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『明智軍記』(第9話)

 今回「信長公妹被嫁浅井事付斎藤龍興落居事(信長公の妹、浅井へ嫁(かせ)らるる事。付けたり、斉藤竜興、落居の事)」(第9話)も織田信長の話で、明智光秀は登場しません。

★原文&現代語訳(大河マニアックス様)
https://iiakazonae.com/1262/
★解説(武将ジャパン様)
https://bushoojapan.com/bushoo/azaasa/2020/09/28/150956
★感想(Ameba版「戦国未来の戦国紀行」)
https://ameblo.jp/sengokumirai/entry-12622662346.html
★小説『明智光秀幻視行』
https://novelup.plus/story/695307463/508930168

【第9話の内容】

1.織田信長の妹・市と浅井長政の政略結婚
2.浅井氏の出自
3.織田信長の美濃国平定
4.斎藤龍興の落居(省略)

1.市と浅井長政の政略結婚


 市姫(於市の方(おいちのかた)、小谷の方(おだにのかた)、小谷殿など)は、織田信長の妹で、「戦国一の美女」(次の世代の「戦国一の美女」は、明智光秀の娘・細川ガラシャだという)だと噂されています。

(1)『明智軍記』の記述と史実


 『明智軍記』などによれば、織田信長は、稲葉山城の斉藤竜興を直接攻めるが失敗したので、(木下藤吉郎の提案で)戦略を変更し、東美濃から美濃国を徐々に崩していった。しかし、それでも斉藤竜興が稲葉山城を開城しないので、(丹羽長秀の提案で)戦略を変更し、西からも攻めようとした。近江国出身で、織田家家臣となった浅井政貞を使者として、観音寺城(滋賀県近江八幡市安土町)の佐々木六角義秀&義賢に送ると、佐々木六角義賢が「政略結婚がいい。佐々木六角家には適齢期の子はいないが、縁者・浅井久政の子・賢政(後の長政)が未婚である」と言うので、浅井政貞は小谷城(滋賀県長浜市湖北町伊部)に向かい、浅井久政に政略結婚の話をすると大喜びし、縁談がまとまったということですが、史実は違うようです。

史実① 浅井政貞は、尾張国出身。尾張浅井氏であって、近江浅井氏ではない。

史実② 浅井猿夜叉丸の父・浅井久政は、武勇に冴えず、浅井久政が浅井家宗主となると、衰退して、浅井家は六角氏の家臣となってしまった。浅井新九郎は、15歳の元服の時、六角義賢の「賢」の一字を頂いて「賢政」と名乗らされ、六角氏家臣・平井定武の娘と結婚させられた。
 浅井賢政は、永禄3年(1560年)の「野良田の戦い」で六角義賢に大勝して六角氏から独立し、父・浅井久政を竹生島に幽閉し、正室の平井定武の娘とは離婚し、名を浅井新九郎に戻した。
 浅井新九郎は、織田信長の妹・市と結婚して濃江同盟を組むと、織田信長の「長」の一字を頂いて「長政」と名乗った。
 浅井久政は、盟友・朝倉義景との関係を重視し、朝倉義景と不仲の織田信長との同盟には大反対だった。

<余談> 明智光秀の正体は岸信周の四男?

 美濃国の区分の方法は複数があるが、戦国時代は斉藤氏の領地が西濃で、それ以外は東濃であると考えて良い。豊臣秀吉は、織田信長に「西濃の稲葉山城を直接攻めようとするのではなく、東濃から攻めたらどうか」と進言したという。東濃攻めの1つが堂洞城(岐阜県加茂郡富加町夕田)を攻めた堂洞合戦(永禄8年(1565年)8月28日)である。堂洞城主・岸信周は、嫡男・岸信房が討ち死にしたと聞いて自害した。この堂洞城の落城時、岸信周の四男が降参して、織田信長の家臣となった。正室の実家である東濃の名門・明智家の滅亡を嘆いていた織田信長は、この岸信周の四男に「明智光秀」と名付けて、美濃国明智郷を与えて明智家を再興させた。すると、旧・明智家家臣が明智城に戻ったという。(別の伝承では、明智光秀の正体は、東濃(区分法によっては中濃)夕田の堂洞城主・岸信周の子ではなく、西濃多良の多羅城主・山岸信周の子だという。)
 なお、『山岸系図』には「信周、始めは上京し、将軍・義稙公に属し、信士九郎次郎と云へり。後に濃州に帰り、山岸勘解由左衛門と改め、加茂郡夕田の城に住す。信周妻は、明智玄蕃光隆の姉也。信周、子、多くあり。嫡子を進士美作守晴舎と云ふ。未だ部屋住みにして、将軍家に直勤す。次男を岸勘解由信舎と云ふ。三男を進士九郎三郎賢光と云ふ。四男、乃ち、明智光秀也。以下の子、之を略す」(明智光秀は、夕田の堂洞城に住んでいた山岸勘解由左衛門信周の四男)とある。)
 いずれにせよ、明智光秀の前半生が不明なのは、「別の名前で生きていたから」だという。

(2)結婚の時期


結婚の時期については、

永禄2年6月~永禄6年の間(太田浩司「北近江の戦国史」)
永禄4年(宮島敬一『浅井氏三代』)
永禄7年4月中旬(『明智軍記』)
永禄7年 織田信長の「娘分」として結婚(『浅井三代記』)
永禄8年 足利義昭の仲介で結婚(下記「福田寺文書」)
永禄10年9月
永禄11年1月~3月の間

と諸説あります。

※三雲氏宛和田惟政書状(福田寺文書)
御書畏令拝見候。仍浅井備前守与信長縁変雖入目候。(後略)
  12月17日  惟政(花押)
 三雲新左衛門尉殿
 三雲対馬守殿

(2)結婚の理由


①美濃攻めのため(『明智軍記』)→結婚は永禄10年以前
②「美濃国を領した織田信長と組んだ方がよい」という浅井氏の政治判断
③足利義昭上洛ルートの確保のため→結婚は永禄10年以後

 『明智軍記』では、「六角義賢の仲介で浅井長政と市が結婚し、濃江同盟が結ばれると、西美濃衆が次々と織田信長に寝返って、稲葉山城の開城に繋がった」としていますが、史実は②であり、「六角義賢(当時は足利義昭側)が永禄8年11月頃に仲介する(「福田寺文書」)も浅井長政が拒否し、永禄10年8月15日に稲葉山城が落ちると、浅井長政は、美濃国の市橋長利の仲介を受け入れて結婚した」のであって、結婚は「稲葉山城が落ちてすぐ」、言い換えれば、「永禄10年9月~永禄11年の早い時期」(上記⑥⑦説)と考えられています。

(3)お市の方について


 ──「戦国一の美女」なのに晩婚?

 市は、天文3年(1534年)生まれの兄・織田信長(三男)とは13歳離れた五女で、天文16年(1547年)生まれであり、夫の浅井長政は、市の2つ年上で、天文14年(1545年)生まれです。永禄10年(1567年)の結婚ですと、市は21歳、2度めの結婚の浅井長政は23歳になります。
 「21歳は遅すぎる」として、
①「当時の初婚年齢は平均13〜14歳で市もそうだったはず」(太田浩司説)
②再婚説(初婚は13〜14歳)
があります。

 また、織田信長と13歳離れている件について、織田信長の「妹」ではなく、「いとこ」(叔父・織田信光の娘)、あるいは、「いとこの子」(『織田系図』に織田信長の従兄弟・織田広良(與康)の娘とある)だとする説もあります。

 ──いとこにておはせしを、妹と披露して長政卿におくられしにや。(『以貴小伝』)

2.浅井氏の出自


 『明智軍記』には、浅井氏の出自について、「浅井が先祖を聞くに、藤氏閑院の三条内大臣実政公の孫・大納言公綱卿の息・新左衛門尉重政は、永正年中に、江州浅井郡小谷庄に始めて居住し、公家を離れ、弓箭(きゅうせん)を帯(たい)せらる。久政は、重政に四代、兵庫頭賢政の孫・備前守亮政(すけまさ)の子息也。今、備前守長政は、勇健なる弓取りと云ふ。佐々木と浅井は近き縁者の由聞なれば、互ひに頼もしき事ぞかし」とあります。

 分かりにくいので、家系図にしてみると、こうなります。

 三条実政─□─公綱─浅井重政─□─□─賢政─□─亮政─久政─長政

一般的には、

 藤原公綱─浅井重政─忠政─長政─亮政─久政─長政【絶家】

であり、近江国浅井郡を本拠地とする近江浅井氏の始祖・浅井重政を藤原公綱(正親町三条公綱。藤原北家閑院流正親町三条家(嵯峨家)の一門)のご落胤だとしています。藤原公綱が、嘉吉年間(1441-1444)に勅勘を蒙って京極氏預けとなり、京極領の浅井郡丁野村に蟄居していた際に、物部氏の娘との間に儲けた子だというのです。
 これに対し、『明智軍記』では、上述のように、藤原公綱の子・重政が永正年間(1504-1521)に浅井郡に来て、「浅井」と称し、公家を辞め、武士になったとしています。
 とはいえ、浅井重政以前の記録にも、「浅井」姓の人物(物部氏?)が登場しており、浅井氏の始祖は浅井重政ではないようです。

 また、浅井重政の子は2人いて、兄・忠政は浅井家を継ぎ、弟は出家して昌盛法師となるも還俗し、尾張国中村に住んで中村国吉と名乗り、そのひ孫の中村秀吉が豊臣秀吉だそうです。また、「浅井木下系図」では、国吉は、木下高泰の娘婿となって木下国吉と名乗り、そのひ孫の木下秀吉が豊臣秀吉だとしています。(豊臣秀吉は、浅井一族なので、織田信長の妹・お市と浅井長政の結婚を斡旋したり、「金ヶ崎の退き口」では、浅井長政謀反の責任をとって、殿(しんがり)を務めたという。)

 浅井重政┬忠政─賢政─亮政─久政─長政
     └昌盛法師(中村→木下国吉)─吉高─昌吉─元吉(秀吉)

※『江源武鑑』には、豊臣秀吉の前名は「木下元吉」であり、佐々木義秀から「秀」の字を賜って「木下秀吉」と改名したとある。明智光秀も佐々木義秀の家臣であり、佐々木義秀から「秀」の字を賜って「光秀」と改名したという。

※『新東鑑』では、「『江源武鑑』に、『佐々木義秀の諱を授かり、秀吉と名乗り給ふ』とあり。かの書は、偽作なれば採るに足らず」として、「秀吉」の由来を、伊勢国侵攻で、生涯唯一の傷を負った時、織田信長が「朝比奈義秀にも劣らない」と褒めたので、朝比奈義秀の(「義」は足利将軍家の通字なので、使用は憚られ)「秀」をとって、「藤吉郎」を「秀吉」と改めたとする。

 京極氏は、戦国時代に北近江三郡を支配する戦国大名として台頭しますが、お家騒動を発端に衰退すると、浅井亮政は、越前国の朝倉氏と同盟を結び、京極家の有力家臣をも取り込んで戦国大名へと成長したようです。(亮政─久政─長政を「浅井三代」といいます。)

3.織田信長の美濃国平定


 ──美濃を制する者は天下を制す。

(1)織田信長の岐阜城入城


 『明智軍記』では、永禄8年8月15日に稲葉山城を奪取し、織田信包、柴田勝家、丹羽長秀を入れ、残党を退治して美濃国を平定すると、永禄9年3月15日に稲葉山城に入り、地名「井ノ口」を「岐阜」、城名「稲葉山城」を「岐阜城」に変えたとしています。

 稲葉山城の開城(「稲葉山城の戦い」)については、
永禄7年説:『美濃明細記』『土岐累代記』『土岐斎藤軍記』『豊鑑』等。
永禄8年8月15日説:『明智軍記』
永禄10年8月15日説:通説
永禄10年9月説:『瑞龍山紫衣輪番世代帳』
があります。

多数決では、永禄7年ですが、前回の記事にある「河野島の戦い」が閏8月であり、閏8月があるのは永禄9年ですから、「稲葉山城の開城は、永禄9年8月以降である」と、学者は、永禄7年説を完全否定しています。
 稲葉山城の落城年月は、お市の結婚の時期の推定にも絡んでくるので重要なのですが、頼みの綱の太田牛一『信長公記』には「八月十五日」とあるだけで、何年の8月15日であるか書かれていません。

※『信長公記』「稲葉山御取り候事」
一、八月朔日、美濃三人衆、稲葉伊予守、氏家卜全、安東伊賀守、申し合せ候て、「信長公へ御身方に参ずべく候間、人質を御請取り候へ」と、申し越し候。然る間、村井民部丞、島田所之助人質を請取りに西美濃へさし遣はされ、未だ人質も参らず候に、俄かに御人数出だされ、井口山のつゞき瑞龍寺山へ懸け上られ候。「是れは如何に。敵か味方か」と申すところに、早、町に火をかけ、即時に生(はだ)か城になされ候。其の日、以外に風吹き候。
 翌日、御普請くぱり仰せ付けられ、四方鹿垣結ひまはし、取り籠めをかせられ候。左候ところへ美濃三人衆も参り、肝をひやし、御礼申し上げられ候。信長は何事もケ様に物軽に御沙汰をなされ候なり。
一、八月十五日、色々降参候て、飛騨川のつゞきにて候間、舟にて川内長島へ、龍興退散。さて、美濃国一篇に仰せ付けられ、尾張国小真木山より、濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを、今度改めて、岐阜と名付けさせられ、
(【意訳】 某年8月1日、美濃三人衆(稲葉良通(一鉄)、安藤守就(道足)、氏家直元(卜全))が、「織田方に寝返るので、忠誠を示す人質を受け取ってくれ」と連絡してきた。織田信長は、村井貞勝と島田秀満に人質を受け取りに西美濃へ向かわせ、まだ人質が届いていないのに、突然、出陣し、井口山(稲葉山)とは峰続きの瑞竜寺山へ駆け上った。斉藤竜興が「これは敵か、味方か」と戸惑っているうちに、織田信長は城下町を焼き払い、稲葉山城を裸城(周囲に何の障害物もない城)にしてしまった。この日は殊の外、強風だった(ので、短時間で全焼した)という。
 翌日(8月14日)、織田信長は、工事分担を決め、稲葉山城の周囲に垣根を築いて包囲した。そこへ美濃三人衆が挨拶に来て、稲葉山城の城下が一変しているのを見て、肝を潰すほど驚きながらも、織田信長にお礼を言った。織田信長は、何事にも、この様に、軽々と実行に移した(行動力の持ち主だった)。
 8月15日、美濃衆が次々と降参してきた。斉藤竜興、稲葉山城の横を流れる長良川を舟で下り、伊勢国長島へと脱出した。信長が挙兵してからわずか半月の出来事であった。「美濃国一篇」(「美濃国一変」「美濃国平均」)した織田信長は、居城を小牧山城から稲葉山城へ移し、「井ノ口」を「岐阜」と改めた。)

(2)地名「岐阜」の由来


 ──織田信長が「井ノ口」を「岐阜」に変えたという。

岐阜県公式HP「岐阜の由来」
「岐阜」の地名は、稲葉山に居城を移した織田信長が、尾張の政秀寺の禅僧である沢彦宗恩(たくげんそうおん)が進言した「岐山・岐陽・岐阜」の3つのうちから選んだものといわれています。沢彦和尚は、中国の「周の文王、岐山より起り、天下を定む」という故事にならってこれらの地名を考えたといい、天下統一を目指す信長は「岐阜」の名称を選んで、稲葉山城下付近の「井口(いのくち)」を「岐阜」に改めたといいます。(「安土創業録」から)
なお、「岐阜」という地名は、信長が名づける以前から禅僧の間で使われていたとも言われ、その由来には諸説があります。
https://www.pref.gifu.lg.jp/kensei/ken-gaiyo/gifu-gaiyo/gaiyo.html
『安土創業録』
信長は、井ノ口の城、手に入けれは、沢彦和尚へ使者を以て、「爰に来り給へ」と宣ふ。澤彦、井ノ口に到る。信長、兼て小侍従と云者に宿を仰付らる。信長、沢彦に対面せられ、「井ノ口は、城の名悪し。名を易(かへ)給へ」と。沢彦老師、「『岐山』『岐陽』『岐阜』、此の内御好次第にしかるべし」と。信長曰、「諸人云『よき岐阜然るべし』と。祝語も候哉」と。澤彦曰、「『周文王起岐山定天下』語あり。此れを以て『岐阜』と名付候、無程天下を知召候はん」と。信長、感悦不斜。額の名盆に黄金を積て賜り、「此の盆は、豊後の屋形より来る秘蔵有へし」と仰せける。
『政秀寺古記』
 未だ国の御仕置も成さられず候に、澤彦へ御使者有り。「美濃の国、武略を以て手に入り候。しかるに、政秀、世にありし時、『井の口は城の名に悪く候』と云ひし事、之覚え候。来過候て、名を易(か)へて給らば、御感為すべし」の旨也。
 澤彦、時日を移さず、越境そろて、対面せしに、信長卿曰く、「『井の口と云ふ名、悪く候』と政秀が語りをき候事、思ひ食し出し、貴僧を呼び越し候」との儀也。兼て沢彦の宿所は、小侍従と云ふ者に仰せ付けられけり。「『岐山』『岐陽』『岐阜』など三つの内、御好み次第」と言上なり。
 信長卿、曰くは、「諸人等云。『よき名は、ただ『岐阜』なり』」と仰せられ候て、「祝語も候はば、聞かせられたく」との使者あり。
 澤彦登城候へば、信長卿曰は、「ひとたび天下を望み候に能き名にて候か」と仰せ候と也。澤彦曰く、「『文王起岐山定天下』の古語あり。此の語を以て『岐阜』と名付候へば、天下もほどなく御手に入り候はん」と言上候へば、御感、斜めならず、御褒美として、額の名盆に黄金十枚積まれ、下し給ふ。澤彦頂戴せられ候。
 信長卿曰ふは、「黄金は世間に多く有るべし。盆は豊後の屋形進上、秘蔵有るべし」と御挨拶と也。

『安土創業録』『政秀寺古記』の要旨は、
①織田信長の守役・平手政秀は、生前、「井ノ口」という名が良くないと言っていた。(『政秀寺古記』)
②織田信長は改名を軍師・沢彦和尚に相談した。(『安土創業録』『政秀寺古記』)
③沢彦和尚は、「岐山」「岐陽」「岐阜」のどれもが良い名だという。(『安土創業録』『政秀寺古記』)
④織田信長が諸士の意見を聞くと、満場一致で「岐阜(ぎふ)」だった。(『安土創業録』『政秀寺古記』)
⑤織田信長が由来を聞くと、沢彦和尚は、「(周の)文王、岐山より起こり、天下を定む」という故事があるので、「岐阜」にすれば、天下が取れるであろうとリップサービスした。(『安土創業録』『政秀寺古記』)
⑥喜んだ織田信長は、お礼にと、名盆に金10枚を乗せて渡した。(『安土創業録』『政秀寺古記』 ※このお盆は現存し、政秀寺(愛知県名古屋市中区栄三丁目)が保管しています。)
です。

 徳川家康が、引馬城を奪取し、「引馬」では(戦に負けて馬に乗って逃げ帰るようで)縁起が悪いので、「浜松」に変えたという話が思い出されます。後に、徳川家康が「浜松」という名を考えたのではなく、「引馬」は荘園「浜松荘」内の宿場町の名で、荘園名をとったことが分かりました。

 岐阜県公式HPに「「岐阜」という地名は、信長が名づける以前から禅僧の間で使われていたとも言われ、その由来には諸説があります」とあるように、「岐阜」は、沢彦和尚や織田信長が考えた名ではなく、以前からあった「井ノ口」の別名だといいます。禅僧(沢彦和尚は臨済禅)が「岐阜陽」と呼んでいたとか、「岐阜」は「岐府」で「土岐氏の府(本拠地)」の意だとか。
 また、「地名の変更」の理由は、「平手政秀が『井ノ口』という地名を嫌っていたから」だとされていますが、領主が変わったことを広く知らせる目的で行ったのでしょう。

※『明智軍記』には、通説や定説と異なること(今回で言えば「お市の輿入れは美濃攻めのため」「稲葉山城の戦いは永禄8年で、美濃国平定は永禄9年」)が書かれています。『明智軍記』は、通説や定説を知らない人にとっては間違った知識を植え付けられる「悪書」でしょうが、通説や定説を知っている人にとっては、「通説や定説は本当に史実なのだろうか?」と見直すきっかけを与えてくれるという意味で、「啓蒙書」だと思います。

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