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『トランス差別論文に関する日本社会学会への要望書原文』

2022年5月24日、日本社会学会に送った要望書の、私が責任を持って書いた部分を公開します。私の一存では公開できないところ、また次の段落について言うために出すことを拒まれて掲載せざるを得なかった箇所、については省略をします。

私は信頼できる同胞に、この文章を送って見てもらった際に、要望書としては文章が優しすぎ同僚を説得しようとしているようだが、鶴田さんらしいでしょうと言われました。それは本当のことでした。私は、かつて一緒に闘っていたように、もう一度一緒に闘おう、敵を見誤るな、そう伝えたいがために、要望書を出しました。千田さんに対しても、SNSで人格を否定されて、辛い思いをしたことについては十分に理解し、その痛みを共有いたします。

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日本社会学会会長 伊藤公雄殿

『社会学評論』72 巻 4 号に掲載された千田有紀氏の論文に関する要望書

(略)

このたび日本社会学会の学会誌である『社会学評論』72 巻 4 号の公募特集「ジェンダー研究の挑戦」に掲載された千田有紀氏の論文「フェミニズム、ジェンダー論における差異の政治――平等から多様性へ」について、性的マイノリティ研究を専門とする者として看過できない重大な倫理的、学術的問題を生じさせるものであると受け止め、次のとおり要求します。

1. 問題の概要

次の項で示すように、千田氏の論文の第 6 節には、現在の性的マイノリティ研究の水準に照らして許容できない偏った記述が含まれています。また、そうした記述の多くが、学術論文に掲載されるにはおよそふさわしくない、トランスジェンダーに対する差別的なものになっています。

(略)

そのため、千田氏の論文が掲載されたということそれ自体が、日本社会学会で活動する性的マイノリティ研究者、特に若手のトランスジェンダー当事者研究者にとっては、学会への参加や論文投稿を躊躇わせるものであり、ただでさえ脆弱でありがちなマイノリティ研究者の研究活動の基盤を脅かすものです。

また、ジェンダー特集が初めて『社会学評論』誌上の公募特集として組まれ、その巻頭論文としてトランスジェンダーに対して差別的な記述を含んだ論文が掲載されたということは、通常の論文査読の過程で差別的記述を含む論文が掲載されるのとは異なった意味合いがあります。なぜならこの特集によって、日本社会学会におけるジェンダー研究の水準や視座が読者によって理解されることになるためです。

日本学術会議が、提言「性的マイノリティの権利保障をめざして(Ⅱ)――トランスジェンダーの尊厳を保障するための法整備に向けて」において取り上げているような、「トランス女性を女性から排除する言説」は、ネット上でも散見されます。千田氏の論文が『社会学評論』のジェンダー特集の巻頭論文に掲載されたことは、そのような言説に日本社会学会がお墨付きを与えていると理解されかねません。

現在、ジェンダー関連の授業を担当する研究者の間では、ネットで知った「トランス女性を女性から排除する言説」を、そのまま鵜呑みにして意見を述べる学生が少なからず存在することが問題になっています。そのような学生が述べる差別的な意見が、『社会学評論』のジェンダー特集の巻頭論文を根拠とするということになるなら、ジェンダー・セクシュアリティについて教える教員は、大きな問題を抱えることにもなります。

「トランス女性を女性から排除する言説」と社会学研究の関係について言えば、例えば、イギリスの伝統ある社会学の学術誌 The Sociological Review は、2020 年に Trans ExclusionaryRadical Feminism に関する特集号(TERF Wars)を出しています。英語圏では、この問題に対して、学術団体がトランスインクルーシブな運営をすべきであることは当然のこととされています。しかし、千田氏の書いているトランスジェンダーに関する議論は、上記の特集号で取り上げられているような、「トランス女性を女性から排除する言説」の典型的な形式にのっとっています。

英語圏で起こっている言説は、当然日本でも起こっており、そのことは、近年日本でもウェブ上で盛んに指摘されています。フェミニズムの中での差別問題は、人種差別、レズビアン差別、障害者差別など、歴史の中で繰り返されてきており、トランスジェンダー差別も 20 年以上前から指摘されている問題です。

(略)

『社会学評論』のジェンダー特集の巻頭論文が、トランスジェンダーに対して差別的な記述を含むことは、国際的な研究水準に照らして、極めて問題がある状況だと考えます。

また、そうした状況が、トランスジェンダーの当事者研究者だけでなく、若手のジェンダー研究者に与える悪影響も甚大です。トランスフォビックな議論が掲載されてしまったことで、現在若手のトランスジェンダーの当事者研究者、またトランスジェンダー研究者をはじめ性的マイノリティ研究をする研究者は、非常に激しいショックを受けています。ただでさえ性的マイノリティの研究者はハラスメントやマイクロアグレッションの被害に遭いやすい立場におかれがちであるのに、今回の問題は、そうした研究者が安心して学会活動に参加することを大きく脅かすものです。会員の中に現に発生しているこうした被害はただちに回復され、すべての会員が安心して研究活動に参加できる状況が作られなければなりません。

2.要望内容
(略)

3.千田氏の論文の問題

以下では千田氏の論文の 6 節の記述について、トランス女性にとって差別的に見える点について、重要と思われる点から順に指摘します。

3.1. トランス女性の身体の表象
一番の問題は、トランス女性の身体に関する論文中の表現にあります。論文では 427 ページ最終段落で、日本学術会議によって一部のフェミニストにトランス排除の動きがあると指摘されていることが紹介され、続く 428 ページ最初の段落で、その動きの例が挙げられています。その最後に、「女湯」についての次のような記述があります。

とくに女湯に関しては,裁判所や医療による認定を介在させない性別変更(=セルフ ID)が犯罪者によって悪用されるという懸念と,ペニスがついているからといって女性扱いしないのは「ペニスフォビア」だという主張との間で,激しい応酬がSNS を中心になされている(p.428)

まず指摘しなければならないのは、段落冒頭では「そこで」と述べられているものの、この「例」は学術会議提言が示しているものではなく、また同提言が参照している文献(『女たちの 21 世紀』98 号)で示されているものでもないということです。つまり、これは「一部のフェミニストによるトランス排除に関する例」であると千田氏自身が判断して挙げている「例」です。にもかかわらず、こうした「例」がどこにあるのか、文献なり資料なりへの言及が一切なく、あたかも「例」の記述が公知の事実であるかのように扱われています。この点でまず、学術論文の作法上の問題がここにはあります。さらに後述するように、この記述は、女性スペースをめぐって生じている議論を、きわめてトランス女性に差別的な表現によって描くものとなっていると(略)考えます。

千田氏自身が挙げる「例」の表現には次のような問題があります。その記述においては、一方で「裁判所や医療による認定を介在させない性別変更(=セルフ ID) が犯罪者によって悪用されるという懸念」が「一部のフェミニスト」に帰属され、他方で「ペニスがついているからといって女性扱いしないのは『ペニスフォビア』だという主張」がトランスジェンダーの権利を擁護する側に帰属されることで、両者の間にそのような対立があるかのように描かれています。これは双方の議論を相当に歪めて捉えることで、結果としてトランス女性の身体に関するきわめて差別的な表象を再現することになっています。

第一に、「裁判所や医療による認定を介在させない性別変更(=セルフ ID) が犯罪者によって悪用されるという懸念」という記述は、確かに一部のフェミニストによって表明されているものですが、それ自体かなり混乱含みの「懸念」です。「セルフ ID」というのは法的な性別変更の仕組を指す言葉ですが、法的な性別変更の手続きと、性別でわかれたスペースの利用規は、法的には独立の事柄です。

英語圏では、性別で分かれたスペースの運営において、原則としてジェンダー・アイデンティティ(性自認、性同一性)にもとづく差別を禁止する法を持つ国や地域が多くあり、そのもとでトランスジェンダーの人びとはすでに暮らしています。それらの法律ができる前も、またそれらの法律がない地域でも、トランスジェンダーの人びとは、性別で分かれたスペースを利用してきました。そのためこの「懸念」は、人びとの生活からかけ離れたものです。そのような「懸念」によってトランスジェンダーの権利保護に難色を示すことは典型的なトランス排除の言説でもあるのですが、千田氏の論文では、そうした背景への注釈が一切なく、あたかもそれが「もっともな懸念」であるかのように一方の主張を挙げています。

第二に、より問題なのは、「ペニスがついているからといって女性扱いしないのは『ペニスフォビア』だという主張」がトランスジェンダーの権利を擁護する側に帰されていることです。この「主張」の表現は、トランス女性について「ペニスが目に入ることを嫌がる他の利用客を非難して女湯への入湯を求める存在」として描くものになっています。

トランス女性には、性別適合手術済みの人もいれば、手術済みであってもなくても、他人と風呂に入りたくない人もいれば、性被害経験のある人もいます。トランス女性が女湯を利用するかどうかは個別の状況によるものです。

また、性別適合手術を受けることには大きなリスクが伴います。性別適合手術を選択しない/できないトランス女性にも、自らの性器に対する強い嫌悪感を持っている人は少なくありません。そもそも、誰にとっても性器の形状はプライベートなことがらなのであり、とりわけトランス女性は、ペニスが男性の象徴だとされる社会を意識せざるを得ません。トランスジェンダーの権利を擁護する側がそうしたセンシティヴな事柄に無頓着であるかのようなまとめ方をすることは、きわめて暴力的です。

このように、上記引用の記述は、対立する主張の描き方において、一方についてはそこに排除言説に典型の混乱があることが捨象され、他方で「女湯の利用を求める」主張のほうは過度に戯画化されています。もちろん、現実にこのような「応酬」があるのなら、そのような描き方をすることも現実の記述だということになるでしょう。しかしながら既に述べたとおり、千田氏の論文では、トランスジェンダーに関する例を持ち出すときには、何を根拠にそのような記述をしたのかという出典表記が一切ないのです。

前述の日本学術会議の提言でも指摘されているとおり、日本は法的な性別変更のハードルが極めて高いことがトランスジェンダーの人びとの人権を侵害していると言われ、またジェンダー・アイデンティティにもとづく差別を禁止する法も持たない社会です。その中でも、というより日本で法的な性別変更の手続きが定められるずっと以前から、トランス女性は女性トイレや風呂を使って生活してきています。にもかかわらず、根拠を示さずシス女性への攻撃性を持つ存在としてトランス女性を表象することは、トランス当事者らを傷つけ、実際に多くの性暴力に遭っているトランス女性を傷つけ、トランス女性の実際を知らないシス女性の恐怖を煽るという大きな負の効果を生むことになります。そうした問題あるトランス女性表象を、千田氏は自身の言葉で書いた「例」の中で繰り返しているのです。

3.2. 「女性」カテゴリーからのトランス女性の排除
続いて、いま述べたように女性スペースをめぐる議論の問題あるまとめ方とも関連して、千田氏の論文の中では一貫して、「女性」から「トランス女性」を排除して思考を進めているのではないかと思われる表現が用いられていることを指摘します。

まず、上で言及した女湯についての議論のまとめの直後の段落では、次のように述べられています。

その過程で,女性たちによって生物学的な「セックス」の生得性,とくに「女性は肉体的に男性にはかなわない」といった男女間の身体的差異の絶対性が,再び強固に女性たちによって主張されつつある.(p. 428)

ここで「女性たち」と呼ばれているのは、トランス女性の女子トイレ利用や女湯利用などに懸念を示す側の人びとですから、そこにトランス女性は含まれていないことになります。逆に「男女間の身体的差異の絶対性」という表現により、トランス女性が「男」の側に割り振られていることがわかります。

また、その後で清水晶子氏の議論に反論している段落では、次のように述べられています。

女性の「身体的恐怖と性的トラウマ」は,文学テキストの分析であれば妥当かもしれないが,現実の個々人の性暴力経験の評価としては,いわば「セカンドレイプ」として機能しかねず,流石に賛同することは難しい.(p. 428)

ここでも、清水氏の文献では括弧がつけられている「女性」という表現から括弧が外され、トランス女性の女子トイレ利用や女湯利用などに懸念を示すシスジェンダー女性のみを指して「女性」という表現が使用され、その懸念の理由として「身体的恐怖と性的トラウマ」があるという理解が示されています。

さらに、6 節のまとめの段落には、次のような記述があります。

主張されるべきは,トイレや風呂が「公共的に」整備され,何人も排除されず,万人に開かれていなければならないということであり,同時に「プライバシー」や安全が確保され,どのような身体もが,なにものにも脅かされるべきではないこと,そのイシューのために女性とトランスジェンダーは手を携えて連帯可能であるし,連帯すべきということではないか.(p. 429)

ここでは「女性とトランスジェンダー」が対をなすものとして表現され、「女性」がシスジェンダーの女性しか指していないことが明確になっています。実際、論文中で千田氏が引用や他者の議論のまとめ以外で「トランス女性」という表現を用いている箇所は最終段落の一箇所しかありません。そしてそこでも、「暴力の主体は多くの場合,女でもフェミニストでも,トランス女性でもトランス男性でもない」(p. 429)という書き方によって、「女」と「トランス女性」が区別されているのです。

このように「女性」という表現によってシスジェンダー女性のみを指すことは、暗にトランス女性を「女性」ではない何かとして位置づけるという著者の態度を示すことになります。そしてこのことは、トランスジェンダーの人びとの現実の生活を捨象することと深くかかわっています。たとえば「男女間の身体的差異の絶対性」という表現は、性別適合手術を受けているトランスジェンダー、またホルモン治療を続けているトランスジェンダーの「身体」の多様性はもちろん、トランスジェンンダーでなくとも「男女間の身体的差異の絶対性」に疑問を持たざるを得ない人びとの「身体」の多様性を等閑視し、それによって人びとの生活を脅かしかねないものです。

また「身体的」という表現によって指し示される現象は日常実践においてはもちろんこと、学術的にも多様であるはずです。それにもかかわらず、千田氏は何の注釈も、それを根拠づける出典の明記もせず、問題含みな表現を用いたぞんざいなまとめを自身の言葉でおこなうにとどまっています。さらに、「恐怖とトラウマ」をシス女性にのみ帰することは、トランス女性の中にも当然ながら性暴力の被害者も多くいる(NCTE 2015)ことを等閑視し、トランス女性を性暴力の被害者としてではなく加害者としてのみ描くことになります。同様に、すでに述べたとおり、トランス女性はすでに個々の状況に応じて女性トイレや風呂を利用して生活しているのであり、にもかかわらず「女性とトランスジェンダー」を区別することは、そうした現実の生活を離れて、トランス女性を女性スペースの現状にとって異物であるかのように描くことになります。

現在では、ジェンダー・アイデンティティと異なる性別でトランスジェンダーの人びとを呼ぶことは、「ミスジェンダリング」と呼ばれる差別行為として、広く知られるようになっています。ただでさえ自らのジェンダー・アイデンティティを受けとめそれに沿って生活していくことのハードルが高いトランスジェンダーの人びとにとって、自らのジェンダー・アイデンティティを尊重されないことは、心身に大きな悪影響を及ぼすことが明らかになってきているからです。もちろん心身に悪影響を及ぼすかどうかにかかわらず、他者が自ら主張するジェンダー・アイデンティティは当然尊重されるべきであり、それが、脱病理化の歴史からも、学ばれてきたことです。「女性」の中にトランス女性を含めない千田氏の論文の記述は、特定個人に向けられているわけではないとはいえ、トランス女性の女性としてのアイデンティティを尊重しないという有害な態度を示すものになってしまっています。


3.3. その他の典拠の不備と問題
(略)

4.まとめ

(略)

冒頭で述べたとおり、こうした記述はトランスジェンダーとフェミニズムをめぐる現在の研究水準に照らして大きな問題があり『社会学評論』の学術誌としての地位を損ねるだけでなく、トランスジェンダーの当事者研究者に対して、またトランスジェンダー研究者をはじめ性的マイノリティ研究をする研究者に対して、差別的な言動を受けずに安心して日本社会学会における活動に参加することへの大いなる不安を抱かせるものです。伊藤公雄会長が第 94 回日本社会学会大会において示された、ダイバーシティとインクルージョンの推進という課題に逆行することのないよう、日本社会学会としてこの問題に厳正に対処し、私たちの要望にお応えいただけることを切に望みます。

(略)

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