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ニーファイ第二書11-19/20−25章:聖約とイエス様の愛〔質問に答える〕

先週は、ニーファイが引き続きモルモン書の中で引用したイザヤの言葉から研究を進めてきました。ニーファイがその読者に勧めたように、イエス・キリストとその役割、わたしたちとの関係性に焦点を当てて学び、それを自分に当てはめることを通してイザヤ書が難解な預言ではなく、救い主イエス・キリストについてのシンプルで力強い証の言葉として感じられるようになります。「質問を尋ねる」の記事をまだ読んでいない方は、ぜひこちらからお読みください。

ユダヤ人と主との本当の関係を表す聖句

ここまで学んできたプロセスで、引用されたイザヤの言葉の一節に特に心がひかれました。それは前回の記事でも紹介した一節です。

それゆえ見よ、主は勢いと水量のある川の水、すなわちアッスリヤの王と彼のすべての栄光を彼らの上にもたらす。それはすべての水路にあふれ、すべての堤を越え、
ユダに流れ込み、あふれみなぎって、首にまで達する。おお、インマヌエルよ、彼の翼は伸びて、あなたの国の広がりのすべてを覆う。

モルモン書ニーファイ第二書18章7-8節

この聖句は、ユダヤ人が度重なる預言者を通しての警告にも関わらず、主に背き、彼らが交わした聖約に不誠実な選びをしてきたことにより、アッシリアの侵略を受けることについて再度警告されています。
勢いのある大量の水を当時のアッシリア帝国になぞらえて、その水が国に流れ込む様がアッシリア帝国の侵略の象徴的な預言となっています。
最終的には「首まで達する」と言われているのは、首都エルサレムにまで大きな打撃を受けることを指しています。

自らの背きの結果がどれほど悲惨なものになるのか非常に明確に預言されているにも関わらず、それに続く言葉はユダヤ人と主の本当の関係性を表しています。もう一度繰り返します。

おお、インマヌエルよ、彼の翼は伸びて、あなたの国の広がりのすべてを覆う。

モルモン書ニーファイ第二書18章7-8節

「インマヌエル」とは、彼らに与えられると約束された救い主で「神がわたしと共にいます」という意味です。彼らは自らの選びにより神様に背いたにもかかわらず、神様はそれでも彼らと共にいると約束しておられます。鳥が翼を羽ばたかせて高い空を飛ぶように、堕落した彼らを高く天まで引き上げる力を現わされると約束しておられます。そして、彼らのあやまちや罪を「贖罪」によって覆ってくださると約束しておられるのです。

今週の「わたしに従ってきなさい」の読書範囲はニーファイ第二書20-25章ですが、ニーファイは引き続きイザヤ書が引用されています。そして、イエス様の深い憐みといつくしみがここでも繰り返し証されています。

例えば2ニーファイ20-25章からいくつかを引用してみます。

その日、あなたは言う。「おお、主よ、わたしはあなたをほめたたえます。あなたはかつて、わたしのことをお怒りになりましたが、今はあなたの怒りも解かれ、あなたはわたしを慰めてくださいました。」
「見よ、神はわたしの救いである。わたしは信頼して恐れない。主なるエホバはわたしの力であり、わたしの歌である。また、主はわたしの救いとなってくださった。」
それゆえ、あなたがたは喜んで、救いの井戸から水をくむ。

モルモン書ニーファイ第二書22章1-3節

主はヤコブを憐れみ、やがてイスラエルを選んで、彼らを彼ら自身の地に置かれる。また、見知らぬ者たちが彼らに連なり、ヤコブの家に結び付く。
人々は彼らを連れて、彼らの地に導く。まことに、遠くから地の果てまで彼らを導く。そして、彼らは自分たちの約束の地に帰る。イスラエルの家はそれを所有し、主の地はしもべのものとなり、橋ためのものとなる。そして彼らは、かつて自分たちをとりこにした者をとりこにし、自分たちを虐げた者を治める。
そしてその日、主はあなたの悲しみと恐れを取り除き、またあなたが服したつらい苦役を解いて、あなたに安息を与えられる。

モルモン書ニーファイ第二書24章1-3節

イエス様が背く民に憐み深くあり続けられる理由

なぜ、イエス様はそうされるのでしょう。
なぜ、自ら背いた者を再び集め、自ら拒んだ者に再び約束の地を受け継がせ、自ら道を外れた者を再び救い上げてくださるのでしょう。このイエス様の深い憐み、主とイスラエルの民との間の関係性についての質問をもっと理解したいと思い、以前にも紹介した検索機能で関連聖句や預言者の教えを調べていました。

その中で特に2つの預言者の教えが目に留まりました。ラッセル・M・ネルソン大管長の「永遠の聖約」(リアホナ2022年10月号)とD・トッド・クリストファーソン長老の「わたしたちと神との関係」(総大会2022年4月)です。

これらの預言者たちはいずれもそのお話の中で、モルモン書の非常に重要な主題のひとつである主とイスラエルの家(わたしたち)との間の「聖約」について教えておられます。

例えば、ネルソン大管長は次のように教えていることが目にとまります。

神と聖約を交わすと,わたしたちは中立というどっちつかずの立場を永遠に離れます。神は御自分とそのようなきずなを築いた人々との関係を,決して放棄されることがありません。実のところ,神と聖約を交わした人は皆,特別な種類の愛と憐れみを受けることができます。ヘブライ語では,その聖約における愛はヘセド(חֶסֶד)と呼ばれています。

ラッセル・M・ネルソン「永遠の聖約」リアホナ2022年10月号

ヘセド:聖約の愛と神様との特別な関係

このヘセドと呼ばれる神様の特別な愛、神様との特別な聖約の関係に入った人に向けられる愛は欽定訳聖書では多くの場面で"lovingkindness"(日本語口語訳聖書では「いつくしみ」)という言葉に翻訳され、他にも"mercy"(「憐れみ」)や"love"(「愛」)という訳語が当てられています。ネルソン大管長の記事でこのヘセドについてさらに詳しくはKerry Muhlestein, God Will Prevail: Ancient Covenants, Modern Blessings, and the Gathering of Israelを参照するように注釈がありましたので、わたしはこのヘセドについてもっと深く理解したいと思い、調べることにしました。この中でKerry Muhlestein(ブリガム・ヤング大学宗教学教授)は次のようにヘセドについて説明しています。

Hesed has a rich and full meaning. At its core, hesed indicates a special kind of love and mercy that is only available to those in a covenant relationship. Because God has hesed for those who have covenanted with Him, He will love them in such a way that, no matter what, He will continue to work with them and offer them chances to change and return to Him when they stray.

Kerry Muhlestein, God Will Prevail: Ancient Covenants, Modern Blessings, and the Gathering of Israel (2021).

正確かどうかわかりませんが、翻訳を試みてみたいと思います。

(私訳)
ヘセドは豊かで完全な意味をもつ言葉です。その核心は、ヘセドは聖約の関係にある者だけに与えられる特別な愛と憐れみを示しています。神はご自分と聖約を交わした者にヘセドを抱いておられるために、何があっても彼らを愛し続け、彼らが道を踏みはずした時には、彼らが変わり、神様のもとに戻るためのチャンスを与え続けてくださるのです。

さらに次のように説明を続けています。

One study of hesed, done by Hebraist Gordon R. Clark, defines the word thus: “[Hesed] is not merely an attitude or an emotion; it is an emotion that leads to an activity beneficial to the recipient.” Clark continued to say that hesed “may be described as a beneficent action performed, in the context of a deep and enduring commitment between two persons or parties, by one who is able to render assistance to the needy party who in the circumstances is unable to help him- or herself.”
As beautiful as this is, the description of how hesed relates to God is even more powerful. After an extensive study of how the word is used in the Old Testament, Clark says that hesed “is characteristic of God rather than human beings; it is rooted in the divine nature, and it is expressed because of who he is, not because of what humanity is or needs or desires or deserves.” Further, God's “tenacious commitment to Israel even in the face of their blatant and persistent rebellion demonstrates that [hesed] is an enduring quality of God.” Clark notes that Israel may not always realize it when they have strayed, but hesed is always available, and God “awaits the opportunity to manifest it again when his people repent and return to him.”
(私訳)
ヘブライ学者であるゴードン・R・クラークが行ったヘセドに関するある研究で、この言葉を次のように定義しています。「〔ヘセド〕は単なる態度や感情ではなく、受け手を益する働きにつながる感情です。」クラークは続けて、ヘセドは「有益な行為と表現されます。それは二人の個人または当事者の間の深く永続的な約束のもとで、自分ではどうしようもない状況下で困窮している当事者に援助を提供することができる者によって表されます。」

この説明は美しいものだが、ヘセドが神とどのように関連しているのかの記述はさらに力強いものです。この言葉が旧約聖書の中でどのように使われているのかを幅広く研究した後、クラークは次のように説明しています。〔ヘセドは〕「人間ではなく、神の特徴です。それは神の本質に根差しており、神が神であるために表されます。それは人類が何であるか、何を必要としているか、何を欲しているか、あるいはそれに値するから表されるのではありません。」さらに、「あからさまで執拗な反抗に直面しても、イスラエルに対する〔神の〕粘り強い献身は、〔ヘセド〕が神の永続する特質であることを証明しています。」と述べています。

クラークは、イスラエルがいつもそのことに気づくとは限らないが、彼らが道を踏み外した時、〔ヘセド〕はいつでも備えられており、神は「民が悔い改めて神に立ち返るとき、再びヘセドを現わす機会を待っておられます。」と述べています。

Kerry Muhlestein, God Will Prevail: Ancient Covenants, Modern Blessings, and the Gathering of Israel (2021).

ひとたび、人が神様との聖約を交わすとそれまでの関係性とは全く異なったものになります。神様はヘセド、聖約の関係性の中で表される特別な愛と憐れみを聖約の民に向けられます。聖約を交わした人にとって、神のヘセドは永続的で普遍的なものです。

次の二つのグループの人たちは一見同じような振る舞いをしているように見えて、全く異なった状態にあると説明することができます。

  • 神との聖約を交わさないで自分の思うままに生きる人

  • 神との聖約を交わしながら、それに背き道を外れた人

神のヘセドはご自身と聖約を交わした人に向けられていますので、たとえその人が道を踏み外したとしても、彼らが再び悔い改めて喜びに至る道を歩めるように継続的に働きかけられます。主から彼らを決して諦められることはありません。彼らが悔い改めるなら、ヘセドと聖約に伴う祝福は常に彼らのものです。

すべての人に向けられている聖約の愛と自ら聖約を選んだ人へ向けられる聖約の愛

「ヘセド」についてのこのような基本的な理解を得ることで、次のような質問が心に浮かんできました。


  • 「神様はすべての神様の子供たちを愛しておられる」という真理と、「神様のヘセドという特別な愛が聖約を交わした人に向けられている」という真理はどのように理解すればよいのだろう?


そもそも、神様が人と「聖約」を交わされたのはいつでしょうか?聖書の中でそれはアブラハムと主が交わされた聖約が非常に重要なポイントとなっていることがわかります。さらに近代の聖典はそのことをさらに詳しく教えています。(聖句ガイド「アブラハムの聖約(契約)」参照)この記事では、主がアブラハムと交わされた聖約については詳しくは取り上げません。

このアブラハムの聖約とも大いに関連していますが、このヘセドを最も明確に示しているのは、明らかに天の御父が御子イエス・キリストをわたしたちの救い主としてこの世に遣わしてくださったことです。そして、すべての神様の子供ために救い主が遣わされることはわたしたちが生まれる前から定められていたことで、それこそが神様の永遠の聖約でした。
聖約はすでに示されていましたが、わたしたちは個人として自分の意志と選びによって主との聖約に入る必要がありました。そして、主との聖約に入ると、わたしたちの血統が何であるかに関わらず、イスラエルの民の中にかぞれられて、主の聖約の民となります。

主はヤコブを憐れみ、やがてイスラエルを選んで、彼らを彼ら自身の地に置かれる。また、見知らぬ者たちが彼らに連なり、ヤコブの家に結び付く。人々は彼らを連れて、彼らの地に導く。まことに、遠くから地の果てまで彼らを導く。そして、彼らは自分たちの約束の地に帰る。

モルモン書ニーファイ第二書24章1-3節

この記事の前半で紹介したニーファイが引用したイザヤの言葉にあるように、「見知らぬ者たちが彼らに連なり、ヤコブの家に結び付く」とはそのような意味だと理解できます。

神様のヘセドがイスラエルの民のためだけに限定されたものではなく、すべての神様の子供たちのために備えられていることは、イエス様がすべての神様の子供たちがイエス様を自分の救い主として受け入れる前から、その罪と弱さと苦しみを引き受けて贖いの御業を成し遂げてくださったことからわかります。そして、主はすべての神様の子供たちに主との聖約に入るように招いておられ、イエス様を救い主として見出し、救い主として受け入れるかどうかの選択の機会が与えられています。

すべての人には、すでに向けられている神様のヘセドを自分のものとして受け入れることを選ぶチャンスがあるのです。そうして自ら聖約を交わした人々とその聖約に連なる家族を、主は決してお見捨てにはなりません。

クリストファーソン長老は、ご自身の説教の中で次のように教えられました。

ブルック・P・ヘイルズ長老は、普通の視力をもって生まれたにもかかわらず11歳で視力を失った、パトリシア・パーキンソン姉妹の話をしてくれました。

ヘイルズ長老はこう語っています。「わたしは長年パットを知っています。最近、彼女がいつも前向きで幸せそうなことを立派だと思うと伝えました。すると彼女はこう答えました。『わたしと家にずっと一緒にいたことはないですよね。大変なときもあります。重いうつ状態になったり、たくさん泣いたりもしました。』しかしこう付け加えました。『視力を失い始めてから、不思議ですが、天の御父と救い主がわたしや家族と共にいてくださることがわかりました。盲目だということに腹が立たないか聞かれたら、こう答えます。『誰に対してですか。天の御父はわたしとともにこの状況にいてくださっているのです。わたしは独りではありません。御父がいつも一緒にいてくださるのです。』」

結局のところ、わたしたちが求めているのは、御父と御子との親密でいつまでも続く関係という祝福です。それはすべてを変えますし、永遠に代価を払う価値があります。

D・トッド・クリストファーソン「わたしたちと神との関係」2022年4月総大会

ヘセドを自分に当てはめる

このように神様とイエス様の愛と聖約について理解すると、わたしは自分の人生の中で起こった数々の喜ばしい、奇跡のような経験の原因を主と交わされた聖約と、その聖約のゆえにわたしから決して離れることのない神様とイエス様のヘセドに見出すことができました。

神は御自分と聖約を交わした人に対してヘセドをお持ちであるため,その人を愛されます。その人に働きかけ続け,変わる機会を与え続けられます。その人が悔い改めるとき,赦されます。そして,もしその人が道を外れることがあったなら,御自分のもとに帰る道を見つけるのを助けられます。

皆さんやわたしが神と聖約を交わすと,わたしたちと神との関係は,聖約の前よりもはるかに近づきます。今やわたしたちはともに結ばれているのです。わたしたちが神と交わしている聖約のゆえに,神は決してうむことなくわたしたちを助けてくださり,わたしたちに対する神の憐れみ深い忍耐が尽きることは決してありません。わたしたちは一人一人が,神の心に特別な場所を得ています。神はわたしたちに高い期待を持っておられます

ラッセル・M・ネルソン「永遠の聖約」リアホナ2022年10月号

そうして、次のような質問がわたしの心に自然と浮かんできました。


  • わたしが主の心の中に特別な場所を得ているのだとすれば(実際にそうであると確信できるが)、わたしの心には主のための特別な場所があるだろうか?

  • 主がすべての神様の子供たちをその忠実さや信仰の度合い、現在の心の向き関わらず、再び集めたいと願っておられることは、わたしのこれからの選びや生き方にどのように影響するだろう?

  • わたしは神様とイエス様を愛しているだろうか?その愛をどのように表しているだろうか?

  • わたしは神様とイエス様が愛しておられる人々を大切に思っているだろうか?その思いはどのように表すことができるだろうか?

  • わたしは、結婚において聖約を交わした主と伴侶に対する愛を、どのようにイエス様のヘセドのように普遍的で永続的で、決して諦めない、相手や状況に左右されない、純粋な愛となるまで育んでいくことができるだろうか?


今回の学びのプロセスを通して心に満たされた感謝や決意や愛によって、ニーファイのこの言葉と思い、彼が自身の記録に書き記したことにもっと共感する思いがわいてきました。

わたしたちはキリストのことを話し、キリストのことを喜び、キリストのことを説教し、キリストのことを預言し、また、どこに罪の赦しを求めればよいかを、わたしたちの子孫に知らせるために、自分たちの預言したことを書き記すのである。

モルモン書ニーファイ第二書25章26節

今週の学びは先週からの質問や学びのプロセスの延長でした。毎日の学びがそれぞれに独立した学びではなく、互いに関連し、次の学びへと導くものであることを感じる経験でした。
わたしの先週から引き続きの学びのプロセスの紹介はいったんここまでとしましょう。

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