正信偈講座1 「帰命無量寿如来 南無不可思議光」
正信偈1 2023年9月28日
「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」「南無阿弥陀仏」、この3つはどれも同じ意味です。
お経はインドから中東・中国・韓国を通じて日本に伝わりました。ですので、元々を考えると、漢字で書いてあったわけではありません。昔のインドの言葉(サンスクリッド語)で書かれたお経が最初にあります。
その中で、「namo(ナーモ)」という言葉は、「自分自身を誰かに任せていく」という意味です。これを音のままに訳したのが「南無(なも)」、意味から訳したのが「帰命(きみょう)」です。つまり、訳し方が違っただけで、「南無」と「帰命」は同じ意味であります。
「無量寿如来」「不可思議光」「阿弥陀仏」は、すべて、同じ仏さまの名前です。私たちも、状況によっていろいろな名前を持ちます。名前はひとつじゃないんですね。たとえば、「佐藤さん」と呼ばれたり、「パパ」と呼ばれたり、「お坊さん」と呼ばれたりします。仏さまも、名前を呼ぶ人、名前を呼ぶ所、そのときに応じた名前があるわけです。
・「無量寿」というのは「量(はか)ることのできないくらい長いいのち」という名前です。私たちが頭で考えて、どれだけ長いかも分からない程の長いいのちを持っているのが仏さまです。「長いってどれくらいかな?1000年かな?1万年かな?1億年かな?」と脳みその限界まで考えたところ、そこよりもずっと長い永遠のいのちです。終わりのあるいのちを「命」、終わりのないいのちを「寿」と書きます。仏さまは私たちに自分のいのちを惜しみなくそのまま与えますから、私たちも「無量寿」を貰っています。あなたはもう、死んで終わるいのちじゃないんですね。
・「不可思議光」とは「考えることのできないくらい大きい光」という名前です。いのちと同じく、仏さまの光は、私たちが頭で考えてもまったく及ばない程、大きい光です。大きい光というのは、たとえば太陽もそうですが、私たちのところに必ず届いています。受け取ろうとか受け取らないとか思う前に、既にこの自分のところに届いている、どこにいても私は仏さまの光の中にいる、そういう意味の名前です。
・「阿弥陀仏」というのは、「amita(アミター)」と「buddha(ブッダ)」を音のまま、そのまま漢字に訳した名前です。「namo(ナーモ)」が「南無(なも)」に訳されたのと同じです。この訳し方を専門用語で「音写」と言います。なじみの深いところでいうと、「bag」を「バッグ」と呼ぶのと同じです。「ナモアミダブツ」と言うときには、お釈迦様と同じ発音をしてるってことですね。2500年のときを越えて、今ここまで繋がってきた音です。
つまり、「帰命無量寿如来」「南無不可思議光」「南無阿弥陀仏」と、どれを言ったときでも、「私を阿弥陀の仏さまに任せていきます」という言葉になります。正信偈の最初の二行こそが、親鸞聖人のいのちの大表明であるわけですね。大きな光で私を包み、終わらないいのちを与えたくれた仏さまへ、親しみを込めて、「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と正信偈が始まります。「帰命」「南無」の主語はあなたです。