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信じるということ

天台宗、真言宗、仏心宗、浄土宗、浄土真宗、法華宗、華厳宗、法相宗…。

日本の伝統仏教の宗派を思いつくだけで数えてみても、10をゆうに超える。2500年前に1人の仏陀、お釈迦様、釈尊、釈迦如来から始まった仏教はなぜこれだけ分かれていったのか。

宗派の違いというのは、自分自身の救われ方の違いである。

そして、(しっかり話を進めると誤解も生まれるが、たいへん分かりやすいように言うと、)浄土真宗の救われ方はトン・トン・トンと三拍子である

最初のトンは「仏さまを信じる」。
次のトンは「念仏を称える」
最後のトンは「仏さまにお助けされる」

たったのこれだけである。トン・トン・トンと救われる。

頭を丸めて出家して修行をする必要はない。山に籠らなくても良い。肉を食っても酒を飲んでも良い。極論を言えば、寺参りをする必要すら無い。仏さまを信じて念仏を称えるだけ、なんだ簡単じゃないかとすぐには思う。

しかし、簡単な道というのが実のところは最も難しい。

一つめのトン、「仏さまを信じる」、これがなかなか曲者である。

通常、私たちは「神仏を信じる」ということについて大きな勘違いをしている。
「〇〇はいるんだ。間違いないんだ。」こう思うことが「信じる」であると、そう考えて疑わない。自分でそう思おうとしているなら「思い込み」、他人に強要されているなら「洗脳」だ。こういう信じ方は新興宗教のするものだ。

浄土真宗の開祖・親鸞聖人は「疑心あることなし」と言った。

「信じる」ということは「疑心あることなし」。疑心というのは疑いの心。疑いの心が無いことが「信じる」であると。

思い込むと言ったときのように、積極的に自分の心を神仏に向けていく、言い方をかえれば、自分の心をもってして神仏をつかみにいくようなものは真の「信じる」の在り方でなはい。
消極的に、自分の疑いの心というものがすべて消えてしまった状態、それが真の「信じる」であるというのだ。

この境地に到達するまでが大変な道であることは想像に難くない。積極的な働きかけによっては「信じる」ことはできないのであるから、自分では何もしようが無いのである。

「猫の子のように助けられ、猿の子のようには助かるな」とはまさにその通りだと思う。

親猫に運ばれる子猫は、一切の力を発揮しない。首根っこを咥えられ、運ばれるままに運ばれる。私も中学1年生のときに、自宅で産まれた子猫が親に運ばれる様を見たことがある。2階へ向かう階段を、後ろ足が階段の角に当たりながら、ガンガンガンと音がしていながらも、運ばれるままにされていた。これは親への一切の信頼である。

対して子猿は、親に必死にしがみつく。動物園なんかで見ていても、親をつかまない子猿はいない。ある意味では必ず自分を落とすと信頼しているとも言えるが、通常、これは疑いである。親猿は、縦横無尽に動き回る。つかまないと落とされるから、必死につかむ。これは疑いがある姿だ。

浄土真宗の門徒の助かる姿勢は猫の子のようである。

自分の力の一切の無効であることを知って、そのままに助けられる。これを「猫の子のように助けられる」と言う。自分の手でつかめるものは、つかめたようで、いずれ手を離れていく。お金だって、健康だって、家族だって、つかんだと思っても、いつかは必ず離れていく。この手でつかめるものの中には、永遠に持続するもの、安心して自分を任せていけるものはない。だから、私たちは、こちらからはつかまず、こちらに向かってきたものに身を委ねるしかない。

つまり、消極的に「信じる」ことが真の「信じる」であり、これは親鸞聖人が「疑心あることなし」と言ったように、どこまでも受動的である。自分の心の在り方をどうこうしようとしたところで、どうしようもない。疑いの心が無くなったこと、「私は仏さまのことは詳しくないし何も分かりません。ただ、私を助けると言ってくれていることがただ嬉しい、ありがたい。あなたに任せていくだけです。」と、猫の子のように「信じる」ことが出来たときに、最初のトンが解決するのである。

救われるということは、一見簡単そうに思えて、実に難しい道である。文字を読んで話を聞いて学ぶだけでいてはこうはならない。生活の中で、日々の中で、何かを感じた瞬間を大切にして、毎日を生きていく中で花開いていくのが浄土真宗である。日々の生活の中にこそ、大切なものがある。

宗教と言ったって概念では無い。虹が出ていて綺麗だ、朝晩が涼しくなってきた、懐かしい人とたまたま会った、そんな生活の実感の中にあるのが宗教なのである。日々の外には救いはない。






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