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読んだ本に導かれてひとり旅〜今思うこと

皆さんには、長年、気になっていた場所や風景はありませんか?

私は、若いころ読んだ本で衝撃を受けたアウシュビッツ収容所が心に残っていました。一人で海外を旅してみたいと思っていたこともあり、ロンドンに語学留学中、英語もほとんど話せない中、思い切って現地に行ってみました。そして後日、アンネ・フランクの隠れ家も訪れました。

気になっていた場所に行った後は、なぜか肩の荷が下りたような気持ちになり、大げさに言うと人生の総決算ができたように感じました。

国内でも海外でも気になる場所がある方、特にシニアにこの旅の記録が参考になれば嬉しいです。

1 アウシュビッツ収容所を訪ねて

ヴィクトール・E・フランクル著「夜と霧」1978年改版12刷

20代半ば、職場の先輩から心理学者ヴィクトール・E・フランクル著「夜と霧」の本をもらって読みました。第二次世界大戦中にアウシュビッツ収容所でおきた大虐殺や生身の体を実験台にするなど悲惨な状況が写真とともに書かれていました。著者もユダヤ人で、収容されていた一人でした。
自分が生まれるほんの7,8年前のできごとだったのも衝撃で、定年後もどこか心の片すみに残っていました。

3年前の年末、小雪の舞う日でしたが、日本の大学を卒業したポーランド人の若いガイドさんの案内で、敷地内に足を踏み入れました。

モノクロ写真で見ていた大量のメガネや義足、靴やカバン、長い頭髪などが、仕分けられたガラス部屋の向こうにまさに山ほど積んでありました。実際にここで生きていた人の体の一部であり身につけていたものです。

人を殺すガス室に入って構造を聞いたり、死体の焼却炉、見せしめのために仲間の前で銃殺した血の跡がついた壁なども見ました。張りめぐらされた有刺鉄線に囲まれて、ただ従うしかなかった収容者たちの心の痛みや絶望がどれほどだったかと察するに余りあるものでした。

その後、少し離れたところにあるビルケナウ収容所も見学しました。目に飛び込んできたのはぎゅうぎゅう詰めにされたユダヤ人を運ぶ貨物が通るレールでした。雪が白く積もったレールの先には、死の門と言われるレンガの建物が見えましたが、ここをくぐった者は100%生きて帰れなかったという恐ろしいところです。門の先には、簡素な造りの収容施設があり、やせ細った収容者が折り重なって横たわる姿が目に浮かびました。仲間を埋葬するために掘らされた、長くて深い穴などを見るにつけ、寒い日の見学でもあり震えあがり言葉も出ませんでした。

実は、アウシュビッツを訪ねる前日、ワルシャワ発の列車の中で、40代くらいの男性と同室になりました。二人きりだったので思い切って「私は日本人で、英語の勉強している学生です。明日はアウシュビッツに行く予定です」と話しかけました。男性もワルシャワに単身赴任中で、週末なのでアウシュビッツ方面にある自宅に帰るところだ、と言い、広島に落ちた原子爆弾のことや被害状況もよく知っておられました。祖父母をはじめ戦争体験者は、収容所がある場所にはいっさい近づかず、話もしたくないと心を閉ざしていたとも話されました。後年まで引きずる悲劇、平和への希望を確認し合いました。

日本に帰国後、妹もこの件を全く知らないことがわかりました。二人で本を読んだり、映画を観たりして、当時のヨーロッパの情勢やホロコーストが起きた背景、今なお続く賠償責任や収容所から無事に帰れた人たちの心の傷なども勉強しました。そして、このような排除思想による大量の虐殺は、それ以降もヨーロッパで起きているし、少数単位でも起こり得ることだと改めて思いまた。

2 アンネ・フランクハウスを見学して

アンネ・フランク著「アンネの日記」1972年新訳146版

2回目の旅行は、オランダの首都アムステルダムにあるアンネの隠れ家です。今は博物館となっていて、入場予約もかなり先まで埋まってしまう人気の場所です。

アンネ・フランクのことは、19歳の誕生祝いとして「アンネの日記」を友人がプレゼントしてくれたことで知りました。13,4歳のアンネがナチスの迫害から逃れるために、不安で不自由な隠れ家生活の様子を、日記に書いたものです。
彼女は日記に「キティ」という名前をつけていました。自分も「○○様」(名前は忘れた。)と架空の名前をつけて日記を書いていた覚えがあります。

アンネの家の建物はアムステルダムに特徴的な、奥に細長い構造なのでにぎやかな川沿いの表通りから見ただけでは、隠れ家の存在はわかりにくかったようです。また父親の経営する会社の倉庫や事務所が前面道路に面しており、隠れ家は裏の建物の3階と4階を使用していました。
隠れ家にはアンネの家族と知人夫婦ら8人のユダヤ人が住んでいました。
私たち観光客も3階の隠しトビラの本箱を開けて、部屋に入りました。
人数分のベッドは置けたようで、キッチンや居間、バス・トイレもありました。家具はすべて引き払われていますが、アンネが壁に貼った女優のプロマイド写真などは黄ばんだまま残っていました。歩くと階下に音が聞こえるので、社員がいる日中は息をひそめて生活していました。恐怖の隠れ家生活です。よく2年間も暮らしたなあと思う一方、正直、もう少しだけ見つからずにいたら戦争も終わったのにと悔しくもありました。
アンネは戦争や人種差別への怒りとともに未来への希望を日記に書いていましたが、残念ながらナチスに発見され、そこにいた全員が収容所に連行されました。発見された時の皆の落胆ぶりが目に浮かびます。
賢かったアンネも収容所で病死しました。何年たっても無念です。

オランダから帰国後、ロンドン市内のユダヤ人協会も訪ねましたが、みんなそれぞれの人生を生きていた人たちでした。ヨーロッパ全土のユダヤ人などが、約600万人も犠牲になっていることにも驚きです。

3 現地で空気や風を感じることの意味


自分は文学や推理小説が好きでよく読んでいましたが、体験記などはあまり手に取っていなくて、今回取り上げた本は、周りの人からいただいたものでした。

50年前の若い時期に出会った本の衝撃が大きく、ただ怖かっただけなのかもしれませんが、ユダヤ人迫害に関係する2つの場所が心に残っていました。
年齢を重ねてからその2つの場所に赴いて、自分の気持ちを寄せ、起きた事実を確認し、五感で感じました。空気や風とともに、そこに生きていた人たちに向き合い、苦痛や無念さを肌で感じ、また新たに勉強し直して、少しだけ広く知識を得ることができました。
そうすることで折り合いをつけることができたのかもしれません。肩の荷が降ろせた感じがしました。
改めて、現地に行くことの意味を体感しました。
いまは日本や世界の人々の日々の幸せと平穏無事を、毎日心から願っています。

そのような中、2023年5月G7広島サミットが開かれました。
世界で初めて原子爆弾が落とされた広島で、各国の大統領や首脳たちが原爆資料館を見学し、平和公園の慰霊碑に花を手向けました。為政者が、悲惨な戦争、核使用の現実と向き合う場所を訪れ、考える時間をもったことに意味があると思います。
現地の空気や風で感じたことを、戦争のない核のない世界の実現につなげて欲しいものです。


おわりに


定年後の女性がひとりで海外に行くのは、最初は正直緊張しました。
飛行機や列車、宿の手配、現地の情報集め、入館予約、見学ルートの確認など、準備に時間はかかりました。
でもいざ旅が始まると、カタコト英語でもみんな優しく対応してくださいました。道がわからないときも現地のことばがわからないときも、それはそれで外国の人と笑顔と感謝で接することのできるチャンスでした。新鮮でワクワクした気持ちで過ごせたひとり旅でした。

自分が行きたいところ、見たいところだけにしぼって行く旅は、ぜいたくだけど心に残る旅になると思います。
今回、負の遺産と言われる場所に行きましたが、プラスの感情が得られる場所もおすすめです。少し前に読んだ小説の中の清々しいさわやかな風景の記述が印象に残り、似た場所を探して出かけたことがあります。小説の場面を思い起こしながら、最高の時間が持てました。

長文を最後まで読んでいただきありがとうございました。


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