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価値と失敗

「価値」という言葉はいつ頃から使われるようになったのだろう?
どれくらい昔から使われているか判らないけど、その頃には一つの判断基準になっていたのだと思う。
自分の中での価値は「ある部分では効果があるけど、ある部分では効果がない。だからこの部分では価値がある」のようなニュアンスで心に据えている。
例えばワニが大きな岩を見て「食べることはできないけど、この日陰で休んだら気持ちよさそうだな…」というような事だと思ている。
 
もちろん価値は移り変わることもある。
例えば先ほどのワニが「他にも日陰になるものはありそうだから、あっちに行って食料を手に入れよう」のようなことも起こる。
 
もしそれを所有しているのなら、「他にも日陰になるものはいっぱいあるから、ここを譲るよ。代わりにその食糧と交換して欲しい。」という交換もあり得る。
 
そんな様々な生物の中でも人は「価値」に弱い気がする。
 
人の中には自ら集めてなのか、または受け継いでなのか、必要以上に「価値」のあるものを所有することがある。
人の中にはそれを見て褒めたり、崇拝したり、恨んだり、妬んだりして、心が大きく揺れる事がある。
 
最近では「金銭」や「資産」以外でも、これまであやふやだった「人気」も数値で測れてしまうようになり、多数決以外で人気が測れるようになった。
 
数値で測れるものはみんな判り易くて楽だと思う。
また不安に陥ると世の中が数値に頼る傾向があるような気もする。
わからないもの(不安)は数値で測れると、1つの落とし所になるのだと思う。
仮にダメでも「しょうがないか…」と自らを納得させる事はできるのかもしれない。
 
確かにみんなが判り易くしたものは、誰かに提示するにも、相手を判断するにも楽だと思う。
 
でも本来は千差万別な物事の個性があって、さらにいろんな要素が複雑に絡み合ているから面白い。
 
もし数値でその人の個性を感じれる事ができても、現状ではそれはわずかな気がするし、もっと複雑に表現しないとその人の事を表すことはできないと思う。
そう思うと、結果的に読み取る側は複雑な答えを解読することになる…
 
と、そんな事を仕事帰りのタクシーの中で流れている人をグラフ化してAIが紹介してくれる求人情報サイトのCMを見ながら思っていた。
 
人を雇い人間関係を保ちながら仕事を進めるのは難しい。
その部分はこれまでの経験したことや、知識を外から取り込んで実践することで自らを磨き、あとは直観に頼るのがベストなように思う。
失敗できないのならしょうがないが本来はそれも良い経験である。
 
失敗できない中で生きるのは大変である。
そうなると人の管理もAIにお願いする事になり、もはやロボットになってくれる「人」が必要になってくる。
 
失敗ほど面白くて価値のあるものはないのに…
 
帰宅して電源の入ったパソコンの前で仕事もせずに、まだそんな事をぼんやりと考えていたら日付が変わっていた。
 
相変わらず性格も内容も曖昧である。

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