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LONG SEASON 2023

『18:02「ごめん、今日行けなくなった」』
まさに今会社を出ようというところで、携帯が鳴った。

全身の力が抜ける。
初めての場所に行くのはなかなか気力がいるもので、それを一人で、仕事終わりに、なんて考えるだけで気が滅入る。
でも大好きなバンドを初めて生で聴けるまたとない機会だ。行かない訳にはいけない。
そう自分に言い聞かせ、駅へ向かう。
足が重い。
家路へ家路へと向かいたがる体を引き摺って、スタンディングのライブでもしっかりステージが見えるようにと履いてきた、ヒールの高いブーツをカツカツと鳴らしながら歩を進める。
とりあえず行こう。とりあえず。とりあえず…疲れたら途中で帰ればいい。

会場はビルの5階だと言う。ビルの5階で、ロックバンドの爆音ライブなんてできるんだろうか。
会場に着くと、ドリンクチケットの購入を促された。ドリンクチケットはビールやジュースと交換できるらしい。
アルコールでドロドロに溶けてしまいたい気分だったが、途中でトイレに行きたくなるのも億劫なので水と交換する。
嗚呼、友達が一緒だったら…
荷物を預けるロッカーも完備されていたが、途中で帰るかもしれないし、最後までいたとしても終わったらすぐに帰りたいので手に持ったまま会場に入った。

観客は私より少し上の世代が多いように見える。みんなお酒を飲んで楽しそうだ。水を手にしている人なんて見当たらない。
なんだか疎外感を感じてしまう。
嗚呼、帰りたい。
ライブが始まるまでの時間、携帯をいじりながら周りの会話に耳を欹てる。
こないだはあのアーティストのライブに…あのアーティストはあーでこーで…
当然ながら音楽が好きな人が多いようだ。
話しかけてみようか…
……
………
考えている間にベースがなり始めた。(話しかける勇気はなかった。)
ゾクゾクするようなその低い音。
音が段々、段々大きく、早くなる。
鼓動の高鳴りを煽られる。
煽られた観客は熱を帯び始める。
会場の温度が上がる。
上がる。
体ごと舞台に吸い込まれる。
開演だ。


有名な曲、デビュー当時の曲、マイナーな曲…
曲が進むにつれ頭に音が、彼らの作り出す、窒息しそうなほど張り詰めた重たい空気が、熱が、入り込んでくる。
会場のボルテージが上がっていく。
キーボードが奏でる同じフレーズの連続に頭が麻痺したように痺れ始める。何も考えられなくなる。
早く帰りたいなんて考えていたことが既に、遥か遠い昔のようだ。
今は1分1秒でも長く、この音楽に触れていたい。
彼らの発する音をそのまま全部、一つも漏らさず浴びたい。
なんだ、これ。
なんだこの音楽。
不安定で危うい。ピュアで、苦しいほどに真っ直ぐ。
胸が締め付けられる。


さて、恥ずかしながら私はこれまでドラムという楽器に、特段の注意を払ったことがなかった。
というのも私はもっぱら低音に目がなく、いつもベースにばかり耳を持っていかれてしまうからだ。
ところがこの日、私が狂おしいほどに魅了されたのは他にもない、ドラムだった。
もはやベースに寸分の注意も払えぬほど、ドラムに魅せられていた。
素人目にも、彼がこのバンドの音楽を作っているのがわかる。

ライブ終盤、怒涛のドラムソロが始まる。
たった2つのスティックで、無限の彩りが広がる。
ドラムは限られた音程しか出せないはずだ。
なのに何だろう、どうしてだろう、この豊かさは。この色彩は。
ドラムソロはジャズライブで何度か聴いたことがあるが、これは違う。これは全然違う。
技術がとか、音楽のジャンルがとかそういうんじゃない。
抉り出された彼の魂を丸ごと目撃しているような、心とか頭とかじゃなくて、もっとコントロールの及ばない本能的な…。
気づけば全身の血液が、細胞が、この音楽を聴き漏らしてはならないと、この瞬間を見逃してはならないと、大きく目を開いてそれを見つめていた。

会場のライトが絞られる。
後方から発されるライトが、彼だけを映し出す。
目が眩むような光の中、彼のシルエットだけが微かに浮かび上がる。

ーー後光みたいだ。

嗚呼、神様はここにいたのか。


何兆個といる全身の細胞が、一斉に身震いをした。

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