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三方ヶ原の戦い

家康の黒歴史史上最大の黒歴史

「さん…三方……さんぽうが……知らないなぁ…」という方も多いかもしれません(「みかたがはら」です)。

でもちょっと待って。
そっぽを向いてしまうその前に、対戦カードだけでも見てください。

徳川家康 VS 武田信玄。

ベストバウトを予感させる2人じゃありませんか?

徳川家康……ご存知、江戸幕府を開いた、戦国の最終的勝利者おじさん。
武田信玄……甲斐(山梨県)の虎の異名を持つ、最強騎馬軍団のリーダーおじさん。

誰もが名前を知ってる有名人の激突なのに、一般認知度がちょいと低めの矛盾バトル。
それが
『三方ヶ原の戦い』なんです。

カンタンな内容を言うと……

《1572年。徳川家康が、武田信玄にボッコボコにやられたよ。》

というもの。
ただ「家康が信玄に負けた」だけっちゃあだけです。
しかも、『桶狭間の戦い』や『関ヶ原の戦い』のように、この争いによって世の中が劇的に変わった……という戦いでもない。

んが、

この戦いで繰り広げられる人間関係を知っておくと、このあとの重要な出来事の理解度が断・然・違います(おそらく)。
さらに、戦いの中身も"あの家康が死にかけた"とか、"信玄の策略ヤバすぎ"とか、とにかくおもしろい(たぶん)。
そして何より、僕が好きなんです(もうほぼこれです)。

なので、『三方ヶ原の戦い』。ちらっとご覧になってみて……の前に。

最初にみなさんにお伝えしときたいのは、
「戦国大名=誰とでも戦う」
じゃないよ、ということ。

大名も、それなりのバックグラウンドがあって、ほかの国に攻め込んでるんですね。

このへんは現代の人間関係と一緒。
正面きっての大ゲンカをしてる2人がいたとしたら、そこには何かキッカケ……お互いたまりにたまった鬱憤があったりするじゃないですか(全くないというサイコなパターンは置いといて)。

家康と信玄もまさにそれで、お互い積もりに積もった「なんじゃコイツ!」が爆発して、戦うことになったんです。

じゃあ、仲が悪くなるキッカケはなんだったのか?

その原因を探るために、2人のもつれた糸をグワーとたぐり寄せてみると、そこにあらわれてくるのが……『桶狭間の戦い』なんですよ(前回までの【桶狭間の戦い】を読んでみて)。

まずはですね、『桶狭間の戦い』による家康と信玄の環境の変化、そのビフォーアフターをパパッとご覧ください。

〈徳川家康の場合〉
地元の三河国岡崎(愛知県岡崎市)を今川義元に占領され、長い間今川の家臣だった家康さん。ですが、桶狭間で義元が亡くなったことをキッカケに、岡崎を取り戻し、独立することができました。
そこから信長と仲良くなって(”同盟"ってやつね)、えっちらおっちらまわりの敵をたおし、晴れて三河国の大名になれたんです。

〈武田信玄の場合〉
桶狭間事件がおこる前の信玄は、
今川義元

北条氏康
っていう大名と仲良くしてて、
「甲相駿三国同盟」
という、それはそれはイカつい名前の同盟を組んでおりました。
これ、それぞれがメチャ強いのに、「さらに手を組んじゃったよ」という驚きの同盟で、今で言えば、「アメリカとロシアと中国が仲良くなった」みたいなものです(すばらしく大げさに言えば)。

ただそれが、『桶狭間の戦い』によって崩れていくんですね。

戦いから数年後、義元を殺した信長から「信玄さん、同盟を組みませんか?」というまさかのオファーがくるんですが、信玄はそれを

「うーん、義元のむすこの今川氏真はポンコツだからなぁ……。信長と組んだ方がメリットあるか!」

と、オッケーしちゃいます。
しかし、当然今川氏真くん(義元のむすこ)はバチギレ。

「パパを殺した信長と手を組むってどういうことだ!」

と怒りまくり、今川との関係は最悪なものになってしまったんです。

とまあ、これが桶狭間の戦いから、大体6、7年後の家康と信玄の状況。
奇しくも2人の間には、"今川さんとの別れ"、"信長との同盟"、という共通点が出来上がっていたんですね。

さて、ここから家康と信玄の「絡み〜険悪〜戦い」という流れを、ドバーッとはしょりながらお伝えしていきましょう。

ファーストコンタクトは、信玄→家康。

「今川の領地を一緒に攻めないか?」

というお誘いで、『三方ヶ原の戦い』の幕が開きます。

家康「一緒……と、言いますと?」
信玄「武田と徳川で、今川のもつ駿河国(静岡県中部・東部)と遠江国(静岡県西武)を同時に攻めるんだ。武田が駿河を、徳川が遠江を、といった具合に。で、今川をたおした後の領地は、そのままお互いのものにする。どうだい?」
家康「なるほど……。わかりました、やりましょう!」

2人は今川をぶったおす約束で意気投合(こんな密約があった可能性が高いんですって。あと、2人が直接しゃべったわけじゃないよ)。
信玄が駿河に攻め込んだあと、家康も遠江に攻め込んでいくんです。
ところが……

家康「よーしよしよしよし! いい感じで遠江を占領してんぞ! この調子でどんど…」
秋山(信玄家臣)「やぁ」
家康「ビックリした!! な、なんで武田が遠江にいるんだ!?」
秋山「かかれぇーーー!!!」
家康「ちょ、な、お、意味わかんねーぞおい!! と、とにかく戦えぇぇーーー!!!」

駿河担当のはずの武田軍が、なぜか遠江に。
は? どういうことだ?? ブチギレた家康は、信玄に猛抗議。

家康「おい話がちげーだろ!! 武田は駿河! 徳川は遠江! あんたらが遠江に入ってくるのは明らかな規約違反だ!!」
信玄「いや、すまない。私は知らなかったんだ……。しかし…天竜川を境に、それより東が武田……のものではなかったかな?」
家康「バカ言ってんじゃねぇ!! それを言うなら天竜川じゃなくて大井川だろ!! 大井川が駿河と遠江をわけてんだからよ!! 天竜川はおもっきし遠江の中を流れてんだろ! 『天竜川を境に、それより東…』…って、そこは完全に遠江だバカタレが!!!」
武田「なんにせよ悪かった。遠江の部隊はすぐに撤退させる。家臣が勝手にやったこととはいえ、本当に申し訳ない。この通りだ」
家康「こ……(こいつ……!)」
信玄「それはそうと。駿河にいた今川氏真は、遠江の掛川城に移動した。ぜひこれを攻めて、今川をたおしてほしい。よろしく頼むよ」
家康「な……な…(なんだこいつ……!!)」

「自分は知らなかった。部下が勝手にやったことだ」
昔も今も、この文言を使える人が政治家になれるのかもしれません。
しおらしく謝っていますが、もちろんこれは信玄の指示(と言われてます)。あわよくば、遠江も自分のものにしようとしたんですね。


は?
はぁぁぁーーーー!!!!?

この行動に家康の「はぁ!?(怒)」は止まりません。

おい、信玄さんよ……まったく信用できねぇなあんた……。

楽しいドライブの誘いかと思いきや、乗りこんでみればジェットコースター。

家康と信玄、"不仲"に向けての滑走が始まります。




戦国おっさんずラブ

こちら『三方ヶ原の戦い』パート2です。
それでは前回のおさらいを。

武田信玄から徳川家康に「今川の領地一緒に攻めない?」のお誘い。

武田は駿河、徳川は遠江を攻めるという約束で家康もオッケー。

の、はずが…

遠江まで攻めてきて手に入れようとする信玄。

家康ブチギレ。

家康「っざけんなよ信玄!! あいつ全く信用できねーぞ! 何が『今川氏真は、遠江の掛川城に移動した。ぜひこれを攻めて今川をたおしてほしい』だ!!!! 言ってることとやってることがグチャグチャだろ!! まぁ遠江は欲しいから、掛川城の氏真は攻めるけど!!!」

と、信玄への不信感バリバリの中、掛川城にいる今川氏真を攻める家康。
しかし、

掛川城がまったく落ちません。

家康「だぁーーーーーイライラする!!!」

となったかどうかはわかりませんが、ここで家康、作戦を変えるんですね。

家康「もういい! 落ちねぇもんは落ちねぇよ! こうなりゃ攻めるのやめるぞ! 遠江を手に入れるためにもやり方変える! 『信玄と一緒に今川をたおす』なんて約束もクソくらえだ!!」 

なんて思ったのか、氏真のこもる掛川城を取り囲んで、こんなことを言うんです。

家康「氏真さん!! オレは今川義元さんによくしてもらったから、今川に敵意はありません! オレが遠江を手に入れようとしてるのは、ここが信玄のものになってしまうのを防ぐためだ! もしオレに遠江をくれれば、北条と協力して信玄を追っ払い、いずれあなたに駿河を返すことができる! だから和睦(仲直り)しましょう! そして遠江をください!!」

The・都合のいい主張。
”正義”というオブラートで包んではいますが、中身は自分のメリットだけを語ってるとっても甘いお菓子。

なんと家康さん、最初は掛川城をガンガン攻めたくせに、急に信玄を悪者にして「僕が君を守る!」的なことを言い出すんです。
しかも、ちゃっかり遠江は欲しいという主張は曲げずに。

こんなもん氏真からすれば「いやうそつけ!!」の内容です。
だけど、

氏真「わかった!!」

わかっちゃった。

氏真「駿河を取り戻してくれるなら、和睦して遠江を渡そう!」

渡しちゃった。
氏真がお人好しすぎたのか、家康の説得力がすごかったのか、氏真が大名でいることに疲れたのか、どれだ?

でも、とにかく交渉は成功。
家康は、氏真と仲直りをして、遠江国をゲットしたのでした。

さぁ今度はこれに、信玄が猛抗議。
「だーれが今川と仲良くなれと言った!」という不満を、家康…本人じゃなく、お友だちの信長にぶつけるんです。

信玄「信長くん! おたくの友達はなんだ! 私は家康に『遠江を攻めてもいい』とは言ったが、『今川と仲良くしろ』なんてことは言ってない! こりゃいったいどういうことだ!」

大ブーイングをぶちかます信玄ですが、家康も負けてません。

家康「信長さん! 信玄という男は1ミリも信用できませんよ! オレはあいつの敵である上杉謙信と仲良くします! 信長さんも信玄なんかとは手を切った方がいい!」
信玄「信長くん! いったいなんなんだ家康というやつは! 私たちの仲を裂こうとしてるじゃないか! お友達なら強くしかってくれ!」
家康「信長さん!」
信玄「信長くん!」
家康&信玄「ねぇ、信長ぁ!!」

ウザすぎる。

と、思ったかも信長。自分がまいた種とはいえ。
2人の中継地点に立たされ、あいつの行動が許せない、あいつのやり方はおかしいというクレームが飛んできて、裏を返せば「オレを優先してくれ」の猛烈アピール……。
見ようによってはおっさんの三角関係です。

しかし、そんなじれったい関係に嫌気がさした1人のおっさんが、この状況にピリオドをうつべく動きだすんですね。

信玄「信長と敵対してる朝倉や本願寺とも仲良くなったし、今川の味方をしてた北条とも、つい最近同盟が復活……仲なおり大成功だ。さて、と……準備は整った。ムカつく家康と、そんなやつとの関係を続ける信長……そろそろぶっつぶすか!」

信長の敵と仲良くなり、まわりをかためることに成功した信玄は、ついに家康&信長と戦うことを決めます。
軍を3つにわけ、家康と信長の領地、三河、遠江、美濃(岐阜県南部)に侵入していくんです。

では、そこからの武田軍の経過をカンタンにお伝えしましょう。

メタクソに強い。
以上。

もう次々と、家康や信長の領地にあるお城をおとしていくんですね。
このころ遠江に「浜松城」というお城をつくり、そこをホームとしていた家康。迫りくる武田軍に対して思ったかもしれません。

「あれ……? これ敵にまわしたらダメな人……だったかな?」

このとき、信玄率いる武田軍は2万5000(諸説あり)。
むかえうつ徳川軍は、8000プラス織田からの援軍3000=1万1000(諸説あり)。

家康さん、兵数の差からしても、「とにかく防御だ!」ってことで、浜松城での籠城(お城にこもるよー)を決めます。
どんどん近づいてくる戦国最強騎馬軍団は、もう目と鼻の先です。

くるぞ……くるぞ……くる、くる、くる、くる……!
きた!! きたきたきたきた! きたきたきたきたきたいったいったいったいったいった……ったったっ……たっ………?

通りすぎるんです信玄さん。
武田軍、浜松城にはきません。家康たちをスルーして、その先にある「三方ヶ原」という台地を目指すんです。

ん? なんでこないの? 元から目的地が違ったの? だとしてもオレはここにいる……よ? 信玄、お前の目の前にオレはいたんだぞ……。それを無視して通り過ぎるとは……。やってくれたなおい……。

浮かび上がった疑問は即座に怒りへ。
目の前を素通りするというのは、"相手にしていない"と同義。家康は、武士として一番大切なもの、
”プライド”
を踏みにじられたんですね。

家康「ふざけるなぁぁぁーーーー!!!! すぐに出陣だ!! 武田軍を追いかけて、信玄を討つぞ!!!」

城を出て信玄と戦うことを決めた家康。

何人かの家臣は「あの信玄ですよ! 何か考えてますって!」と主君をいさめますが、その制止を振り切り、浜松城を飛び出していったのでした("家康ブチギレ"は、確定の理由じゃありません。ほかにも、
・信玄と戦わなきゃ『え、戦わないんすか…』と、家臣たちに見くびられ、離れていく可能性があったから。
・信長からの『信玄引きとめとけよ』という無言のプレッシャーがあったから。
などの説があるんすよ)。

この時点では、見境なしの熱血若手武将に見えるかもしれませんが、家康には勝算がありました。

家康「三方ヶ原の台地をつっきった先は、祝田の坂(ほうだのさか)だ。武田軍が坂をくだっているところを上からたたけば……勝てる!!」

坂の上からグワァー! っと攻めればいける。たしかにいけそう。

家康たちは、彼らが坂を下り始めるころを見計らいます。そして、

家康「そろそろだ……。いけぇぇぇーーー!!!」

三方ヶ原の台地に入る徳川軍。ところが……

信玄「よぉ」
家康「え」

ババーーーーーーーン!!!!

家康「い!!!!」

そこにいたのは”いるはずのない”武田軍。
なんと、今ごろは坂を下ってるであろう信玄たちが、陣形を整え、万全の体制で待ちかまえていたのでした。

大ピンチ確定。




涙と未来のつまった大敗  〜 歴史に黒も白もねぇ。あるのは人が生きたという証だけだ 〜

はい、『三方ヶ原の戦い』最後のパートです。
おさらいしときましょう。

家康&信長と信玄メチャ仲悪くなる。

信玄「信長も家康もぶっ潰してやる!」

家康「信玄が来る! ヤバ!」

でも信玄、家康(浜松城)をスルー。

家康ブチギレ。「ふざけんじゃねー!! 待ってろよテメー信玄!! 追っかけて行って坂を下ってるところを上から突っ込んでボコスカにしてやるからよ!!!」

坂を下らず待ってた信玄。

家康「……え……………え、ワナ?」
信玄「ワナだね」
家康「……そ、そんな………やっちまった……」
信玄「かかれぇぇぇーーーーーー!!!!」
家康「も、もう戦うしかない! かかれぇぇぇーーーーーー!!!!」
両軍「ウワァァァァーーーーーーーーー!!!!!!!」

信玄の掌の上で踊っていたと気づいたときは後の祭り。
兵力で劣るうえに不意打ちをくらった軍勢と、準備万端な最強騎馬軍団。

武田軍「オオオォォリャァーーーーー!!!!!」
徳川軍「グゥワァァァーーーーーー!!!!!」

どちらに分があるのかは火を見るよりも明らかです。

猛然と襲いかかる武田騎馬隊を前に、なす術もなく倒れていく徳川・織田連合軍。
勝負の行方はとうに決しています。

家康が取るべき道は二つに一つ。
戦場から抜け出すという低い可能性に賭けるか、

ここで戦って死ぬか。

家康家臣「殿!! 浜松城までお逃げください!」
家康「いや、もう無理だ……。このまま武田と戦い、華々しく討ち死にしてくれる!!!」
家康家臣「なりません!! 城へ戻り再起を図るんです!!」
家康「ここで戦う!! おまえたちを残し…」
家康家臣「あーー聞き分けのない!! それを貸しなさい!」
家康「な、なにを……!!」

家康のもつ采配を奪った家臣は、馬首を翻し叫びます。

家康家臣「われこそは!!!」

彼が向かった先は敵陣。
駆け出した馬の上から、再びあらん限りの声をふり絞った家臣は、武田軍に向かって名乗りを上げたんです。

家康家臣「われこそは徳川家康!! 武田の者たちよ、この首をとって手柄にいたせ!!」

家康の身代わりとなるために。

夏目吉信や鈴木久三郎といった家臣たちは、家康から采配や、馬や、兜や、鎧をうばい、自分こそが家康だと叫びます。

家康を守るため、家康に生きてもらうため、家康に、

一歩でもこの場から離れてもらうため。

家臣たちは、自らの命を削って時間を稼ぎます。

家康「ぅ……く………ああああぁぁーーーーーーーー!!!!!!」

いつしか、この場にいる徳川家臣の意識は

「絶対に家康を死なせない」

という、一点のみに集中していったのでした。

そして、

家康「ハァッ……ハァッ…………ハァッ……」

多くの大切な命が犠牲となり、浜松城へ帰ることができた家康。

家康「城門を開けたままにしろぉ!! かがり火をたけ!! まだ……まだ帰ってくるものがいる!!!!」

生きて帰ってくるものがいる。
家康は、逃げてくる家臣たちのために、浜松城の門を開けたままにしたのでした。

しかし、これでは城まで追いかけてくる武田軍の侵入を防ぐことができません。

武田家臣「おい見ろ! 浜松城が見えたぞ!! このまま城まで攻め込んでや…門あいてない??」
武田家臣「だ、え!?(馬、急ブレーキ)……ホントだ……。なにかの……ワナ?」
武田家臣「かもしれん。城に入っていくのはキケンだ。ここまでにしておこう」

奇跡の勘違い。

門開けっ放しを「ワナかも?」と思った武田軍は、そのまま退き上げていったんです。

これ「空城の計」といって、昔の中国で使われた作戦なんですが、家康がそれをねらったのか、ただ家臣を救おうとした結果が幸運をまねいたのか…どちらかはわかりませんが、ギリッギリのところで徳川軍は助かったのでした。

でも、戦いは超がつくほどの大負け。家康が信玄の策略にまんまとハマり、一生のトラウマを残すこととなった——。
これが『三方ヶ原の戦い』です(「空城の計」は三国志で諸葛亮孔明が使った作戦です。プチ情報でした)。

ざっとこんな流れでございます。

終わってすぐに余談いいでしょうか。
『三方ヶ原の戦い』には、徳川さんが負けすぎたせいか、”家康イジりのエピソード”がいっぱいあるんです(ウソかホントかは別として)。
たとえば……

城に逃げ帰ってすぐ、戦いに負けたことを教訓とするため、その情けない姿を絵師に描かせた。

っていう話なんかが有名です(「しかみ像」ってタイトルの絵なんですが、後世に描かれたものらしいっす)。
ほかにも……。

・戦いに負け、敗走中の家康は茶屋によってちょっと休憩。ゆっくり小豆餅を食べてたら、パカラッパカラッ…と武田軍が迫ってきます。
あわてた家康は代金を払わず馬に乗って逃走。ですが、しばらく走ったところで店のおばあちゃんにつかまり、キッチリお金をとられたのでした。

現在、茶屋があったあたりは「小豆餅」という地名になっており、おばあちゃんが家康から代金を取ったところは、「銭取」というバス停の名前で残ってます(ちなみにバス停「小豆餅」から「銭取」は約2キロ)。

だいぶ楽しいお話ですが、つつきどころは満載。必死で逃げてる途中茶屋で休憩するか? という部分などもそうですが、一番は、

"2キロ以上の距離を馬より速く爆走するおばあちゃんなどいない"
というところです。

あと、実は地名の由来もこれじゃない。
気になったら調べてみてください。

・命からがら浜松城に逃げ帰った、家康と数人の家臣。

家康家臣「やっと着いたー。あーよかっ……ん?(クンクン)なんかくさい! あ! 殿うんちもらしてるじゃないすか!」

家康、武田軍のあまりの恐怖に、馬に乗りながらうんちをもらします。しかし……

家康「ちがう! これはミソだ!」

と、言い訳史上最も低いクオリティをたたきだしたそうです(真実は定かじゃありません)。

これらのエピソードを時系列にならべると……

「敵から逃げてる途中に食い逃げをして、おばあちゃんに捕まりながら馬の上でうんちをもらし、城に着いたあとそれが家臣にバレて、その姿を絵師に描かせた」

という、底なしにおもしろいやつが出来上がります。
だからまぁ、これらの話は、やっぱり伝説としてとらえてください。

さて、『三方ヶ原の戦い』の学びポイントはどこにあるでしょう。

「感情のまま戦いを挑んでも、勝負には勝てない!」
「大きな失敗を次に活かせ!」

というのは、わかりやすい教訓だと思います。
しかし、個人的にズシリとくるのは、家康が大ピンチをむかえたあと、

「一切ブレなかった家臣たちの理念」

です(「理念」でググると「ある物事についての、こうあるべきだという根本の考え」と出てきます。つまり、物事の一番根っこにある”大切にするもの"とか"目的"ですね)。

個性あふれる戦国武将の面々は、それこそバラエティ豊かな主義主張を持っていました。が、とにかくみんなに共通する理念は、
「家を守り、残すこと」
なんですね。
家臣という立場なら、主君の家や主君自体を守る"忠義"というものになってくるんですが、徳川家臣団はその徹底ぶりがすさまじい。

今回の戦いで、家康自身が"誇りのため"に討ち死にしようとしたとき、家臣は大反対します。
どんなときも理念(徳川家や家康を守る)を貫くことが最善と考える家臣たちは、たとえそれがトップの主張であっても認めるわけにはいかなかったんです。
その結果、家康は助かり、のちに徳川家は天下を取ります。

これって、
「チーム(または個人)の中に理念が浸透していれば、ピンチのときだろうと、最優先する選択を迷わない」
ということを伝えてくれてますよね(命をなげうつまでしなきゃ…とは言いません)。

物があふれ、物質そのものよりも、そこに込めた目的や夢が重要になってきた現代。何があってもブレない軸というのは、ますます大事になってくるんじゃないでしょうか(以上、またもやブッチギリの個人的意見でした)。

武田信玄という脅威にさらされる信長&家康。
2人はこのピンチを乗り切ることができるんでしょうか?

次回は、武田、信長、家康という単語でピンとくる人もいるかもしれませんが、信長が”あれ”を使った”あれ”の"あれ話"です!






本当にありがとうございます!! 先にお礼を言っときます!