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ニーファイ第2書11-19章:イザヤの預言を自分に当てはめる〔質問を尋ねる②〕

前回の記事ではニーファイがイザヤの言葉を引用した意図をくみ取って学ぶことについて焦点をあてました。まだ読んでいない方はこちらからお読みください。

イザヤの言葉を自分自身に当てはめるために

ニーファイの意図に沿って、キリストを見出すためにイザヤの預言を学んでいきます。ニーファイはイザヤの言葉を以下のような焦点をもって学ぶように招いています。

  • 救い主イエス・キリストがわたしたちにとって必要な理由

  • 救い主イエス・キリストが中心に据えられた、すべての人を救う「偉大な永遠の計画」

  • これらを自分自身とすべての人に当てはめながら読む

読み進めながら、イエス様に焦点を当てることはもちろんですが、自分自身に当てはめるという読み方がとても大切なものだと思えてきました。ですから読んでいることを自分自身にあてはめるために具体的に次のような指針を持つように心がけました。

  1. 「イスラエルの民(ユダヤ人)」に向けられている言葉は「自分」に向けられているものだと意識する

  2. 「イスラエルの民(ユダヤ人)」と救い主との関係について教えられている箇所は「自分」と救い主との関係について教えているのだと意識する

  3. イザヤが当時語った時代と現代の共通点を探すことを意識する

  4. イザヤとそれに続く時代に実際に起こったこと(あるいは、起こると預言されていること)は、わたしにとって霊的・精神的な意味で当てはめて解釈できるということを意識する

これらのことを意識しながら学んで、イザヤの預言を自分なりに以下のように整理してみました。

ユダヤ人の二つの状態

これらの預言を通じて、ユダヤ人の状態が大きく二つに分けられていることに気づきました。一つは警告を受けている罪の状態です。

それは彼らが、東方からのものを国に満たし、ペリシテ人のように占い師に聴き、見知らぬ者の子供たちと交わるのを好むからである。
彼らの地には銀と金が満ち、彼らの宝には限りがない。彼らの地には馬も満ち、戦車も限りなくある。
彼らの地には偶像も道、彼らは自分の手の業、すなわち自分自身の指で造ったものを拝む。
地位の低い者は身をかがめず、地位の高いものはへりくだらない。それゆえ、彼らをお赦しにならないように。

モルモン書ニーファイ第二書12章6-9節

民は互いに虐げ合い、隣人同士が虐げ合い、子供は長老に高ぶり、地位の低い者は高貴な者に向かって高ぶる。

モルモン書ニーファイ第二書13章5節

民の舌と行いが主に背いて、主の栄光の目を怒らせたために、エルサレムは滅び、ユダは倒れたのである。
彼らの顔つきは彼らについて不利な証言をし、彼らの罪はあたかもソドムのようであることを表しており、彼らはそれを隠すことができない。彼らは災いである。彼らは自ら悪の報いを受けたのである。

モルモン書ニーファイ第二書13章8-9節

主は公平を望まれたのに、見よ、圧制。義を望まれたのに、見よ、叫び。
空き地がなくなるまで家に家を建て連ね、自分たちだけが国の真ん中にいようとするものは災いである。……
朝早く起きて強い酒を追い求め、夜まで飲み続けて、ぶどう酒に身を焼かれる者は災いである。
彼らの酒宴には、琴と竪琴、鼓と笛とぶどう酒がある。しかし、彼らは主の業に見向きもせず、主の手の働きに目を留めない。
それゆえ、わたしの民は無知のために囚われの身となる。

モルモン書ニーファイ第二書15章7-8、11-13節

悪を善と呼び、善を悪と呼び、闇を光とし、光を闇とすし、苦いものを甘い、甘いものを苦いとするものは災いである。
自分を見て賢いと思う者、自分を見て分別があると思う者は災いである。

モルモン書ニーファイ第二書15章20-21節

これらの罪の状態に対して、義人の祝福された状態についてもこのようにあります。

義人に、彼らは幸いであることを告げなさい。彼らは自分の行いの実を食べるからである。

モルモン書ニーファイ第二書13章10節

主の枝は麗しく栄光に満ち、地の産物は、イスラエルの逃れた者にとって並外れて麗しくなる。
そして、シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、すなわちエルサレムで暮らす者として書き記されている者は、聖なるものと呼ばれる。

モルモン書ニーファイ第二書14章2-3節

これら義と罪の二つの状態について教えていますが、当時、罪の状態への警告はより緊急性の高いものだったためか、より多く語られている印象です。これらを自分に当てはめるなら、これら当時のユダヤ人の状態を自分に置きかえて自問してみることができます。


  • わたしは今、どのような状態にあるだろうか?わたしは自分中心で警告を受けた人たちのようではないだろうか?

  • イザヤの言葉を通して、わたし自身に警告が与えられているとしたら、わたしはどのようにそれを受け止めるだろうか?


ユダヤ人と救い主との関係性

イザヤの言葉の中にはユダヤ人と救い主との関係性を示唆する言葉が多くみられました。それは、イエス様の役割の大事な側面を示すものでもありました。

主は弁護するために立ち上がり、民を裁くために立たれる。

モルモン書ニーファイ第二書13章13節

主がその裁きの霊と焼き尽くす霊によって、シオンの娘たちの汚れを洗い清め、エルサレムの地をその中からすすぎ清められる……

モルモン書ニーファイ第二書14章4節

万軍の主のぶどう園はイスラエルの家であり、ユダの人々は主が楽しみにして植えられた苗木である。

モルモン書ニーファイ第二書15章7節

それゆえ、主は自らしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を生み、その子の名をインマヌエルと呼ぶ。
※「インマヌエル」とはヘブライ語で「神はわたしたちとともにおられる」の意味

モルモン書ニーファイ第二書17章14節

わたしたちのために一人のみどりごが生まれる。わたしたちのために一人の男の子が与えられる。主権は彼の肩にあり、その名は霊妙、助言者、力ある神、永遠の父、平和の君ととなえられる。

モルモン書ニーファイ第二書19章6節

イエス様はイスラエルの家に対して―ニーファイの言葉の通り自分自身に当てはめるなら、わたしにとって、次のような役割があるようです。

  • (わたしの)弁護者

  • (わたしの)裁判官

  • (わたしの)汚れを洗い注ぐ

  • (わたしを)世話し養い育てる

  • (わたしと)ともにいる

  • すべてを治める権能をもつ御方である

  • 感嘆や喜びの声を挙げたくなるほど不思議な業(奇跡)を行われる御方である

  • (わたしの)カウンセラー

  • 大きな力をもって働かれる御方である

  • (わたしに)命を与える

  • (わたしに)平和をもたらす

ニーファイの勧めに従って自分自身に当てはめることで、このようなイエス様と自分との関係性、イエス様のわたしに対する役割を見出すことができました。さらに深く当てはめられるように次のように自問します。


  • これらの役割は(例えば「弁護者」)、わたしがどのような状況にあるときに重要な意味を持つだろう?

  • イエス様はわたしに対してどのようにその役割を果たしてくださってきただろう?

  • なぜ、イエス様はわたしにそうしてくださるのだろう?


イスラエルの家、ユダの人々にとって(彼らがどのような状態であるかに関わらず)イエス様がこのような御方であるということはとても大切な意味のあることですが、同時にこれがわたしにも当てはまることなのだとすれば、イザヤやニーファイは、わたしが個人的にイエス様と出会うためにとても大切な記録を残してくれたことになります。

ユダヤ人に起こると預言された出来事とその中にある警告と約束

イザヤの預言には具体的な危機が迫っていることを警告する預言が含まれていました。また、その危機に至るまでのユダヤ人の状態についても記されています。(そして実際にこの預言された出来事はその通り起こることになりました)
このイザヤが警告したユダヤ人の状態、選び、その結果として預言された出来事を自分にも当てはめてみます。
まずは、イザヤの預言を簡単に整理してみます。例えばそれは17-18章です。

この箇所ではたくさんの名前や国名が出てくるために読んでいるとちょっと混乱してきますので一覧にまとめてみます。国名や名前が出てくれば横列で同じ対象を指していると理解して差し支えないと思います。

インスティテュート「モルモン書」コーステキストより

ユダとスリヤとイスラエルはともに隣接している国同士でした。スリヤとイスラエルが同盟を結ぶことで、ユダは脅威を感じます。

ときに、スリヤがエフライムと同盟をしているとダビデの家に知らせがあった。それで、王の心も、民の心も、森の木々が風に揺らぐように動揺した。

モルモン書ニーファイ第二書17章2節

背景を調べてみると、これらの三国は大国アッシリアに脅威にさらされていました。スリヤとエフライムはユダと同盟を結んでアッシリア帝国に対して対抗しようとしていました。ユダのアハズ王はその同盟を断ったため、イスラエルとスリヤはユダを攻めて同盟を強制するつもりだったようです。

スリヤとエフライム、およびレマリヤの子は、あなたに対して悪事を企てて言っている。
「我々はユダに攻め上って、これを悩まそう。そして我々のためにこれを分けて、ダビエルの子をそこで王にしよう。

モルモン書ニーファイ第二書17章5-6節

しかし、この脅威に対してユダがとった選択は本来の敵国であるはずのアッシリア帝国と同盟を結ぼうということでした。実際にユダのアハズ王がそのような行動をとったことが旧約聖書の列王記下16章にしるされています。

そこでアハズは使者をアッスリヤの王テグラテプレセルに遣わして言わせた、「わたしはあなたのしもべ、あなたの子です。スリヤの王とイスラエルの王がわたしを攻め囲んでいます。どうぞ上ってきて、彼らの手からわたしを救い出してください」。

旧約聖書列王記下16章7節

しかし、主はユダに対して預言者を通して次のように告げておられました。

彼に言いなさい。気を落ち着けて静かにしていなさい。恐れてはならない。スリヤを率いるレヂンとレマリヤの子が激しく以下っても、それは二つのくすぶっているたいまつの燃えさしにすぎないので、気弱になってはならない。

モルモン書ニーファイ第二書17章4節

さらに主はイザヤを通してアハズ王に次のように告げられます。

主なるあなたの神にしるしを求めなさい。深い所にも、また頭上の高い所にも求めなさい。

モルモン書ニーファイ第二書17章11節

これは危機が目の前に迫り、不安や心配、どうすればよいのかという迷いの中にあって、神様に尋ねなさい、神様の啓示に信頼を寄せなさい、という意味を含んだ勧告だったと理解できます。しかし、アハズ王の答えは、自分で考えます、自分で何とかします、という意味の言葉でした(2ニーファイ17:12)。ニーファイの弟ヤコブの次の言葉を思い出します。

それゆえ、同胞よ、主に助言しようとしないで、主の手から助言を受けるようにしなさい。見よ、あなたがたは、主が、造られたすべてのものに知恵と公正と深い憐みをもって助言を与えてくださることを知っているからである。

モルモン書ヤコブ書4章10節

ユダ王国は主の啓示を拒み、アッシリア帝国に迎合しようという選択によって、自ら衰退することになります。結局はアッシリアの侵略を受けることになります(2ニーファイ18:4-8)。
しかし、それでもなお主は聖約を必ず果たされるということも再び明らかにしておられます。

それゆえ見よ、主は勢いと水量のある川の水、すなわちアッスリヤの王と彼のすべての栄光を彼らの上にもたらす。それはすべての水路にあふれ、すべての堤を越え、
ユダに流れ込み、あふれみなぎって、首にまで達する。おお、インマヌエルよ、彼の翼は伸びて、あなたの国の広がりのすべてを覆う。

モルモン書ニーファイ第二書18章7-8節

インマヌエルとは「神がわたしとともにいます」という意味のヘブライ語です。「翼」という言葉はイエス様の贖いの力について教える単語として聖文ではよく見られます(詩篇63篇7節、マラキ4:2など参照)。翼とは空高くまで運ぶ働きをします。その言葉が象徴しているように、イエス様はわたしたちを高く天にまで引き上げる力をもって助けてくださいます。
「覆う」という言葉とイエス様の贖いの関連について、ラッセル・M・ネルソン大管長は次のように教えられたことがありました。

「旧約聖書」の時代のセム語の「贖い」という言葉を研究すると深い意味が明らかになります。ヘブライ語で、贖罪を表す基本語は"kaphar"という動詞で、意味は「覆う」または「赦す」です(*注釈)。アラム語やアラビア語の"kafat"も近い関係にあり、「親しく抱く」を意味します。……この「抱く」については、「モルモン書」の中にも出てきます。ある人が言いました。「主はわたしを……贖ってくださった。わたしは主の栄光を見た。そして、主の愛の御腕に永遠に抱かれている。」(2ニーファイ1:15)また別の人は「イエスの腕の中にしっかり抱きしめられる」(モルモン5:11。アルマ5:33、34:16も参照)という輝かしい望みを記しています。

*注釈:もし人が(福音の原則と儀式に忠実であることを通して)贖いの祝福を受けるにふさわしくなるなら、イエスは御父に対するわたしたちの過去の背きを「覆って」くださるということを意味していると考えられる。

ラッセル・M・ネルソン「贖い」1996年10月総大会

これはユダヤ人に起こったことですが、やはり自分自身に当てはめられるよう自問してみます。


  • わたしは不安やストレス、危機に直面している時、何から力を得ようとしているだろう?ユダが最終的に自分を滅ぼす「敵」との同盟を求めたように、不安やストレスから逃れるために「誘惑」に身をゆだねていないだろうか?

  • わたしはどんなことについても「主と相談」して「主から助言を受ける」ことを求めているだろうか?それとも、自分の知恵や経験に頼っているだろうか?

  • イエス様は、無鉄砲で先のことを考えず愚かにも主に背くことを選ぶわたしにさえ、憐れみと愛を絶やさずにいてくださるのはなぜだろうか?


これらの「自分に当てはめる」ための質問を尋ねながら、イエス様に焦点を当ててイザヤの言葉を学んでみると、ニーファイが「喜びを感じる」と言っていた気持ちがわかるような気がします。イザヤの預言が以前よりもずっと身近なものになり、イエス様を自分の救い主としてもっと身近に感じさせてくれる聖文だと感じられます。

もちろん、イザヤの預言にはさらに奥深く深く探求するべき教えが隠されているはずです。それらを探求していくこともとても大切なことですが、今回の学びのプロセスで実践したように、イエス・キリストに焦点を当てること、自分自身に当てはめることに集中することは、イザヤ書の核心なのだと感じました。

今日はここまでにしたいと思います。次回の記事では、この記事で自問した質問をきっかけに更にイエス様に焦点を当てて深まった学びを紹介していきたいと思います。

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