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まぁ、それは良しとして…

黄砂が原因なのか喉がイガイガする。
この間は目頭のところがピリピリしていた。
これまでなかったのに今年からである。
その事を撮影で一緒になった人に話したら「歳だからじゃない?」と言われたけれど、すぐに否定した。
その時の状況であって、年齢は関係ないだろう。
それに年を取るとアレルギーがひどいという話を聞いた事がない。
まぁ自分が知らないだけかもしれないけれど…
勝手に関係ないと、そう思っております…

最近、美輪明宏さんの話をまとめた動画チャンネルをよく聞いている。
あーなるほど…となったり、やっぱりそうだよな…となったり、納得できる話が多い。
さらにご本人がチャーミングでありながら、世間からみたら跳ねっかえるような考え方をお持ちなところも素敵だなと思う。
やっぱり面白くないと!

その中で1つ気になる話が合った。
終戦当時、美輪さんが銀巴里でシャンソンを歌われていた頃、紫色が好きだった美輪さんは、服装から髪まで全身紫色で有楽町から銀座7丁目まで歩かれた時、軍国主義の人間から石を投げられたという話だった。
ご本人曰く石は当たらなかったと言われていたが、やはり今も昔も人は変わらないのかなと思った。
それと同時に、語られる1つの側面だけで物事を納得してはいけないなと思った。

「昔はこうだった」と過去を美化する年長者がよく言うけれど、その人がその状況にいた事の一部分を語っているだけなので、違う状況の人がいればまた別の事を語る。

また1つの話を簡素化して全ての事と受け取ってはいけない。
細かく別けたうちの1つの事柄としてデータに残して、他の方向から見た話を聞く事で大きな全体像が見えてくるような気がしている。

1つの事を声高に主張することは簡単である。
その反対にいる相手の事を考えなくて済むのだから。
正も負も混在するなかで世の中は成立している。
相手の事を理解したうえで主張する事と、相手の事を理解せずに主張する事は、同じ主張でも全然違う。

それでは議論が進まないじゃないか!
そんな声が聞こえそうだが、当たり前である。
そもそもそんな簡単なら議論は存在しない。
本来議論は、お互いの中間地点を探す行為で、相手を打ちのめすため場ではない。

だから「思いやり」という言葉があるのではないか。

ただ、この思いやりも状況によって増えたり無くなったりする。
そもそも平和がなければ思いやれることもできないかもしれない。
ただ平穏になりすぎると平和が当たり前に思えて、その中で数字で争いだしたりする。
まるで平和と争いをぐるぐる回っているように見えてくる。

ゴールデンウィークで浮かれてしまったのだろうか?
珍しく書いている最中に、思うことを書き殴ってしまった。
まぁこんなだから友達は少ないです。
こんな話ができる人も本当に少ない。

小学校の頃からこんな事を思っていたけど、そんな事を話す同年代はいなかったし、周りに合わせていたけど、結局なじめなかったように思う。
大人になって多少それは変わったかもしれないけど…

まぁそれは良しとして…

今も昔も変わらないのだとしら、何故変わらない事になっているのだろう?
それに何か意味があるのか?とグルグルしながら、撮影の合間を過ごしいるのでした。

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