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日本社会学会への要望書の全文と責任者の公開を望む

溜息が出る。鶴田幸恵さんが日本社会学会へ送ったとする要望書のご本人担当部分が、ネット上で公開された件である。ご本人が非常に辛い生活を送っていらっしゃるようなので少し悩んだが、noteのみならず、XやfacebookやさまざまなSNSに投稿されているようなので、私自身の名誉にもかかわることであり、反論せざるを得ないと判断するに至った。このようなことに振りまわされること自体、非研究生活に非常にマイナスであり、当惑せざるを得ない。鶴田さんだけではなく小宮友根さんにも、私を執拗に批判するのではなく、研究全体が前進するような言動を切に望む。

鶴田さんは、私の論文を「差別論文」だと主張しているが、その根拠はとうてい納得のできるものではない。伊藤公雄会長が取り合わず、「問題があるかどうかは紙面上で議論せよ」という常識的な対応をされたことは、学問の自由が曲がりなりにも担保されていることを示している、とりあえずは安堵している。ぜひ、紙面上で議論していただきたい。

鶴田さんが、私の論文を差別だと挙げている根拠は主に3点である。私の文章を引用したあと、鶴田さんの批判を述べる。鶴田さんの主張をゴシックで表記する。

とくに女湯に関しては,裁判所や医療による認定を介在させない性別変更(=セルフ ID)が犯罪者によって悪用されるという懸念と,ペニスがついているからといって女性扱いしないのは「ペニスフォビア」だという主張との間で,激しい応酬がSNS を中心になされている(p.428)

1)鶴田さんによれば、出典がないので「学術論文の作法上の問題」があるという←そもそも鶴田さんが先行研究(?)として挙げている文章にも、じゅうぶんな出典はないのではないか?さらに言えばそこで引用先として扱いされた一般の人たちが、それこそ学者との「権力勾配」を指摘して、怒っているという問題もある。字数の制限があり、削りに削った論文で、論文では枝葉末節に置かれており、なおかつこのような「自明」な現象に出典が必要だといわれるのであったら、何も書くことはできない。そもそもこの新しい現象に、日本語での先行研究がほぼまだ存在しない。またこういった執拗な批判を恐れて、皆が論文にできないこともその一因だと思われる。いったいSNSで何が燃え上がっているとでもいうのだろうか?引用自体が差別だといわれるトリッキーな状況があるために直接引用は控えるが、ここにある言葉で例えばXを検索したら、大量にそのような言説は出てくる。
2)懸念がフェミニストのものであり、ペニスフォビアと主張するのがトランス権利擁護側に帰属されて(そもそも私は明言していませんが。フェミニストを叩きたいがためにトランス擁護と関係なく主張する人もいたため。それはさておき)、対立があるように書いているのは、差別。法的な性別変更の手続きと、性別でわかれたスペースの利用規(ママ)は、法的には独立の事柄!←それではWiSpa事件やワシントン州のコリアンスパの女湯からペニスがある「女性」の身体を排除できない判決は何だったのだろうか?そもそも性別で別れたスペースが使えないような中途半端な性別変更でよいなら、何のために法的な性別の変更を望むのか。既に職場の女性トイレを使っている経産省のトランス女性が、女性たちが拒否感を示したというトイレを含むすべての女性トイレの使用を求めた裁判(しかも原告が最高裁で勝訴した)は何だったのだろうか。
トランス擁護派は「ペニスが目に入ることを嫌がる他の利用客を非難して女湯への入湯を求める存在」として描くことになる←上田雅子さんには女湯を武力で占拠するとまで言われたし、尾崎日菜子さんも法改正ののちの女湯の入浴を権利だと主張している。そういう主張をないものとして目をつぶる理由がわからない。
鶴田さんは「もちろん、現実にこのような「応酬」があるのなら、そのような描き方をすることも現実の記述だということになるでしょう」とおっしゃっているので、私は現実の記述をしただけだというしかない。判断は皆さんに任せます。

その過程で,女性たちによって生物学的な「セックス」の生得性,とくに「女性は肉体的に男性にはかなわない」といった男女間の身体的差異の絶対性が,再び強固に女性たちによって主張されつつある.(p. 428)

女性の「身体的恐怖と性的トラウマ」は,文学テキストの分析であれば妥当かもしれないが,現実の個々人の性暴力経験の評価としては,いわば「セカンドレイプ」として機能しかねず,流石に賛同することは難しい.(p. 428)

こうした私の記述は、女性にカッコが付いておらず、トランス女性を男性扱いして排除する記述であると強く批判されている。すべての女性にカッコをつけ(るかシス女性と書か)なければ、差別だと学会に要望書を送られるというわけである。それ、私だけではなく、すべての論文に対しても同様の
要望を送られているんでしょうか?

主張されるべきは,トイレや風呂が「公共的に」整備され,何人も排除されず,万人に開かれていなければならないということであり,同時に「プライバシー」や安全が確保され,どのような身体もが,なにものにも脅かされるべきではないこと,そのイシューのために女性とトランスジェンダーは手を携えて連帯可能であるし,連帯すべきということではないか.(p. 429)

ここは小宮友根さんも執拗に批判をされてきた箇所であるが、もしも女性と「トランス女性」と書いていたならば、先の「女性」のカテゴリーからトランス女性を排除しているという主張は、論理的に成り立つとは思う。しかし私が熟考を重ねて、あえて女性と「トランスジェンダー」という言葉を使ったからには、それなりの意味があるのであり、尊重して欲しいと思う。あまりに雑な批判ではないか(すでに小宮さんに対しては、過去のnoteで反論してある)。

私もトランス差別の解消を切に望む研究者のひとりであり、性自認の否定をしているわけでもない。ただ現実にはセルフIDに基づく法的女性の女性スペースの使用の問題が、実際に海外では「社会問題」として生じており、なおかつ日本においても特例法の違憲判決や経産省のトイレ裁判などによって、同様の事態に近づいて行っている。そうしたなかで、制度的な解決を求めながらこの問題について考察すること自体まで差別であるとレッテル張りをされるのであれば、学問はどのような役割を果たすべきだとお考えなのであろうか。

これですべての個所に応えたと思うが、私の要望はむしろ、削除されている「要望内容」の開示である。これらの批判点に基づいて、いったい何を要望されたのか、ぜひ公開していただきたい。研究者に対して「差別」というレッテルを貼ること自体が、極めて慎重になされるべきことだと思うが、さらに処分まで求めるというのであったら(より正確にいえば、何らかの要望をするのであったらであるが、多分、私にかんして何らかの要望をしたのではないかと推察している。それが真実であるかどうかを含めて)、最低限、自らの名前において正々堂々とすべきであろう。

学会にまでこのような文章を送ったのであったら、「出すことを拒」(この一文の意味がそもそも取りにくいが)むことなどせず、全文を文責を明らかにして公開することを望む。それが最低限の礼儀ではないか。

確かに(私の手元のスクショによれば。該当箇所をネットでは探せなかった)「24年間苦しんだ末に人生から追い出した人」だと鶴田さんに苦しみを与えてきた人と共に書かれた文章であるようだ。そうした事情を考慮すれば大変なことかもしれないが、学会に要望書までだし、私の人生に多大な影響を与える言動をされているのであったら、本人の名前と要望の全文をぜひ公開していただきたい。それが研究者の最低限の責務ではないだろうか。

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