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結婚と離婚と。出会いと別れ。

今日ネットである芸能人の離婚の発表を読んでいたら、ふと自分の離婚が決まった当時の思い出がフラッシュバックした。
あれはお互いが離婚を決めて別居になった当時、息子の空手教室を終えた時、元妻がよくこの空手教室に来ていてぼくと会うことが多かった。


お互いの別れを少しでも穏便に済まそうとして、お互いに子供の世話で時々会う機会をもうけていたのだった。あの頃に戻り離婚を解消することはできたか?できたとしても、もし結婚生活を続けていたとしても、たぶんお互いは幸せにはならなかったことだろう。結果論として離婚してよかったのだ。
ただあの頃を思い出すと、もう二度と一生あの微妙な時期は戻らないと思い、一瞬ある種の感傷に包まれるように感じる。


結婚はお互いの成長である、その道程を共に歩むことだ。


そのお互いの成長を共に歩むことに陰りが見えてきたとき、あるいはお互いの成長の軌道が離れていく時、ふとこのまま結婚していてよいのだろうかと思うようになる。あの時お互いがそう自問していた時期だったと思う。


結婚生活は難しい、国際結婚はさらに難しいと思う。お互いの国の文化がバックボーンにあり、初めはその違いに共感するのだが、年を重ねるにしたがって、その相手の文化のバックボーンに違和感を抱くか、元々の自分の国の文化に回帰することが多くなってきたときは、ひとつの危機の前触れだ。それとお互いの成長軌道が少しずつ離れていくのも、何とも言えない寂しさを抱くようになる。

そして、自分は元々二人で結婚生活を築いていくことに向いていたのかどうか自問するようになった。


結婚は、相手ありのパートナーシップであることは自明の理ではあるが、相手との距離が離れていく傾向ができるのは、何ともしがたく時を経るにしたがってその距離は埋め合わせや歩み寄りができないくらいにまで大きく広がっていることに気付かされる時がくる。自分が経験した離婚への道程はそのようなものであった。
自分の生涯でたぶん一度だけ経験した結婚生活と離婚、伴侶と別れるということは、普段は忘れていても、ふとした瞬間にその喪失の重さと深さにある種の後悔と感慨を抱くことがある。
結婚でお互いが一つになることがあれば、また再び個々に戻ることもあるのだ。


また結婚とはお互いの習慣の積み重ねだということもできる。

その習慣は愛情の糸によって紡がれ、いざそれをほどくときは収拾がつかないように見える迷宮のように感じられる。

それほど感情の糸は無数に折り重なって絡み合っているのである。

ある時ふと本妻の夢を見た時、その一瞬のイメージの中に、その関係の重さと深さに気付かされることがあるものだ。

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