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溶けて混ざって捨てる。

気付いたら金曜日の夕方になっていた。

先週の週末は思い出せるのに、今週の月曜、火曜、水曜が思い出せない。
木曜は昨日の事なので思い出せる。
確かに過ごしたであろう3日間は何処かへ消えてしまったかのようである。
(実際は仕事をしていました。)

正直言うと今が金曜日というのもあやしく思える。
あと2日くらいあっての土曜日なのではないか…?
明日がいつなのか、そんな事もわからずに日々を過ごしている。

今は京阪天満橋駅のスターバックスにいるけど現実感だけがない。
確かなのは、この後に一件撮影があり、明日には2件の撮影がある。
今週はそれで終わりだが、宿題(パソコン作業)が何個か溜まっているので、帰ったら手を付けなければいけない。

ガラス張りになった店内の側面を眺めていると様々な人が行き交っている。
仕事終わりの人、恋人との待ち合わせ、学校帰りの学生。
店内に目を向ければイヤフォンをして本を読んでいる人、僕と同じようにパソコンを開いて何やら打ち込んでいる人、楽しそうに談笑している2人の女性。

それぞれの人に意識があり、それぞれの人に自らの視点があるのかと思うと不思議な感覚になる。
今は自分が見ている視点で、この店内と窓の外を見ている。
当然の事だけど人の数だけ同じようなファーストパーソンビューが、今この瞬間に存在している。

僕の横を通ってお店を出た男性からは、視界の中に僕が左手に見切れるように店の外の視界になって、横断歩道を渡ったので、足元に横断歩道が見える視界になっていくのだと思う。

想像はできるけど、あの男性ではないので証明することはできない。

そもそも自分が自分である事を、自分だけで自分に証明することは難しい。
どうしたって自分以外の何か(他者であり、誰かの作ったものであり、環境であり、生きている年代など)が関わらないと説明することが不可能だと思う。
自分は自分以外の何かに寄らないと証明ができないのである。

そう思うと、誰かとコミュニ―ケーションを取ることは存在の証明になる。
他者という相手がいないと、自分の発言、想い、感情は存在しないのかもしれない。

分かち合っても、罵りあっても、自分一人では存在しないのだ。
自分から発言した言葉が、誰にも認識される事が無ければ存在しない事と一緒だろう。
誰かの発言に反応して言葉を発することも、元となる言葉が無ければ存在できないだろう。

でも誰もそれに感謝をすることはない。
当たり前に在りすぎるからだと思う。
何か意識しなくても、そこにたくさん存在している。
その真逆は光が差し込まない真っ暗な部屋にずっと一人で閉じこもっていることなのだろう。

光があるから目を通して、いろんな事を認識できる。
文字もそうなのかもしれい。
耳から聞いた言葉を脳内で分かりやすく文章に変換して理解していくのだから。

頭がボンヤリしてきた…
脳が溶けて混ざってそうである。

時計を見ると、仕事の時間が近づいていた。
カップの中の少し残ったコーヒーと氷が解けた水が混じった液体を捨ててから、プラスチックのカップを捨てた。
撮影機材を持って、いつもの視点でお店を出て行った。

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