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鍵を握るのは、丹後一宮・籠神社だ!

伊勢神宮のご祭神は、内宮も外宮も女神だという。
ということは、その正体は、
・内宮:卑弥呼 外宮:台与(豊)
・内宮:倭姫命 外宮:豊鍬入姫命
などが考えられるが、伊勢神宮は古い神社ではなく、天武&持統期に建てられた神社で、天照大神=高天原廣野姫天皇(持統天皇)だともいう。
 『日本書紀』に垂仁天皇25年3月(3世紀末?)の条に、「倭姫命、菟田(うだ)の篠幡(ささはた)に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る」(内宮起源説話)があり、外宮については、なぜか『日本書紀』に記載がないが、『止由気神宮儀式帳(とゆけじんぐうぎしきちょう)』に、雄略天皇22年7月(5世紀後半の478年)、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神・豊受大神を近くに呼び寄せなさい」と天照大神のお告げがあったので、丹波国(後に丹後国)の比沼真奈井原(まないはら)の豊受大神(天照大神の御饌都神)を伊勢国の山田原へ遷座したことが起源だとある。ポイントは「内宮の数百年後に外宮が建てられた」ということである。
 「内宮の後に外宮が建てられた」を「内宮の天照大神は昔からの神で、外宮の豊受大神は新しく迎えられた神」と考えがちだが、そうではないらしい。どうも、内宮には伊勢国の太陽神・猿田彦命が坐し、持統天皇が猿田彦命を追い出して、天照大神(持統天皇)を祀り、追い出した猿田彦命のために外宮を建てたのだという。そのため、内宮の正殿の建築様式が女神を祀るタイプであるのに対し、外宮の正殿の建築様式が男神を祀るタイプになっているという。
 『明智軍記』では、「内宮のご祭神は天照大神で、外宮のご祭神は丹波国真井原(まないのはら)で豊受大神と号していた国常立尊」とする。これは、丹後一宮・籠神社の奥宮・眞名井神社の社伝によると思われる。
 また、中世の伊勢神道では、豊受大神を天之御中主神と同一視し、「始源神」と位置づけている。
 どうやら伊勢神宮のご祭神の正体を解く鍵は、奈具神社(京都府宮津市由良宮ノ上)、そして、丹後一宮・籠神社(京都府宮津市大垣)の奥宮・眞名井神社(京都府宮津市中野)にありそうである。

1.豊受大神を天女とする『丹後国風土記』


 『丹後風土記』「比治真奈井 奈具社」(715年)の「羽衣伝説」では、豊受大神を天女とする。
 丹後国の比治の里の比治山(磯砂山(いさなごさん))の頂上に「真奈井(まない)」という女池があった。(今は沼になっている。)この池に8人の天女が舞い降りて水浴びをしていると、和奈佐(わなさ)という老夫が1人の天女の衣を隠し、天に帰れなくなった天女を連れて帰った。天女は、1杯飲めば万病に効く酒を作り、和奈佐の家は栄えていった。しかし、和奈佐は、「お前はやはり我が娘ではない」と家から追い出した。天女は泣く泣く荒塩村、哭木(なきき)村を経て、竹野郡の船木の里に至り、「わが心なぐしくなりぬ」と言ったので村名となった奈具村に安住の居を構えた。この天女こそ豊宇賀能売命(とようがのめのみこと)、別名・豊受大神(とようけのおおみかみ)で、奈具村の奈具神社と比沼麻奈為神社(ひぬまないのかみやしろ)に祀られている。その後、伊勢神宮の外宮に移し祀られる事になったが、ご分霊は残されている。また、奈具神社の前の広大な奈具遺跡には、日本最大規模の水晶玉生産工房があった。

※『丹後風土記』「比治真奈井 奈具社」(715年)
 丹後の国。 丹波の郡。 郡家の西北の隅の方に比治の里あり。この里の比治の山の頂に井あり。その名を麻奈井と云ふ。今は既に沼と成れり。
 この井に天つ女八人降り来て浴水む。時に老夫あり。その名を和奈佐と曰ふ。この老夫、この井に至り、窃(ひそ)かに天つ女一人の衣と裳を取蔵しつ。即ち衣と裳あるは皆天に飛び上がり、ただ衣も裳もなき女娘一人留まりぬ。身を水に隠して独懐愧ぢ居り。 ここに老夫、天つ女に謂りて曰はく「吾に児なし、請はくは天つ女娘、 汝、児とならむや」といふ。天つ女、答へて曰はく「妾独人間に留まりぬ。何か従はずあらむ。請はくは衣と裳を許したまへ」といふ。老夫、曰はく「天つ女娘、何にそ欺く心を存てる」といふ。天つ女、云はく「それ、天つ人の志は信を以ちてもととせり。何そ疑ひの心多くして衣と裳を許さざる」といふ。老夫、答へて曰はく「疑多く信なきは率土の常なり。 故、この心を以ちて許さずあり」といひ遂に許せり。即ち相副ひて宅に往き、即ち相住むこと十余歳になりき。
 ここに天つ女、善く酒を醸せり。一坏飲めば吉く万の病除かる。その一坏の直の財、車に積みて送れり。時にその家豊かにして土形も富みき。 故、土形の里と云ふ。これ中間より今時に至るまで便ち比治の里と云へり。
 後に老夫婦ら、天つ女に謂りて曰はく「汝は吾が児に非ず、暫く借りて住めり。宜早く出で去きね」といふ。ここに天つ女、天を仰ぎて哭慟き、 地に俯して哀吟き、即ち老夫らに謂りて曰はく「妾は私意を以ちて来れるには非らじ。こは老夫らが願へるなり。何にそ厭悪の心を発し忽に出去之痛あらむ」といふ。老夫、増発瞋りて去くことを願ふ。天つ女、涙を流し、微門の外に退きぬ。郷人に謂りて曰はく、「久しく人間に 沈みしに天にえ還らず。
また親もなき故、由る所知らず。吾や何哉、何哉」といふ。涙を拭ひて嗟歎き、天を仰ぎて歌ひて曰ふ、
  天の原振り放け見れば霞立ち
        家路惑ひて行方知らずも
遂に退り去きて荒塩の村に至りぬ。即ち村人らに謂りて云はく「老夫老婦の意を思ふに、我が心は荒塩に異なることなし」といふ。仍ち比治の里なる荒塩の村と云ふ。また丹波の里なる哭木の村に至り、槻の木に拠りて哭きき。故、哭木の村と云ふ。
 また竹野の郡船木の里なる奈具の村に至りぬ。即ち村人らに謂りて云はく「此処に我が心なぐしく成りぬ」(古事に、平けく善きことを奈具志と曰ふ)といふ。乃ちこの村に留まりつ。こは謂ゆる竹野の郡の奈具の社に坐す豊宇加能売の命そ。

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