「恋せぬふたり」を観ていると、色んな感情が揺さぶられます
今クールのドラマは北京オリンピックの放送で中断されたりして、次回の展開まで待ち遠しかったドラマがいくつかありました。
「恋せぬふたり」もその中の一つ。「アロマンティック・アセクシュアル」、すなわち他者に恋愛感情・性欲を持たない人を主人公にしたかなりデリケートかつチャレンジャーな内容なのですが、脚本も秀逸ながら、W主演である高橋一生&岸井ゆきのの確かな演技力によって説得力半端ないドラマに仕上がっています。
このドラマを観ていると、これまで当たり前のように異性を好きになって恋愛を経験してきたことって恋愛における悩みはその都度あったにせよ、それすら実は大したことがなかったのかもしれないと、そんな風に思えてきます。
異性を好きにならないということ自体、どちらかといえば恋愛体質だった私はまったく想像できないし、それが分からないということ自体が理解できない部分は確かにあります。でも、逆もしかり。「アロマンティック・アセクシュアル」の人たちは、恋愛感情を理解しろと言われても、それが分からないんですもんね。
岸井ゆきの演じる咲子の親友の女の子が、実は咲子のことが好きだ、つまり友達としてではなく恋愛対象として好きだということに気づいて距離を置くという話も盛り込まれていたのですが、これもまた辛いですよね。いずれにしても、相手が自分を好きでいてくれるというその恋愛感情が分からないわけなので。友達としての”好き”は理解できても、恋愛感情としての”好き”は理解できない。
このドラマの中で印象に残っているのが、高橋一生演じる高橋が言った「誰かを好きにはならないけれど、一人でいたいわけでもない」という言葉。セリフは正確ではありませんが、こんな内容でした。つまり、他者への恋愛感情は抱けないけれど、他者の存在のぬくもりのようなものは求めているということ。決して孤独でいたいわけではないということ。
だからこそ、咲子が言った「私たち、家族になりませんか?」という言葉が2人の同居生活へと繋がったわけで。恋愛をしなくても、幸せになれる道はあるはず。
恋人でも、夫婦でもない。でも、もしかしたら家族としてなら生きていけるかもしれない・・・その未来への道筋を模索しながら生活している2人の前に現れた、咲子とまだギリギリ付き合っていると思い込んでいた同僚のカズ。
ひょんなことから咲子・高橋・カズの3人で同居生活をすることになり、2人のことを理解しようとしながらも、そのうち「恋愛抜きの家族になるの、俺でもよくね?」というカズ。咲子はカズのその言葉の意味もカズの優しさも痛いほど分かるけれど、カズの理想とする家族を一緒に作ることはできないという自分のことも分かっているから、カズとのお別れを選択した。
登場人物たちのそれぞれがそれぞれを想う気持ちが交錯して、こんなに切なない展開もないなーと感じました。
誰かを好きになって、結婚して子供を作って家族を作って・・・そんな流れだけが人生における幸せではないし、そうではなくても幸せになりたいと願う人たちもたくさん存在しているわけで。
今は昔の「当たり前」とか「普通」とかの概念とは違う考え方も認めていこうという時代になりつつはあるけれど、実際自分自身が少数派の方の人間として生きていかなければならないとしたら、かなり苦しいことがたくさんあるはずです。
だからこそ、このドラマの終着点がどこに行きつくのか最後まで見届けたいと思います。
咲子と高橋2人の恋愛しない幸せがどんな形で実を結ぶのか結ばないのか?今から最終回が楽しみです。
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