最終的には神風吹く伊勢国の五十鈴川のほとり、伊勢国度会郡宇治郷(内宮の鳥居前を宇治、外宮の鳥居前を山田という。合併して宇治山田市となり、1955年以降は伊勢市)に御鎮座され、正殿の左右の相殿には、東に天手力雄、西に万幡豊秋津姫命が祀られ、正殿の中央には「心の御柱」がある。
 外宮(豊受大神宮)は、天神七代(国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊(以上「独化神三代」)、泥土煮尊&沙土煮尊、大戸之道尊&大苫辺尊、面足尊&惶根尊、伊弉諾尊&伊弉冉尊(以上「偶生神四代」)の七代)の初めの神・国常立尊を祀っている。(丹後国一宮・籠神社の豊受大神は、通説では女神であるが、籠神社の古文書には、「豊受大神即国常立尊」または「豊は国常立尊、受は天照大神也」とある。)国常立尊は、昔、丹波国与謝郡の比冶山の山頂の真奈井原(和銅6年(713年)、丹後国として分立)で、豊受大神と名乗っていたが、雄略天皇の御世、天照大神の「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の真奈井にいる御饌の神・豊受大神を近くに呼び寄せなさい」という御告げに依って、度会郡沼木郷山田原に遷宮した。外宮は内宮から42町(4.6km)離れている。この正殿の豊受大神と相殿の御伴神三座(東の相殿の瓊々杵尊、西の相殿の天兒屋根命と太玉命)をあわせて「豊受大神宮(外宮)」といい、内宮を「皇太神宮」という。内宮、外宮の優劣はない。古歌にも、
  片批の千木は内外に替はれども 誓ひは同じ伊勢の神がき(千木の形は、内宮が内削ぎで、外宮が外削ぎと、正殿の建築様式が異なるが、どちらも同じく日本鎮守の4重の垣根で囲まれた伊勢の神である。)
とある。
 また、両宮ともに僧や尼は正殿に近寄れないルールであるので、西行法師は、板垣(正殿の垣根は4重で、外から板垣、外玉垣、内玉垣、瑞垣という)の外で通夜して、「すぐそこに正殿があるにに、近寄れず、遠くから拝むことになるとは(残念だ)」と歎きながら、うとうととしつつ、次のように詠んだ。
  天照す月の光は神垣や 引く注連縄の内外もなし(月の光は垣根の内外区別なく照らしている。)
 この和歌の「内外」は、「垣根の内と外」の意であるが、「内宮、外宮、御一体」の意をも含んだありがたい和歌である。
 さて、「神宮125社」(正宮2、別宮14、摂社43、末社24、所管社42)であるが、内宮の別宮の志摩国一宮・伊雑宮(三重県志摩市磯部町上之郷)は、天照大神が始めて天降りした場所で、「天照大神の遙宮」と呼ばれている。内宮南方の神路山(三重県伊勢市宇治)の先、五十鈴川河上の先にある。
 内宮の別宮・風日祈宮(三重県伊勢市宇治館町)と外宮の別宮・風宮(三重県伊勢市豊川町)のご祭神は、共にご祭神は、風雨を司る神の級長津彦命と級長戸辺命で、海陸交通安全の神という。(もとは末社であったが、弘安4年(1281年)の元寇の際、「神風」を起こし日本を守ったので、別宮に昇格した。)
 内宮の別宮・月讀宮(三重県伊勢市中村町)は、「内宮十所」(荒祭宮、月讀宮、伊佐奈岐宮、瀧原宮、瀧原竝宮、伊雑宮、朝熊神社。現在は、朝熊神社をはずし、月讀荒御魂宮、伊佐奈弥宮、風日祈宮、倭姫宮を加えて「内宮十所」)の1社で、外宮の別宮・月夜見宮(三重県伊勢市宮後)は、「外宮四所」(多賀宮、土宮、月夜見宮、風宮)の1社である。
 桜宮(廃社。現在の石神・四至神の鎮座地にあった)は内宮の二の鳥居の左方の石積宮(社殿を持たず磐座があるだけ)で、桜の木をご神体としていて、木花開耶姫命の別名と言われる桜大刀自神(さくらおおとじのかみ)が祀られ、桜の名所・朝熊神社(朝熊山)の遥拝所であったという。
 朝熊宮6座(桜大刀自神(木花開耶姫命)、苔虫神(岩長姫命)、朝熊水神、櫛玉命(出雲建子命、伊勢都彦命)、保於止志神(大歳神)、大山祇神)の内、5社は北西の山麓(三重県伊勢市朝熊町桜木)にある(所在地不明であったが、寛文3年(1663年)に見つけて再興)が、櫛玉命だけは朝熊山(朝熊ヶ岳)山頂の朝熊神社(廃社)に祀られていた。
 寛文3年(1663年)には、朝熊神社の御前社として鏡宮神社が再興された。この鏡宮神社は、横根山の山麓の朝熊川と五十鈴川の合流点に建てられている。御神体は白銅鏡2枚で、日神と月神の化れる鏡で、水火二神の霊物となすという。
 瀧祭神(滝祭宮)は、御裳濯川(「五十鈴川」の別名。倭姫命が、この川で「御裳(みも)」を洗い清めたという)と島路川の合流点の岸に石を積み、常世(地底)の宮殿(宝宮。「龍宮城」「仙宮」とも)が社殿であり、天御中主尊の神宝・天逆鉾(常住心柱)が納められている霊地である。(天照大神が天上から投げ降ろされた天逆太刀、逆鉾、金鈴等は酒殿に納められたとも。)
 この他、伊勢神宮の神社数は多く、全部で125社ある。
 内宮の禰宜は、荒木田氏、外宮は度会氏である。織田信長は、10人の長官、並びに、禰宜、神主に残らず引出物を賜り、重ねて、神宮を悉く造営(改修)すると約束し、「天岩戸」「高天原」などの神楽を観て、それより二見浦(三重県伊勢市二見町)をひと目見ると、宮川(三重県南部を流れて伊勢湾に注ぐ一級河川。下流付近に伊勢神宮がある)を越えて、無事に美濃国へ帰った。

片削ぎの千木は内外に変はれども 誓ひは同じ伊勢の神垣

 伊勢神宮は、表向きには内宮にも外宮にも女神が祀られていると公表されているが、千木の形が、内宮が内削ぎ(男神を祀る神社の建築様式)で、外宮が外削ぎ(女神を祀る神社の建築様式)と異なることから、内宮の神が男神であることは明らかで、その正体は、極秘伝に、出雲国の熊野大神(建速須佐之男命)とあるが、
・天照(アマテル)大神(天照国照彦火明櫛玉饒速日命の別名)説
・天照(アマテル)大神(伊勢国の太陽神・猿田彦命の別名)説
・伊勢国の風水神・伊勢津彦命(諏訪大社の神・建御名方命の別名)説
もある。(他にはムー的なイエス・キリスト説もある。)

※天照国照彦火明櫛玉饒速日命の正体は、建速須佐之男命の子・大年神だという。ちなみに、古代では末子相続であったので、出雲国須佐の王・建速須佐之男命の財産は、大年神ではなく、末子・須勢理毘売命(実質的には須勢理毘売命の夫の大国主命)が継いで大国主命が出雲国を支配したので、大年神は出雲国を出て北九州に移り、その後、物部氏を率いて大和盆地に入り、大神神(大物主神)として祀られている。
 「日本の神々の正体は、実在の人物である」(天照大神は卑弥呼、建速須佐之男命は出雲国須佐の王など)と考えたのが、婦人生活社の創設者・原田常治氏で、同氏は「日本のシュリーマン」と呼ばれている。
 ようするに、「日本の神」は、「祖霊」(卑弥呼、出雲国須佐の王といった祖先の霊)である。江戸時代の国学者も気づき、「『神(かみ)』の語源は『上(かみ)』(「祖先」の意)である」としたが、現在の国語学者は「『神』と『上』の「み」の発音が異なる」として、「『神』の語源は『隠身』(「目に見えない存在」の意)」だとする。

2.織田信長による遷宮『信長公記』


 伊勢神宮は、宮大工の技術が失われないよう、20年毎に遷宮することになっているが、資金不足で長いこと(天正10年時点で内宮が120年、外宮が19年)行われていなかった。それで天正10年、織田信長がスポンサーとなって、遷宮を執行した。

※『信長公記』
 正月25日、伊勢太神宮に於いて、「正遷宮300年以降退転、御執行これなく、今の御代に上意を以て再興仕りたき」の趣、上部大夫、堀久太郎を以て申し上げられ候。「何程の造作にて調ふべき」とお尋ねのところに、「1000貫御座候はゞ、其の外は勧進を以て仕るべし」と候つれ共、「1000貫に余りて入り申すの間、中々1000貫にてなるべからず候。民百姓等に悩みを懸けさせられ候ては、入らざる」の旨、御諚なされ、「先づ、3000貫」仰せ付けられ、「其の外、入り次第、遣はさるべき」旨にて、平井久右衛門御奉行として、上部大夫に相加へられ候ひき。
 正月26日、森蘭御使にて、「濃州岐阜御土蔵に、先年、鳥目16000貫入れおかれ候。定めて縄も腐れ候はんの間、三位中将信忠より御奉行を仰せ付けられ、繋ぎ直し、正遷宮入り次第御渡しなされ候へ」と御諚なり。

【大意】天正10年1月25日、伊勢の上部貞永が、堀秀政を通して、織田信長に「(20年毎の)伊勢神宮の遷宮が(資金不足で)300年途絶えているので、資金を寄付していただきたい」と言ってきたので、織田信長が「いくら必要だ?」と聞くと「1000貫(現在の1億~1.5億円)あれば。足りない分は勧進(民間からの寄付金)で調達できましょう」とのことであった。織田信長が言うには、「一昨年、石清水八幡宮の時は、当初は300貫が必要だという見立てであったが、結局は1000貫を越えた。今回の伊勢神宮の場合も1000貫では無理であろう。不足分を民百姓らからとってはならぬ」と言って、「まず3000貫(3~4.5億円)寄進し、その後も必要次第、出資する」と言い、平井久右衛門を担当奉行に任じて、上部貞永を補佐させた。
 さらに、翌26日、織田信長は、森蘭丸を使者として、岐阜城の織田信忠へ「岐阜城の土蔵に16000貫の鳥目(中央に穴が空いた鳥の目のようなコイン)を置いてあるが、今ではそれを結んだ紐が腐り果てていよう。奉行を任命して紐を結び直し、遷宮で入用となり次第、伊勢神宮に寄進しなさい」と指示した。

参考動画:れきしクン『それいけ! れきしクンTV』
「1月26日は何の日!? 信長ファンディング! 伊勢神宮の遷宮」
https://www.youtube.com/watch?v=a3fANpFR05E

3.「本能寺の変」(『明智軍記』)

※『明智軍記』
 伊勢太神宮、修造せんとて、当春より紀州熊野の山中に入り、材木を悉く杣(そま)載取ける処に、6月2日辰の刻計り、川向ひより人の声して、「信長薨じ玉ふ間、皆々、先ず罷帰るべし」とぞ呼ばはりける。之に依り、大小工等、驚き騒ひで、「此の上は、仰せに従ふべし」とて、勢州山田にぞ帰りける。「京都より熊野迄は100里に及ぶ所なれば、人間の通ずべきにあらず。偏に神明の御告げなり」と人、皆、奇異の思ひをなせり。

【大意】(織田信長が資金を出してくれたので)伊勢神宮を遷宮しようと、今年(天正10年)の春から紀伊国熊野の山中に入り、杣(神社建設に使う木)を杣(杣人、樵)が伐っている時、6月2日の辰の刻(午前8時頃)、川の対岸から「スポンサーである織田信長が亡くなったので、一旦帰宅して待機せよ」と呼ばれた。杣たちは驚き、騒ぎ、「こうなったからには、仰せに従おう」と、伊勢国山田に帰った。「京都から熊野までは100里以上ある。(織田信長が亡くなって数時間後に彼の死を伝えるとは)人間業では無い。伊勢大神の御告げだとしか考えられない」と人々は、皆、不思議に思った。

 結局、伊勢神宮の遷宮は、豊臣秀吉が受け継いだ。

【現在の織田信長の評価】

・高年層の評価:伊勢神宮の遷宮の費用を負担するなど篤い勤皇の武将
・中年層の評価:天皇など、古い慣習や制度と対立する熱い革命児
・若年層の評価:天皇も利用できるなら利用する冷静なリアリスト

さて、さて、正解を言ってるのは誰?

あなたのサポートがあれば、未来は頑張れる!