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2021|作文|365日のバガテル

成人おめでとう。

四万十川 その1。
欄干のないコンクリートの橋。沈下橋といって、この地方でよく見られる。深い山間地を蛇行する河川は、例年、大雨や台風の影響で、水かさが増し激流になる。その激しい流れにあがらうことなく、あえて飲み込まれてしまうことで、橋は生き延びてきた。沈むことを前提にした沈下橋。今から20数年前、20歳の夏の夜。フォードの青いセダンで、東京を出発した。目指したのは日本一の清流、高知の四万十川。何はなくても時間だけは持て余していた貧乏学生。当然、今みたいにカード決済やETCなんかなかった。財布に入っているキャッシュがすべてだった。カーナビもないから、大きくて立派な日本地図とカセットテープを用意した。カセットテープは、ドクター・ドレやハウス・オブ・ペイン、サイプレス・ヒルにビースティー・ボーイズ。あとは、プレスリーの名曲『アイ・キャント・ヘルプ・フォーリン・イン・ラブ』をカバーしたユービー・フォーティーとかエース・オブ・ベイス。『君と僕』の口笛とアコーディオンだけの楽曲が最高だった東京スカパラダイスオーケストラやマイ・リトル・ラバーの『ハロー・アゲイン』とか。当時、本当によく聴いていた曲は、今になっても忘れない。もともと、日本の高速道路は好きじゃなかった。渋滞が多いし、どこへ行くにも料金がかかる。自由になる時間だけはとびきりある若者が、ふと旅に出ようとしたって、高速料金がネックになる。本来ならば、異国のハイウェイみたいに、ガソリン代だけなんとかして、あとは時間と体力さえあれば狭い日本を縦横無尽にロードトリップできるはず。それと、もともと、地図を見て、あちこちの知らない場所を想像するのが好きだった。知らない街へと、どれだけ遠回りしていくのかを想像するのが好きだった。知らない街に行くまでに見たこともない美しい景色が広がっているのを想像するだけで楽しかった。ということで、20歳の夏の夜。薄っぺらい財布と大きな地図とカセットテープと、あとは数枚のTシャツとサングラスと水中メガネ。それとカメラ。それだけを車に乗っけた。ズボンはそもそもサーフパンツ。足元は安物のビーチサンダルだった。日本一の清流、高知の四万十川を目指した。ルートは東京からまずは甲州街道を突き進むことにした。高速道路は一度も使うことはなく、ひたすら一般道で、途中からはほとんど名もなき県道とか山道を走った。道中、彼女が地図を見てナビしてくれるつもりだったけれど、彼女はすぐに居眠りしてしまった。夜はもちろん、やわらかな朝の日差しの中でも、黄昏時のひぐらしがシャンシャンと鳴く山道でも、車の振動をゆりかごにしてよく寝ていた。都会から離れれば離れるほど道はシンプルになるから、方角さえわかっていれば問題なかった。寝息をたてるだけで静かな助手席。でも、助手席に気のおけない人がいてくれる。カセットテープから聴こえる気に入った音楽。煩わしい会話はない。アクセルとブレーキを自分の気分に合わせて踏みながら、孤独じゃないけど、自分だけのリズムで車を走らせる。そういうのが好きだった。だから、彼女をわざわざ起こすことはしなかった。そのまま死んでしまったら嫌だけれど、そのまま寝てくれていてもかまわなかった。甲州街道で山梨を抜けた後は、乗鞍岳を越えて、日本海側へ向かった。乗鞍岳は、その数年後にマイカー規制されたから、今は同じルートを辿れないだろう。東京から四万十川を目指すなら、甲州街道ではなくて国道1号線の方が近い。しかし、夏の乗鞍岳を越えて、トトロの森のような深い緑の中を走ってみたかった。そして、日本海側に降りて、福井に暮らす友だちに会いたかった。そこから日本海側から西へ向かって、日の出前の薄紫色な天橋立を眺めた。鳥取砂丘で思いきり日焼けした。遠回りにさらに遠回りをした。それから、地図をたたんで山道をくねくね走った。途中、車を止めて、セミのオーケストラがすさまじい大木たちを写真に撮った。吸いはじめたばかりのタバコはマルボロだった。誰ともすれ違わない森の中の小道に車を止めて、タバコをふかす。映画の中にいるみたいだった。映画以上に自分が人生の名場面のど真ん中にいるような気分に浸れた。にわか雨が降った。カミナリがセミを黙らした。今ならゲリラ豪雨というのかどうか。みるみる晴れ渡って、また写真を撮って進んでいくと、海が見えた。それが日本海なのか太平洋なのか瀬戸内海なのか、わからない。小さな無人の駅があった。旅の途中、そんな駅に出くわすのが好きだった。知らない田舎の小さな駅から、東京を目指した人がいるだろう。ここから世界へ旅立った人がいるだろう。また帰ってこいよと言われてそのままの人がいるだろう。道が繋がっているように、駅もまたいろいろなところと繋がっている。そういう駅で、一瞬だけかもしれないが、自分自身がその当事者になっている。それを実感できた。この20歳の夏の旅は、四万十川にたどり着くまでに5日間かかった。鳥取から岡山へ。岡山の倉敷から四国の香川へ渡るときにだけ、どうしても瀬戸大橋で高速料金を払わなくてはいけなかった。前日の夜中に瀬戸大橋のすぐ近くの大きな本屋の駐車場に着いた。そこで車中泊。どうせなら、夏らしい朝の光を浴びて橋を渡っていきたかった。四国に入ってからは、香川から徳島の鳴門、吉野川を源流から河口へ。桂浜から足摺岬。そして四万十川は河口から源流へと上って行った。四万十川は、何回か上流と下流を行ったり来たりして、どのスポットが良いか吟味した。今だったら、SNSでヒットさせて、絶好のポイントをすぐに見つけることができるだろう。山間に浮かぶようにして佇む沈下橋。そして、そこから飛び込んで遊べる水深と透明度。沈下橋から順番に飛び込んでいく地元の子どもたち。一瞬、空を舞うようにして、そのあとは重力任せで大きな石を投げ入れたみたいに水しぶきをあげる。東京で、ヒマを持て余しているときに、何度も想像したシーン。そんなスポットを探した。ベストだと思ったところは水量がたっぷりだった。両岸に行き渡った川の水は、深さにばらつきがないようだった。流れはゆったりしているように見えた。のんびりした大きな流れるプールのようだった。沈下橋から覗くと、川底が透き通って見えた。山間にこだまするセミの大合唱。強い太陽。青空と白い雲。目に映るすべてが、四万十川の流れと同じようにゆったりのんびりと動いている。ガソリンや電力を必要とする動力じゃないものばかり。だからこそ、たっぷりした夏の独創的なテンポがあった。川から少し離れたところで車中泊をして、数日、四万十川で遊んだ。20歳の夏が終わるまで、このままここにいてもよい気がした。彼女も19歳で若かったから、高級旅館やリゾートホテルじゃなきゃ嫌だと言わなかった。もともと、そういうことにこだわる人じゃなかったと思う。どこかに行ったら、自分のどこかにそれを記憶する。頭とか体とかまぶたの裏とか心とか。それが旅だった。そして、東京へ帰った。帰りは、高知から愛媛を回った。宇和島で鯛茶漬け。道後温泉。それから、京都と大阪。名古屋と静岡、中田島砂丘と寄り道した。国道1号線から246で東京へ。帰り道は3日間だった。旅の途中、福井で再会した友だちは、「勤めている銀行をやめて、いつかはパン屋をやりたい」と言っていた。今は、毎朝、窯から焼きたてのパンを取り出している。地元で人気のパン屋のオーナーだ。20歳の夏に目指した四万十川。夏の真っ只中にいた自分。そのあと、単位を落としまくって留年する。卒業できると親に嘘をつき通した自らのバカさ加減に対して、くらくらと目眩を起こす。彼女のおかげでボーダーコリーやカーディガンコーギーが好きになって、動物園とかドッグランドへよく行くようになった。数年後、サヨナラするとき、それまでの人生では1番長い作文を書いた。20歳の夏の旅の紀行文。運転する隣でよく寝ていたこととそのとき通り過ぎた美しい景色のことを、ただひたすら書いた。

四万十川 その2。
40歳の夏の朝。新幹線で新神戸駅へ向かった。駅のロータリーには、レンタカーをピックした後輩が待っていてくれた。明石海峡大橋から淡路島を経由。徳島から四国に入った。それまでに、瀬戸大橋と尾道のしまなみ海道から四国入りしたことはあった。神戸からのルートは初めてだった。旅をするときは、初めての道、初めての景色がいい。ブルートゥースで飛ばすのは、北野映画のサントラを担当する久石譲とか坂本龍一のピアノの旋律。トム・ウェイツやルー・リード、ノラ・ジョーンズといったロードムービーな楽曲。ジャック・ジョンソンとかアンソニーB、スペシャルズとかロック・ステディのダブな感じに、山下達郎の『蒼氓』とか木村弓の『いつも何度でも』、それに後輩の仲間が自主制作したアルバム『ゆうやけムービー』。これがまた名曲揃いで、この旅でどうしても聴きたかった、聴かせたかった。沿道の生い茂る濃い緑の草木たち。照りつける太陽。広い駐車場に1台も車が停まっていない桂浜。夕方、予約しておいた高知のホテルにチェックインした。よさこいまつりを翌日に控えた街は、やけに静かだった。嵐の前の静けさっていうのを実感した。明日は大爆発。猛烈だぜっていうのを、街全体で確信している温存だった。夏の夜気がそよ風で揺れている。メイン会場の大通りの観覧席。誰もいない。ただ、ゴミだか葉っぱだかが、風に舞っている。姿は見えないのに、どこからか聞こえてくる宴の声。湿り気を含んでにじんだ星空。明日からの本番に備えて早く店じまいしたい亭主。あわてて、屋台に滑り込む。自分たちが踊るわけではないのに、なぜかざわついてくる。気持ちが浮き足立ってきて、スープの味が濃いのか薄いのかわからなかった。修学旅行や合宿の夜を思い出した。目の前にいる息子は、これから、修学旅行や合宿の夜を体験していく。自分はというと、それはもはや過去のものでしかなかった。こういうときに、少しずつ人生のバトンタッチをしているのだと実感する。街が人でごった返す前、日の出を待たずに、自分たちは出発した。緑はどんどん増えて、どんどん濃くなっていく。途中で見かけるヒマワリは、まっすぐに空に向かって背を伸ばしていた。ヒマワリの黄色は、入道雲の真っ白と同じくらい夏の強さを象徴している。ローカル電車とヒマワリを写真に撮ろうと車を止めた。後輩は待ってましたとばかりにタバコに火をつけた。20年前の夏の自分を見ているようだった。20歳のあの夏、40歳になったらタバコをやめると決めていたのを覚えている。最初の1本目を吸うときに決めた。アルコールはそれより早い30歳のときにやめた。後輩がいつやめるのか、やめないのか。それは知らない。目の前の小学生の息子がいつかタバコを吸うのか、酒を嗜好するのか。それも本人が選んで、決めていくことになる。そのための知識や経験や意見は、伝えるつもりだ。実際に、このあと、今日に至るまで、息子とはたくさんとそういう話をしてきた。ただ、最終的に決断し、選択するのは、彼自身でしかないし、そうであるべきだ。そんなことまで親に決められてしまうようなら、親がいない場面や生活の中で、誰かに流されたり、間違ったことでも従ってしまったりすることが増えてしまう。人生は誰かのせいでどうにかなってしまうことが多い。ままならずだ。しかし、それでも自分で選択することをあきらめてはもったいない。選択の連続に、疲れていたらもったいない。「四万十川はもうすぐだ」。息子にささやいた。自分にとっては2度目の、息子と後輩にとっては初めての四万十川。環境保全がなかなか難しい昨今。年々、侵食されている鳥取砂丘と同じく危惧される山河の清らかさ。まだ残されているはずの清流の原風景。自分はそれを確認するために、息子はそれを見て感じて知っておくために、四万十川を目指した。20年前のベスト・スポットはどこだったか。年月を経て、川の流れはゆっくりと変化する。水量だって違う。ただ、沈下橋はそのままだった。そして、下を覗けば川底が透き通っていた。強烈な夏の太陽光線を背に浴びて立つ。小学生だった息子が、地元っ子のように沈下橋から深い四万十川へ飛び込んだかどうか。それは、そこにいた者が覚えていればいい。ひとしきり川で遊んだ後、さらに上流へ遡っていった。予約してあったバンガローにチェックイン。ここはバーベキュー設備が整っていて、アウトドアな夏を堪能できる。レンタカーだけでなく、ホテルもバンガローもネットでぱっと予約ができてしまう。なんならカード決済でちょちょいのちょいだ。財布には1万円とちょっとしか入っていなくても、はるばるこうして清流の原風景へと旅して来れる。漫画ピンポンのペコのセリフじゃないけれど、「臆せば死ぬぜ」ってことで、旅をしない理由がない。時間と、元気と、気持ちがあれば、旅に出るべきだ。そして、それは今こそ、もっともっと実感する。新型コロナウイルスの影響で、時間があって元気と情熱とさらに予算があったとしても、旅に出ることができなくなってしまったからだ。臆せずに、なにはともあれ、四万十川を目指す旅をしてよかった。そして、その四万十川の原風景の記憶をバトンタッチするために息子とまた旅をしてよかった。つくづく思う。ちなみに、バーベキューとかアウトドアっていうのは、スケボーやサーフィンがうまいとか、バスケやサッカーがうまいというのと同じで、センスというのがある。向き不向きと言ってもいい。自分は、火をつけることから、テントを組み立てること、コンパクトなセットでコーヒーを沸かすことなど、アウトドアのほとんどにおいてセンスがない。だけれども、息子にそういう体験を共有させてあげたかった。ということで、後輩の存在が大きかった。彼は、こちらと真逆でアウトドアが大得意。四万十川のほとりのバーベキューや虫採りは、後輩が立派にやってくれた。頼れるパパだった。後輩と息子は、これによって素晴らしい連帯感を持ち、沈下橋から飛び込めなかった後輩を見る冷ややかな息子の目の色が変化していったのは間違いない。
「ねえ、お父さんはなんで火をつけられないの?」「それはね、アウトドアなことが苦手だからだよ。その代わりに、お父さんは他のことを得意にして、たとえば、みんなの旅のスケジュールや予算管理をガシガシやれるんだよ」「ふーん、そうなんだ。なんか変なの」「まあね。でも君もいつか、自分が得意とか、これは良いとかっていうのに気づくと思うよ。今はいろいろやるべきだね」「先輩、バーベキューくらい誰でもやれないと。できないことが多すぎですよ」
そんな会話をしながら、後輩と息子がつくってくれた焼きそばや焼肉をたらふく食べた。息子の前で、なんでもできる父でいようとする気がまったくない自分に、後輩は少し心配そうだった。しかし、これでいいと思っている。そのかわりに、できることは目一杯してやると決めている。ずっと前から、そしてその時も、今もこれからも。夜が明けて、神戸を目指す。レンタカーをそこで返却し、東京へと戻る。途中、息子を彼の家に無事に送りとどける。そのリミットは決められている。高知から香川に回って、讃岐うどんの名店に寄った。3人とも2人前を平らげてしまった。それから、金毘羅山に参拝することにした。ここは長い急な階段で知られる。かなり初期段階で後輩がリタイア。「俺、ここで待ってます。水入らず、行ってきてください」。一瞬、気を使ってくれたかと思ったが、そそくさとタバコに火をつけて、舌をぺろっと出した顔を見て、本当に膝がアウトなんだなと理解した。途中から、息子も根をあげはじめたが、励まし、なだめ、頂上まで行った。息子は、母親や祖母へお土産を買った。旅先で、出発のときに見送ってくれた人を思い出す。そんなことあったかどうか。自分が小さい頃、さてどうだったか。いまいち判然としなかった。だんだんと日が傾きはじめ、影がのびる田園風景を走った。久石譲の『サマー』を聴いた。それを聴きながら、後輩が言った。「映画『菊次郎の夏』だったら、俺はグレート義太夫ですね」。だから言ってやった。「義太夫と、さらに井手らっきょの分もやってくれたな」って。息子からしたら、なんのことやらって感じだった。だけど、今にわかると言っておいた。瀬戸大橋から本州に渡ると、大渋滞だった。神戸になんとか着いたときには、終電が出てしまった後だった。電話の向こうではカミナリ。というか、心配でたまらないのだ。その気持ちはもちろんだった。約束を守らなければ次がない。何かあってからでは困るのだ。もう一度、乗り捨てできるレンタカーを借りるか。どうするか。そんなときに、ブルートレイン(寝台特急)があるのを思い出した。予定外の出費ではあるけれど、停滞することなく帰らなければいけない。そして、ブルートレインは、もしかしたらこの先どんどん廃線になってしまうかもしれない。そんなノスタルジアな列車に息子と乗って旅の続きをするのは面白い。ルーフカバーを開けて、横になって夜空を見ながら話した。あたりは一面真っ暗だから、どこを通過しているかわからない。たまにコンビナートの明かりが見えたりした。息子が寝つくまで、起きていようと思ったら、息子もまだ話を続けたいようだった。「子どもは早く寝なさい」と言うべきだとわかっていたけれど、子どもじゃなくても夜は目を閉じて寝るのがいいに決まっている。いきものは、太陽とともに生活するべきなのだ。そんなことを考えながら、会話を続けた。ゴトンゴトン。ガタンゴトン。深夜になったから、アナウンスはない。ブルートレインが夏夜を進む音だけだ。

四万十川 その3。
暗い客室。久しぶりの2人きりの会話。ゆっくりゆっくりと話した。息子は成長していた。変わった部分と変わらない部分が混じった息子は、でも確実に成長していた。欲がないところとか、争いを好まないところとか、なにより、我慢強いところは、息子の本質なのだろう。これまで、そんな息子にだいぶ甘えていたと気づかされた。実は、とっくに気づいていたけれど、あえて、それを意識しないようにしていた。それは、自分自身が弱いから。自分より生きてきた経験が圧倒的に少ない息子を相手にして、自分は弱くて甘えてきた。息子にとっては、そんなでも、唯一の父なのだ。こちらをしっかりと見ているのだ。息子が聞いた。「なんか、僕、変わった?」「成長したかなって思うよ。言いたいことをはっきりと、自分で考えて話すようになったし、男だなっていうところも増えたね」と答えた。その質問は、息子がこれから話したいことのきっかけだったと思う。その理由はわかっていた。父と息子、そして母親とのことを、息子なりにずっと感じてきて、伝えたいことがあるんだと思った。息子は、ずっと前から直感的に知っていた。どうして、家族3人が同じ屋根の下で寝ることがなくなってしまったのか。やっと会えても仕事と言ってすぐに東京に戻ってしまうのか。遊んでも家の前でバイバイして、そのまま家に一緒に上がらないのか。よく覚えている。息子が幼稚園児だった頃、彼は、わざわざ父と母親の間に入って、3人の手を一直線に繋げた。そして、両方の顔を交互に見て微笑むのだった。あるときから、自分はクリスマス会にも誕生会にも出席できなくなった。約束したプレゼントは必ず送った。誕生日には必ず手紙を書いた。息子は、会うときはいつもと同じ顔をしながら、内心、なぜ別々なの? って、そういうことを感じ取っていたと思う。ずっとそのなぜを口にすることを我慢していたと思う。我慢してくれていたと思う。きっと、「なんで?」って聞いてしまったら、その答えを言わなきゃいけないこちらのことを想像したにちがいない。こちらの窮した答えを聞いて、なんとなく感じていることを、決定的な事実にしてしまわないようにしていたんだと思う。知ってた、俺も。息子が我慢してくれてることを。息子がそれでも会うのを楽しみにしてくれてることを。まだまだ子どもなのに、もうすでにいっぱい我慢も気も使わせてしまった。だから、またねって送るとき、俺はいつも息子にありがとうって言ってた。大人が逆立ちしたって、小学生にかなわないもの。そんなのは実はいっぱいある。嘘を言わないこととか、信じる心とか。大人が、いろんなレスポンスや反応を見込んで、「この花がきれい」と言ったり、きれいな花を本当にきれいだと伝えるために「大きな、かたちのよい花びらと、たんに黄色というんじゃくて、日差しを浴びて凛とした生命の天然のきらめきを伝えてくれるヒマワリはきれい」といった多くの言葉を駆使したりしてしまう。だけど、小学生が見たままに放つ、見返りもレスも気にしない、まっすぐな正真正銘な「きれい」のひとことに勝てるわけがない。そして、夏休み。夏休みの長さだって、小学生には絶対にかなわない。とてつもない経済力にものを言わせて、いくらでも時間は融通がきくなんて言っても、1ヶ月間丸っと、電話での指示やメールチェックといった仕事にかかわる一切をしないで済む大人なんてめったにいないはず。だから、俺はとっくに、バーベキューやアウトドアどころか、息子にかなわないところばかりだった。そうして、これまでたくさん2人で会ってきたけれど、その度に口に出かかっても、おたがいが口にしないできたことを、この夜に話した。ゆっくりと、でもしっかりと最後まで話した。朝日が昇りきってしまう前に、ブルートレインは駅に着いた。
息子は今年、2021年に成人式を迎える。ちょうど1年前の今頃、成人式か?とメールをした。来年だよってツッコまれた。それからの1年は、ずっとコロナ禍だった。そして、それは今も続いている。収束の気配はない。そうか、そういう時代か。なかなかハードボイルドだ。誰もがもらう卒業アルバムの年譜のところに、世相が明記されている。俺の時代は、オリンピックで誰が金メダルに輝いたとか宇宙飛行士がなんちゃらかんちゃらっていうエピックの間に、チェルノブイリ原発事故があった。バブル崩壊があった。阪神淡路大震災があった。アフリカのエボラ出血熱があった。戦争や紛争、大事故や大事件があった。それからの人の卒業アルバムには、さらに多くの厄災や悲劇の年譜が足されているはずだ。どうやら、それが人類の歴史らしい。今ある当たり前は、過去では天国のようなものだった、かもしれない。未来からしたら、今のハードボイルドは転換期と称えられるのかもしれない。ただ今を生きているっていうことが事実なだけで、当たり前なんて、当たり前じゃない。コロナ禍と19世紀のペストの世界、どっちが良いとか比べるものじゃない。悲惨でしかない戦争にどれがマシとかあったもんじゃない。だから、不幸せと不自由は、幸せと自由とセットになっている。どの時代に生きていても、なにかしらムカつくし悲しい。同時に、どの時代に生きていても恋をしたり笑ったりもする。悲しいことは起きるけど、そのとき世界のどこかでは、また嬉しいことも起きている。だから、時代の一部を顕微鏡で見るように、ぽっかりと浮かび上がらせたら、そこには悲しみの色だってあるのに、もっと引いて見ると、全体的には黄金色に繁栄していたってまとめてしまうことができたりする。何が言いたいかって。開き直ってしまえってか。そうじゃない。息子のセンタよ、俺も生きてるから、君も生きてろよってこと。それに尽きる。思えば、20年前にセンタが生まれたとき、俺は喜び以上に不安が大きかった。無事に成長できるだろうか。大病はしないだろうか。事故や事件にあわないだろうか。事故や事件をおこさないだろうか。いじめられないだろうか。いじめないだろうか。たった今、生まれたばかりで、ひたすら息をして、世の空気を初めて吸い込んで肺が痛くて泣きわめくしかできない命を前にして、そんなことを考えて心配になってしまった。みんな、我が子を最初に抱きしめたときに、とても嬉しい幸せな気持ちになるっていう。けれど、俺の顔はこわばっていたと思う。無表情に近かった。そんな新米父に、みんな心配だっただろう。俺は、とにかく、生きて欲しい。センタが自分の意思と責任で自分の人生と時間を確かに過ごしていくようになって欲しいと願った。センタが生まれてくる前から、生まれた瞬間、そして今に至るまでずっとそれだけを思ってきた。だから、つかまり立ちをして、それから歩くようになって、話すようになり、どんどん顔も変わっていって、大きくなっていくセンタを見るたびに、喜びが大きくなっていった。不安が消えはしないけれど、喜びがどんどん大きくなっていった。まんまるでニコニコしてる赤ちゃんのセンタより、成長して生意気になっても自分の足で歩いているセンタがかわいくてしょうがなかった。生まれた瞬間より今。そして、これからをセンタが生きていることが嬉しい。どんなに苦しい時代だとしても、どんなに社会がヘンテコになっても、センタが自分の命を感じて進んでいることが嬉しい。その先に何があるのか。ビッグマネーや大成功が待ってるというのか。そんなこと考えたことがない。小さい頃は、プロ野球選手になりたいって言ってた。それから宇宙飛行士。次はルーカスサウンドに入ってCG監督。消防士。危機管理学部を目指した時もあった。四万十川に行ったあの夏の旅の頃は、将来映画を作りたいって言ってた。何をしたいか、いろいろあっていいだろう。なにをするにも、とにかく選択したら、あとは突き進むだけ。生きることを続けるだけだ。俺は17歳のときに選択したことをひたすら、遠回りしながらも目指している。まるで、高速道路を使わない夏の旅のように。せっかく生きている時間や旅している時間において、効率ばかりに躍起になっても、仕方がない。長い旅で少し遠回りしたところで、何が変わってくるというのか。そんなことより、たくさん見た景色や時間がすべて繋がっている。無駄に思えた、持て余していただけに思えたものが、繋がっていく。あるときに、広げてあったトランプのカードが一気にひっくり返っていくように、パタパタと、自分と時間と世界をリンクさせていく。そんな日が来ることを楽しみにしていたらいい。そのいざっていうときにビビらないで、自らの選択に責任を持て。それだけだ。安心して生きる時間が減っているように思える今。それは実は、今も昔も変わらない。大雑把にいってしまうと、役割なんてないし、意味なんてない。ただ、生まれたからには生きるだけ。それじゃつまらない? 大丈夫だ。俺が少しは笑わせてやる。それにセンタは、十分に俺を笑顔にさせてくれている。ゴートゥチケットなんか当てにしないで、また旅に行こう。旅に行かされたり、旅に行けなくさせられたりするんじゃなくて、俺たちで旅に出よう。まずは、もう一度、四万十川なんてどうだ?  今度はずっと車で行けば、いいんじゃないか。誰にも迷惑かけずにさ。センタも運転できるんだろう。もし、よかったら、次の夏旅までに映画『菊次郎の夏』を見といてほしい。今度は、俺とそれについて話をしてみないか。成人式、おめでとう。

[父が20歳から服用していたビタミン・リスト]
映画『菊次郎の夏』『打ち上げ花火、上から見るか下から見るか』『スタンドバイミー』『紅の豚』『千と千尋の神隠し』『リトル・ミス・サンシャイン』『バグダッドカフェ』)『壬生義士伝』『キッズリターン』『活きる』『アニマルハウス』『ビューティフルライフ』『ナイトオンザプラネット』『父、帰る』『ニューシネマパラダイス』『シコふんじゃった』『小説家を見つけたら』『シャイン』『リトルダンサー』『マグノリア』『コンサルタント』『あの頃、ペニーレインと』『オクトーバースカイ』『スモーク』『グッド・ウィルハンティング』『蒲田行進曲』『マイレージ・マイライフ』『ショートターム』『となりのトトロ』『クルックリン』『シンレッドライン』
漫画『花男』『ピンポン』『風の谷のナウシカ』『編集王』、文庫『春と修羅』『旅をする木』『横道世之介』『流』『ジェノサイド』

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