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1ミリ1秒の重み、気づくと途方もない成果に

現在の自分が進むべき道で大きくリードしているのか後退しているのか気になることがある。

できるなら日々行わなければならないことで、先に進めたいことはたくさんある。先に進めているつもりでも、途中から他の問題があることがわかり、一気にそのことをフォローし始めて、全体的には後退していると思うこともしばしばある。

物事の進退状況はとかく主観的なものだ。


例えば、日々走っていて、毎回タイムを計っているが、ある日は1分くらい早く走れる時もあれば、ある時は1分くらい遅くなってしまうこともしばしばだ。同じようなペースで走っているような感覚なのに1,2分も遅れることがある。日々の体調はそれくらい揺れ動いているということ。

それで、時々、1秒、2秒、あるいは60秒とか記録を更新するということもある。

しかしこれらの記録を10年もとっていると、今の自分が7年前より速く走れていることを確認できた。

でも、最近は、1キロ、5キロ、7キロ、10キロの通過点のタイムは見ないで走るようにしている。

自分の生きている生の感覚に身をゆだねることにした。


あるいは、ヒマラヤの世界最高峰エベレスト山を目指して登山していて、酸欠に襲われ一歩一歩の歩みがのろく両足が棒のようになり、自分は今日800メートル登るのに途中の上下のアップダウンのせいで20キロメートルも歩いて、ぜんぜん上に登れていないと感じても、ふと下界を見ると、はるか遠くに自分が歩んできた狭い道の、途方もなく長い距離の白い線に気付かされるような時がある。


また、子育てをしていて、子供が1歳から7歳まで、また7歳から15歳、15歳から20歳までと、何十万時間と途方もない時間をかけて育つわけだが、それは日々の1歩1歩、1日1日、1ミリ1ミリの積み重ねと成長が裏付けとなって、気づけば20歳を迎えるころには、別人のような成長した子供の姿を目の当たりにすることになる。



何かしていて、一気に前進したい時があるが、ちょっと俯瞰してみると、それはたったの1ミリ前進しているような亀の動きのように感じられることがある。それでも1ミリの前進である。そういうミリ単位の前進でも進んでいるということで自分を褒めてよいと思うことがある。

あるいは遠回りをして一見後退しているような時も、できるだけ自分を俯瞰して見て、小さな結果とかにこだわらないようにしようと心掛ける。一見大きな後退に見えるようなことでも、後から振り返ると、それは大きな発見のためのなくてはならない寄り道だったのだと気づくこともあるからだ。


人間の気分や感情や思考などのバイオリズムはこのように日々変化しているので、あまり小さなことにこだわらないことだ、と思う反面、停滞期や後退しているように思える時は、たとえ1ミリでも1秒でも定めた道を前に進むと思えると、それが大きな気づきにつながっていることもある。



そして、気づきというのは、いわば前進とか後退とかいう距離や時間の概念を突破したところに起こる、ある種の発見なのだと思う。何かを発見したとき、何かを成し遂げた時、時間や距離は関係なくなる。後から振り返ると、1ミリや1秒どころか、途方もないくらいの時間と距離を経てきていることがわかるのだ。


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