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燃えたよ。真っ白に燃えつきた。真っ白な灰に

散りぬべき 時しりてこそ に続く

「ほんの瞬間にせよ、
 まぶしいほど真っ赤に燃えあがるんだ。
 そして、
 あとには真っ白な灰だけが残る。
 燃えかすなんか残りやしない。
 真っ白な灰だけだ」

 あしたのジョー 
 原作:高森朝雄(梶原一騎)
 作画:ちばてつや

古今東西、美しいとされる『自己犠牲』
日本人の美学では、時に『滅びの美学』
時に『敗者の美学』などとまとめられてしまいがちだが、
その前提に
『まぶしいほど燃え上がる瞬間』
があることが
美学につながると思われる。

「人生でただ一度だけの青春の時を勝負の世界に賭けて燃え尽きていった若者たちの姿を、若きノンフィクションライターが哀惜こめて描く情熱的スポーツロマン」
(文庫版より)とされる、
沢木耕太郎の「敗れざる者たち」文春文庫
その「クレイになった男」の中で、
沢木耕太郎は「あしたのジョー」を以下のように紹介している。

 あしたのジョー、矢吹丈とはいったい何者だったのか。
 学園闘争のさなかで最も愛読されたのが『あしたのジョー』だったことは、よく知られている。
 バリケードの中では誰かが少年マガジンを持っていた。そして、そのとき学生だった多くの者が、社会に出てからもからも”熱い思い”で、ジョーの行く末を見守っていたのは確かだった。
 ジョーは、ある日ひとりぼっちでドヤに流れてくる。何かといえば喧嘩をし、相手を叩きのめしてしまうジョーに、片目の”ボクサー崩れ”は自分の夢を託そうとする。チャンピオン・ボクサーに仕立てようとするのだ。
つねに苛立っているジョーは。しかし、すぐ事件を起こし少年院に送り返される。だが片目は諦めない。
一方、ジョーは少年院で力石徹というライバルと巡り合う。彼と闘うことで、ジョーはボクシングになにかを燃焼させている自分を発見する。やがて出所した二人は、リング上で闘うことになる。
 凄絶な”殴り合い”のクライマックスで、ジョーはマットに叩きのめされる。しかし、力石は勝つと同時に死ぬ。
以降、ジョーは力石との一戦で覚えた”あの時”の燃焼感を求めてリングを漂流する。
 そして、ついにホセ・メンドーサとの世界タイトル戦で、彼は”あの時”の自分にアイデンティティファイする。打ちのめされ、打ちのめし、しかし、判定で敗れる。
 ジョーはついに力石にもホセにも勝てないのだ。
 戦いのあとのリングで座りながらポツリと一言いう。いいおわると、死力を出しつくしたジョーはもう死んでいるのか、眠っているのか口元に静かな微笑みを浮かべたまま、身じろぎもしない。

「燃えたよ…まっ白に燃えつきた。まっ白な灰に…」

 この終わりは殆ど読者にはわかっていたことだった。
 最後にこの科白がくることも。しかし、にもかかわらず読み続けたのは、せめてジョーひとりくらいは”まっ白に燃えつきる”幸せを味合わせてあげたかったから、それを見届けたかったからなのだ。
 ぼくらには”まっ白に燃えつきる”ことなどありはしない、という前提が、ジョーを支えたある”熱い思い”なのだ。
 ”燃えつきる”ーこの言葉には恐ろしいほどの魔力がある。正義のためでもなく、国家のためでもなく、金のためでもなく、燃えつきるためだけに燃えつきることの至難さと、それへの憧憬。あらゆる自己犠牲から、あとうかぎり遠いところにある自己放棄。
 矢吹丈は彼と同世代の若者のニヒリズムの上に咲いた、華麗な花だった。

  『敗れざる者 クレイになれなかった男』沢木耕太郎 文春文庫
 
「あしたのジョー」は少年マガジンに1968年1月1日号から1973年5月13日号にかけて連載された。2010年12月時点で単行本累計発行部数は2500万部を突破しているとのこと。今でも読み継がれている漫画といえるだろう。

もしも、
「ほんの一瞬にせよ。
 まぶしいほど、
 真っ赤に燃え上がる」

ことができたなら。
そんな瞬間
をもつことができたなら。

そして
「燃えかすなんて残らない
 まっ白な灰になる」

ことができたとしたら。
それを「幸せ」なこと
だと思うのは
日本人だけではない。
のかもしれない。
しかし、
日本人だからこそ、
それを「幸せ」なこと
だと思うのではないか。

日本人の美学
とは、
他の国々のそれとは
少し異なるのではないか。
と考えられる。


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