見出し画像

ニーファイ第2書11-19章:わたしは〇〇に喜びを感じる〔質問を尋ねる①〕

わたしの聖文研究のプロセスを記事にして公開してみようという試みを始めてちょうど1ヵ月になろうとしています。42歳の誕生日から新しくチャレンジして、なかなか自分の考えていることや感じていることに至るプロセスを言語化するのは難しいなと実感しているところです。
拙い文章であるにも関わらず、この1カ月わたしが当初考えていたよりも多くの方が記事にアクセスしてくださっていることはおっかなびっくりうれし、です。今週も誰かのお役に立てれば、とはじめて行きましょう。

先週はヤコブが旧約の預言者イザヤの言葉を引用して民に教えましたが、今週の「わたしに従ってきなさい」の読書範囲の2ニーファイ11-19章は、ニーファイが引き続きイザヤの言葉を引用して書き記しています。

イザヤの言葉を引用する目的

なぜニーファイは弟ヤコブの言葉とイザヤの言葉をこれほど多くの紙面を割いて記録したのでしょうか?その理由をニーファイが11章で説明しています。ニーファイがこれらの言葉を記した目的を読者に知らせることは、「このことに焦点を当てて読んでね」と示しているようなものです。聖文を学ぶときには、部分を抜き出して解釈したり、その言葉通りに読み取ろうとすると、イエス様の大切な教えを誤解をする可能性があります。聖文を研究する時には、「著者の意図をくみとる」ことを念頭に置くことはおススメの読み方です。

2ニーファイ11章を読んでみると「わたしは〇〇に喜びを感じる」という言葉が繰り返されていることが目に留まります。そしてニーファイが喜びを感じていることは、彼がイザヤの言葉を好んで記録した目的と直接結びついていることがわかります。「〇〇に喜びを感じる」を抜き出して、書き出してみます。

わたしニーファイはイザヤの言葉に喜びを感じるので、もっと彼の言葉を書き記そう。

モルモン書ニーファイ第二書11章2節

見よ、わたしは、キリストの来臨が真実であることを、わたしの民に立証することに喜びを感じる。

モルモン書ニーファイ第二書11章4節

わたしはまた、主がわたしの先祖に立てられた聖約を喜んでいる。まことに、死から人々を解放する、偉大な永遠の計画に見られる主の恵みと公正、力、憐れみを喜んでいる。

モルモン書ニーファイ第二書11章5節

またわたしは、キリストが来られなければすべての人が必ず滅びるということを、わたしの民に立証することを喜ぶ。

モルモン書ニーファイ第二書11章6節

ニーファイは、イザヤの言葉を難解な預言、当時のイスラエルの民に当てはまる預言や警告として読むのではなく、キリストについて知るために読むように勧めているようです。そして、ニーファイは彼自身がイザヤの言葉を読みそこにイエス様を見出すときにワクワクしていたように、それらを読むわたしたちも同じようにイエス様を見出してワクワクし、喜ぶことを想像しながら記録していたようです。

さて、わたしはイザヤの言葉を少し書き記して、わたしの民の中で来られらの言葉を見る者が心を高めて、すべての人のために喜べるようにしよう。さあ、その言葉は次のとおりである。あなたがたはこれらを、自分自身とすべての人に当てはめてみるがよい。

モルモン書ニーファイ第二書11章8節

「著者の意図をくみとって」読むならば、少なくとも以下に心を留めて読むべきだと感じました。

  • 救い主イエス・キリストがわたしたちにとって必要な理由

  • 救い主イエス・キリストが中心に据えられた、すべての人を救う「偉大な永遠の計画」

  • これらを自分自身とすべての人に当てはめながら読む

自分自身に当てはめて読む

「自分自身に当てはめる」とは、わたしにとってイザヤの言葉に限らず聖文を学ぶ際に、それを意義深い経験にする読み方のコツのひとつです。「自分自身に当てはめる」ためにはいろいろな方法があるかもしれませんが、例えばこのようなアイデアを試すことができます。

  • 「わたしたち」「わたし」や「あなた」「あなたがた」「彼」や「彼女」を自分の名前に置き換えて読む

  • 聖文の登場人物や起こった出来事を自分や自分の状態、経験になぞらえて考える

  • 「主は聖文のこの部分から、今、わたしに、何を学び取って欲しいと思っていらっしゃるのだろう」と自問してみる

わたしは生まれた時からクリスチャンの家庭に育ちましたので、聖書やモルモン書の中にある教えをいつも耳にしてきましたし、それらはいつでも手の届くところにあるものでした。しかし、それらが常に身近なものとして感じられていたかといえば、必ずしもそうではありませんでした。

聖書にしても、モルモン書にしてもそれが書き記されたのは何千年も前の出来事ですし、記されている人々はわたしが生きる日本の文化とは異なる文化圏で生きた人々です。聖文を読む時に多くの点で、記されていることが遠くかけ離れたもののように感じられていたかもしれません。
記されていることが自分の生活や自分自身とどう関連しているのか、なかなかピンとこない期間がありました。

聖書やモルモン書が自分の身近なもので、自分の人生に関連して結びついているものだと感じられないため、当然、それらの聖文が証するイエス様を身近で、自分の人生と深く結びついている御方だとはなかなか信じることができませんでしたし、感じることができませんでした。

このように感じていたわたしにとって、一つの特別な劇的な経験によってというよりは少しずつ自分に当てはめられるようになるにつれて、イエス様とイエス様の教えとの個人的な距離が縮まってきたような気がします。
ニーファイが勧めたように、自分自身に当てはめることでイエス様の存在とイエス様が「わたしの」救い主であるということが心に「立証」されるのだと思います。

質問で要約する

ニーファイの意図を念頭に置いて、イザヤの言葉を研究することにします。そのためにまず、以下の質問をガイドにしていきたいと思います。


  • 11−19章の中で、イエス様について直接的に教えている箇所はどこだろう?

  • 11−19章の中で、イエス様について教えている隠れた箇所はどこだろう?

  • 11−19章の中で、イエス様についてどのような呼び名が使われているだろう?

  • 11−19章の中で、イエス様の役割についてどのように教えられているだろう?

  • それらの箇所はイエス様についてわたしに何を教えてくれているだろう?


今日はここまでにします。これらのガイドとなる質問を用いて、要約したことを次回の記事に整理していきたいと思います。ニーファイやイザヤが教えるイエス様がどのようにわたしの個人的な学びの中に現れてくるのか楽しみにしています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?